桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(3)



法則に有る事と無い事


諸行無常(万物流転)の真理の下では、すべてが移ろいゆく仮の存在に過ぎず、咲いた花が散り、生まれた者が滅するのも、散った花が再び咲き、滅した者が再び生まれるのもすべて約束事(決まり)であり、何の不思議もありません。

太陽が東から昇って西に沈み、水が高きから低きに流れるのと同じで、すでに決まっているこの世の法則なのです。太陽が西から昇り、水が低きから高きに流れないのは、この世の法則にないからです。

真理(天地の法則)というものは、全体の調和を保つ為にあります。

この世に諸行無常という天地の法則があるのは、その法則が人間を含め森羅万象にとって最も好都合だからです。

四季の移り変わりや、天候の移り変わりのない方が好都合なら、真理は必ずそうなっています。その代わり、移り変わりのない世界には、生も死もありませんから、私たちもこの世には生まれていません。

私たちが今こうして生きていられるのは、諸行無常という真理のお陰です。その代わり、その真理は、同時に死をも併せ持っています。

生だけでは、すべての調和を保つのに不都合だから、そうなっているのです。

諸行無常の真理は、すべての調和を保つ為に最も都合良く作られている法則ですから、例えば不老不死の仙薬を求めた秦の始皇帝のように、法則にない永遠の命を願っても、法則に逆らって死を拒絶しようとしても、そのような調和を乱す行為は、一切認められません。

それどころか、諸行無常の真理に逆らえば逆らうほど、どうにかしたいという気持ちと、どうにもならない現実の狭間で、自らを苦しめる事になります。

所詮私たちは、お釈迦様の掌から一歩も抜け出せなかった孫悟空と同じで、諸行無常の真理に逆らって生きられる者など一人もいないのです。

すでにそうなると決まっている以上、好むと好まざるとに拘らず、その法則を在るがまま受け入れ、有る事は有る、無い事は無いとうなづく他はありません。


死に苦しみの概念はない


この当たり前の事実から分る事が一つあります。

それは、生死そのもの、諸行無常の真理(変化の法則)そのものには、いかなる苦しみの概念も含まれていないという事です。

決められているのは、「全ては変化する」という天地の仕組みだけであって、「全てが変化する事は苦しい」という感情ではありません。

もし生死そのもの、諸行無常の真理そのものに苦しみの概念が含まれ、死が苦しみを伴うものであるなら、死を苦しいと感じているのは、私たち人間だけではない事になります。

果たしてこの世界に生息するあらゆる生き物たちもみな、死を迎える時、人間が感じているのと同じ苦しみを感じているのでしょうか?

陸海空に生きる犬や猫や野生の動物をはじめ、鳥や魚に至るまで、死を苦しみと感じているのでしょうか?

私たちが毎日頂いているお野菜や、野に咲く草花はどうでしょうか?

もし生死そのもの、諸行無常の真理そのものに苦しみの概念が含まれているなら、野菜や草花たちもみな、死を迎える時、私たちと同じ苦しみを感じている筈です。

勿論、お肉であれお魚であれお野菜であれ、いのちあるものを頂く以上、感謝の念をもって頂くのは当然ですが、人間と同じように、死に対し苦しみを感じているとすれば、今までのように何の抵抗もなくお肉やお魚やお野菜を頂く事は難しくなります。

雑草を引いたり、除草剤や防虫剤を散布する事も出来なくなるでしょう。

それだけではなく、もし諸行無常の真理そのものに苦の概念が含まれているなら、苦しみから救われる道は絶たれ、人類をはじめ、生きとし生けるものはすべて、永遠に死の苦しみを受け続けなければならなくなります。

お釈迦様やイエス・キリストといえども、諸行無常の真理を曲げたり、そこに含まれている死の苦しみを取り除く事は不可能ですから、お釈迦様やイエス・キリストが人類を救済する為にこの世に出られた事も無意味になってしまいます。

勿論、これは仮定の話であって、お釈迦様やイエス・キリストが人類を救済する為に出世された事が無意味である筈はありえません。

つまり、お釈迦様が、四苦八苦の人生から救われる道を示され、イエス・キリストが、自ら十字架を背負い、人類の罪をあがなわれたのは、死そのもの、諸行無常の真理そのものに苦しみの概念が含まれていないからです。

お釈迦様やイエス・キリストの出世は、救いの道が絶たれる事は決してない何よりの証と言っていいでしょう。


死の苦しみは作られたもの


多くの人々はみな、死に対し恐れや苦しみを抱いていますが、お気付きのように、恐れを抱かせたり、苦しめたりしているのは、死そのものではありません。

お釈迦様が四苦八苦として説かれた、生きる事、老いる事、病む事、死ぬ事、そして愛する人と別れる事、会いたくない人と会う事、求めても得られない事、欲望が盛んである事と苦しみとは何の関係もありません。

生まれた者が、やがて老い、病み、死んでゆくのは、諸行無常の世の決まりであり、大自然の摂理に過ぎません。生老病死は、諸行無常の真理の中に組み込まれている仕組みに過ぎませんから、本来、そこに苦というものはありません。

にも拘らず、人間は、それを苦と感じるのです。

何故でしょうか?

