桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
桜紋の扉 法徳寺の扉 御祈願の扉 汗露水の扉 御法歌 法話の扉 帰郷の扉 升紋の扉
信者を作らない理由法話の小部屋御同行の体験談

病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(2)



諸行無常とは


この世に生きている限り、私たちが必ず従わなければならない法則があります。

宗教人種の違いも、貧富の差も、老若男女の別もなく、万人がいついかなる時も必ず従わなければならない法則とは、諸行無常と呼ばれるこの世の真理です。

諸行無常の理法(大法)を悟られ、仏教を開かれたのがお釈迦様ですが、「八万四千の法門」と言われる仏教を大木に譬えるなら、諸行無常の真理は、大木を支える根に相当します。

「諸行」とは、この世に存在する一切のもの、つまり万物を意味します。ですから、諸行無常とは「万物は無常である」という意味ですが、人間を含め万物が従わねばならない無常の真理とは何でしょうか?

よく「無常とは死ぬ事だ」と言われるお方がいますが、死ぬ事が無常ではありません。否、正確には「死ぬ事だけが無常ではない」と言った方がいいでしょう。

無常とは、文字通り移り変わる事、つまり変化する事です。

即ち、万物は一つの例外もなく変化し続け、それを否定する事も拒む事も曲げる事も逃げる事も出来ないこの世の決まり(法則)、これが諸行無常です。


死だけが無常ではない


菩薩様が、『道歌集』の中で、
  無常とは なくなるものと思うなよ
    春夏秋冬 めぐり来るのに

 と詠っておられるように、ただ死ぬ事だけが無常ではなく、この世にオギャーと生まれてくる事も諸行無常です。

諸行無常と言う真理がなければ、私たちはこの世へ生まれて来れませんでした。生まれて来れたのは、諸行無常の真理のお陰です。

オギャーと生まれた赤ちゃんが、次第に成長していくのも、健康な人が病むのも、病んだ人が健康を取り戻すのも、老い、やがて死んでいくのも、すべて諸行無常という真理の中で生かされているからです。

生きとし生けるものはみな、諸行無常の真理の中で、この世に生まれる縁起によって生まれ、死ぬ縁起によって死を迎えますが、それで終わりではありません。

一度死んでも、再び生まれ変わる縁起によって生まれ変わり、死ぬ縁起によって死を迎え、その後も繰り返し訪れる生の縁起と死の縁起によって、果てしない生死の旅を続けているのです。

生まれてから死ぬまでの人生を「阿吽(あうん)の人生」と言いますが、「阿吽の人生」は、今生の一度限りではありません。

無始以来、幾多の「阿吽の人生」が繰り返され、今生に受け継がれ、更に果てしない未来へと引き継がれていくのです。

私が生まれてくる為には、私の両親がこの世に生まれて来なければなりません。私の両親が生まれる為には、更にその両親(四人の祖父母)が生まれて来なければなりません。

こうして十代遡れば、1024人の父母が、二十代遡れば、104万8576人の父母が、三十代遡れば、10億 7374万1824人の父母がいた事になりますが、そのすべての父母が、諸行無常の真理によってこの世に生を受け、「阿吽の人生」を生きてきたのです。

このように過去から悠久の未来にかけて、命の営みが一度も途切れる事なく脈々と受け継がれ、繰り返されているこの世の有り様を、諸行無常と言うのです。


在るのは流れる時間の変化だけ


諸行無常の真理の中で、過去から受け継がれ、未来へと受け継がれていく「阿吽の人生」は数知れませんが、「阿吽の人生」と言われる生から死までの人生の正体は一体何でしょうか?

例えば、私達は、四季折々の移り変わりを、春夏秋冬と呼んでいますが、春や夏と名付けられた実体を持ったものが存在する訳ではありません。

刻一刻と流れている時間のひとこま、季節のひとこまを切り取って、仮に春と名付け、夏や秋や冬と呼んでいるに過ぎません。

「季節が春から夏に変わりました」と言うと、いかにも春と言う実体のあるものから、夏と言う実体のあるものに変わったようにみえますが、春や夏と呼ばれているものはどこにも存在しません。

そこにあるのは、ただ時間の流れだけです。

その流れている時間のひとこまを、仮に春と呼び、夏と名付けているに過ぎませんから、春という実体を持ったものが死んで、夏という実体を持ったものが新たに生まれた訳ではありません。

それは人間の生死も同じです。

流れている時間のひとこまを捉えて、生と呼び、死と呼んでいるだけで、生と呼ばれ、死と呼ばれているものの実体がそこに在る訳ではありません。

そこに一貫して在るのは、絶えず流れている時間の変化だけです。


生死一如


よく「生は有限であるが、死は無限(永遠)である」と言われるお方がいますが、これは間違いです。もし生が有限なら、死もまた有限なものと言わねばなりません。

何故なら、仏教に「生死一如」(しょうじいちにょ)という言葉があるように、生と死は、切り離す事の出来ない表裏一体のものだからです。

別々のものが二つあるように見えますが、実は一枚の紙をどちら側から見ているかの違いに過ぎません。

生の裏には必ず死が、死の裏には必ず生があり、死の無い生も、生の無い死もありません。

生が流れる時間のひとこまなら、その裏にある死もまた流れる時間のひとこまに過ぎません。

ですから、仮にこの肉体が灰になっても、ただ時間の流れのひとこまを切り取って死と呼んでいるに過ぎません。

よく「肉体は土に帰る」と言われますが、まさにその通りで、肉体を組成していた縁起が、肉体を消滅させる縁起に変わって土に帰っていくだけです。

時間の流れが止まる事はありませんから、死んで土に帰っても、再び生の縁起によって、新たないのちが肉体を与えられ、この世へ生まれてきます。


有るようで無く、無いようで有る存在


私たち人間を含め、森羅万象を形作っている縁起は、諸行無常の真理の中で刻一刻と変化し続けています。

私たちは、固定的な実体を持った存在として生きているのではなく、様々な縁起によって変化し続け、「有るようで無く、無いようで有る」存在としてのみ生きる事を許されているのです。