不思議な事に、苦と感じる生老病死は、肉眼には見えない細胞レベルでは、日常茶飯事に行われているのですが、それに対して人間は苦しみを感じていません。

もし人間が、細胞レベルの死に対し恐怖を感じるようになれば、安らかな日常生活を送る事は不可能になるでしょうが、幸いな事に、恐怖を感じているのは、肉体と言う目に見える表面的な部分の死に対してだけです。

何故、目に見える肉体の死には恐怖を感じるのに、目に見えない細胞レベルの死には恐怖を感じないのでしょうか?

恐らく、眼に見えない細胞レベルでの死は、肉体を維持し、健康を維持していく為に欠かせない新陳代謝であるのに対し、肉体そのものの死は、自分という存在そのものの消滅を意味するからでしょう。

つまり、健康を維持する為の新陳代謝としての死は好都合であるけれども、自分という存在そのものの消滅は不都合だから、その生を終わらせる肉体の死だけを恐れ、忌み嫌うのです。


死は忌み嫌うべきものか?


お葬式から家に帰り、玄関先に撒かれた塩を踏み、身を清めてから家の中に入る光景をよく見かけますが、何故そのような事をするのかと言えば、死を汚れたものと考えているからです。

しかし、この考え方は矛盾しています。

もし死が汚れたものなら、死と表裏一体である生も汚れたものとなり、赤ちゃんが生まれた時も、玄関先に塩を撒いて清めなければならなくなります。

勿論、そんな事をする人は一人もいません。赤ちゃんが生まれる事は好都合ですから、誰もそんな事はしないのです。

こうして私たちの周囲を見渡すと、至る所で、人間にとって好都合と不都合を分別する心が暗い影を落としているのが分ります。

本来、死そのものは、汚れた事でも、不幸な事でも、忌むべき事でもありません。何度もお話しているように、生ある者が滅するのは、当たり前の事であり、生まれてきた時からの約束事に過ぎません。

この世に生まれてくる時、私達は、「老いる事も、病む事も、死んでゆく事もすべて受け入れる事を誓います」と宣誓してきたのかどうかは知りませんが、その事を承知してこの世に生まれてきたのです。

天地は、人間を苦しめる為に、老いや病や死を与えているのではありません。それが、人類にとって一番よい方法だから、そういう法則を作っているのです。

ところが、私たちは、いつしか天地との約束を忘れ、好都合な生に執着し、不都合な死を忌み嫌い、是非を分別して、自らの手で苦しみの原因を作っているのです。

死を恐れるのも、死を汚れたものと見なすのも、結局、好都合な生に執着し、不都合な死を忌み嫌う心によって作り出された創造の産物なのです。


分別心の罠


もうお気付きのように、死に対する恐れや苦しみは、死そのものによってではなく、死を受け入れようとしない私たち自身の心によって作り出されたものである事が分かります。

何故、老いや病や死が不都合なのかと言えば、いつまでも若くありたい、いつまでも健康でいたい、いつまでも生きていたいという思いに執着しているからです。

若さや健康や生への執着心が強ければ強いほど、それと相反する老いや病や死を不都合と感じる心も強くなります。

自分の立場から、物事を好都合と不都合に色分けする分別心と、好都合な事がいつまでも続くようにという執着心が、老いや病いや死を苦と感じさせているのです。

四苦八苦に数えられる、愛する人と別れなければならない苦しみ(愛別離苦)や、会いたくない人と会わなければならない苦しみ(怨憎会苦)も同じで、愛する人といつまでも一緒にいられる事や、会いたくない人と会わなくていい事は、甚だ好都合です。ですから、苦しみにはなりません。

その反対に、愛する人と別れる事や、会いたくない人と会わなければいけない事は不都合ですから、苦しみとなるのです。

死も同じで、長く生きたいと思っている人にとって、これほど不都合なものはありません。一日でも長く生きられる事は好都合ですから、好都合な生を終わらせる死は、不都合極まりない存在という事になります。

この好都合と不都合が逆転するのが自殺で、生きていく事が大きな苦しみとなり、その苦しみを終わらせてくれる死が好都合となった人は、不都合な生を捨て、好都合な死を選ぼうとします。

いずれにしても、好都合と不都合を分別し、好都合な出来事に執着し、不都合な出来事を忌み嫌う心が、人間を苦しめている元凶である事は間違いありません。

生も死も、諸行無常の真理そのものですから、避ける事も逃げる事も、拒絶する事も出来ません。

死の苦しみは、死そのものに付随したものではなく、その死を在るがまま受け入れられない心が作り出した創造の産物ですから、作り出した本人以外にその苦しみを取り除ける者はいません。

死を不都合だと感じるのも、苦しいと感じるのもみなわが心ですから、その心を変える以外に苦しみを乗り越える道はないのです。

勿論、その道は決して平坦ではありませんが、有り難い事に、すでにお釈迦様をはじめ、先覚者と言われる方々が、その道を歩まれ、心を変える良い手本を示して下さっています。

次回は、叡智の結晶とも言うべき先人の教えをご紹介しながら、先人がどのようにして死の苦しみを克服したのかについて、お話したいと思います。

合掌

平成28年6月24日


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