般若心経の中に、「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」(注1)と説かれているように、万物は、固定的に存在しているように見えるけれども、実は絶えず変化しながら移り変わってゆく仮の存在として生きているに過ぎません。

例えば、一時間前の私と今の私は、外見上は全く変っていないように見えますが、私の肉体細胞は間違いなく変化し続け、一時間だけ老化し、死の縁起に近づいています。

刻一刻と変化している諸行無常の真理の中では、変わらないと言える固定的な実体を持ったものは、私を含め一切存在しません。

ですから、一時間前の私はもうここにはいません。ここにいる私は、一時間前とは別の私です。

否、一時間どころか、一秒前の私と、今の私と、一秒後の私でさえ、みな別人です。

別人と言われて驚かれたかも知れませんが、人間を形作っている約60兆個の細胞は、諸行無常という真理の中で、刻一刻と変化し続け、絶えず新陳代謝を繰り返しており、別人であるのが当然なのです。

こうしている間も、古い細胞は、常に新しい細胞と入れ替わっています。

胃の細胞は五日、肌の細胞は二十八日、筋肉や肝臓は六十日、血液は四ヶ月、骨は三年周期で新しく生まれ変わり、細胞レベルでは、五〜七年の周期で、すっかり生まれ変わっているのです。


宇宙生命の新陳代謝


目に見えないところで行われている為に気付いていないだけで、肉体を組成している細胞は、毎日一瞬の休みもなく新陳代謝(生死)を繰り返し、全体としての肉体を生かし続けているのです。

肉体の死によって、初めて死を迎えているように見えますが、肉体を形成している60兆個の細胞は、片時も休み無く生死を繰り返しています。決して、肉体の死によって初めて死を迎える訳ではありません。

宇宙の隅々にまで普く遍満し、果てしなく続く命の時間の流れ(宇宙生命)を、小宇宙と言われる私たちの肉体に譬えるなら、私たち一人一人は、肉体を形作っている一つ一つの細胞です。

60兆個の細胞が、肉体の中で絶えず変化しながら、新陳代謝(生死)を繰り返しているように、私たちもまた、果てしない命の時間の流れ(宇宙生命)の中で、絶えず変化してやまない細胞の一つとして生存しているに過ぎません。

私たちの生死は、宇宙全体から見れば、絶え間なく繰り返されている生命活動の現われであり、宇宙生命の新陳代謝そのものと言っていいでしょう。

これが、生死の正体であり、諸行無常の真理の下で生きる事を選んだ私たちが守らなければならない法則です。


刹那の中の人生


仮に一秒毎に今の私が新しい私に生まれ変わっているとすれば、僅か一分間の内にさえ、六十人もの私が生まれ、死んでいる事になります。

その六十人の私の内、どの私が本当の私なのでしょうか?

勿論、どの私も正真正銘の私であり、私でない私は一人もいません。

しかし、その六十人の中で同じ私は一人もいないのです。

これが、諸行無常という真理の下で、「有るようで無く、無いようで有る」存在としてのみ生きる事を許されている私たちの姿です。

言い換えれば、そこに居る私は、私であるように見えて、どの私も私でない私であり、同時に私でないように見えて、どの私も私である私なのです。

いま「一分間の中にさえ六十人もの私が居て、しかも、同じ私は一人も居ません」と言いましたが、諸行無常という真理の中では、一秒どころか、一瞬(刹那)の中に私の生死があり、「阿吽の人生」があります。

変化するものには、一瞬という刹那の中にさえ必ず生死があります。生死がないものには、変化も命もありません。

変化こそが、生きている何よりの証なのです。

生まれてから死ぬまでの七十年、八十年余りの人生を、「阿吽の人生」と呼ぶなら、「阿吽の人生」は、一瞬(刹那)の中にあると言っていいでしょう。

まさに「一瞬(刹那)の人生」です。

今の一瞬(刹那)の中にも、次の一瞬(刹那)の中にも、その次の一瞬(刹那)の中にも、違う私の「刹那の人生」があります。

こうして私たちは、無始以来、一瞬一瞬の生死を繰り返しながら、数限りない「刹那の人生」「阿吽の人生」を生きてきたのです。

合掌

平成28年6月13日


病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(1)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(2)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(3)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(4)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(5)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(6)
法話の小部屋Topへ


このエントリーをはてなブックマークに追加

サイト内検索 help
 


法徳寺の草花と自然

ソメイヨシノ

サツキ(皐月)
(花言葉 節制)

 


法話の小部屋Topへ


 

道歌集

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注1)「色(しき)は空(くう)に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空であり、空は即ち是れ色である」とは、万物は、変化しない固定的な存在ではなく、変化し続ける流動的な存在であり、「有るようで無く、無いようで有る」仮の存在に過ぎないという意味。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


高野山法徳寺(たかのやまほうとくじ) TEL:0551-20-6250 Mailはこちらから
〒408-0112 山梨県北杜市須玉町若神子4495-309 FAX:0551-20-6251 お問合せフォーム