桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。

 

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病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(1)



スピリチュアルケアの必要性


先日、某テレビを見ていたら、末期がんで闘病中のご住職を紹介する映像が流れていました。

このお方は、真言宗豊山派に属する栃木県益子町にある西明寺(さいみょうじ)のご住職で、かつて東京都中央区築地にある国立がん研究センターで、進行がんの専門医を務めておられた田中雅博さんというお方です。

前住職が亡くなられた後、がんセンターを退職して西明寺の住職となられ、「普門院診療所」という名前の診療所を寺内に開設して、地域医療に携わってこられましたが、昨年10月、末期のすい臓がんが見つかり、余命宣告を受けられました。

現在、抗がん剤治療を受けておられますが、来年3月の誕生日を迎えるのは、非常に厳しい状況にあるとのお話でした。

長年、僧侶と医師の一人二役で、末期がんの患者さんの心のケアにも取り組んでこられ、その体験を活かしながら、ご自身の末期がんとも向き合いつつ、患者さんの心のケアを続けておられますが、国立がんセンターに務めておられた時、よく患者さんから「私は治りますか?」と尋ねられたそうです。

進行がんは治すのが非常に難しく、「残念ながら治す事は出来ません」と答えるしかない虚しさ、悔しさを味わうと共に、モルヒネなどで痛みは抑えられても、死の恐怖や死の苦しみを取り除く事の出来ない医学の限界を思い知らされたそうです。

自宅で死を迎えるのが当たり前だった昔とは違い、現在は病院で死を迎えるお方が大勢おられ、死と向き合わざるを得ない患者さんの心のケアが求められているにも拘らず、医学的知識だけでは、死に直面している人たちの心を和らげられないばかりか、医師や看護師の仕事が余りにも多忙なため、「いのちの苦しみ」「死の苦しみ」を緩和する「スピリチュアルケア」に時間を割いている余裕も無い現状に、長年疑問を抱いてこられました。

確かに今までの医学は、いのちをどう延ばすかという延命治療ばかりに関心が集まり、いのちをどう生き、死とどう向き合うかという心のケアには全く無関心であったような気がします。

そんな中、自らも末期がんを患い、今まで取り組んでこられた「死の苦しみ」「死の恐怖」を緩和する「スピリチュアルケア」を一層推し進める必要性を痛感しておられるというお話でしたが、僧侶の一人として深く考えさせられました。


健康な内にこそ心の準備を


死とどう向き合い、「死の苦しみ」「死の恐怖」をどう乗り越えるかは、お釈迦様が2500年以上も前に出家を決意された動機(注1)の一つですが、お釈迦様ならずとも、この世に生を受けた者にとって、「死の苦しみの克服」は永遠に付いて回る人生最大の課題と言っていいでしょう。

お釈迦様の時代とは比較にならないほど驚異的な発展を遂げている現代ですが、残念ながら、私たちの前に立ちはだかる「死の苦しみ」「死の恐怖」という巨大な壁は、今も2500年前も全く変わっていません。

当たり前と言えば当たり前かも知れませんが、「死の恐怖の克服」は、一人一人が自らの問題として、一刻も早く解決の道を見出しておかなければいけない喫緊の課題である事は言うまでもありません。

誰もが遅かれ早かれ必ず死という現実に向き合わなければならない以上、「死の恐怖の克服」は早いに越した事はありませんが、末期がんにでもならない限り、自己の死と向き合うのは、口で言うほど容易ではありません。

ご承知のように、シリアやイラクでは、毎日のように無差別テロで多くの人々が犠牲になっていますが、テレビに映し出される映像を見ていても、まるで戦争映画でも見ているかのような錯覚さえ覚えるのは、死というものが、自己の死と直結せず、まだどこか他人事のようにしか感じられないからではないでしょうか。

必ずやってくる死と向き合い、その苦しみを克服する道を模索しておかなければいけない事はみんな分っている筈ですが、頭で分っているからと言って、現実に死と向き合える訳ではなく、健康な人にとっては、まだまだ遠い未来のいつかに過ぎないのが現実です。

しかし、余命あと数ヶ月と言われてから、死と向き合い、死の恐怖を克服する道を模索していては、やはり遅いのです。

「死の恐怖の克服」は幾ら早くても早すぎる事はありませんし、決して無駄にはなりません。

まだ健康だからではなく、いま健康だからこそ、健康な内に、その日の為の心の準備をしておく事が肝要ではないかと思います。


仏縁を頂く有り難さ


有難い事に、私は、僧侶という立場上、常に死というものについて考えさせられる仏縁を頂き、また死について法話をする機会も少なくありません。

先ほどもお話したように、お釈迦様が出家を決意されたのは、死を前にして為す術もなく翻弄され、「死の苦しみ」「死の恐怖」に慄いている人々の有様をご覧になった事が動機の一つだと言われています。

菩薩様の『道歌集』の中に
  人よ人 死を見て悲しむことよりも
    死のあることを 忘れるな人

 という法歌がありますが、死が必ず有る事の現実を直視され、死の恐怖や苦しみを克服する道を求め、あらゆる難行苦行に挑まれたのが、お釈迦様でした。

そして、ついに「死の苦しみ」「死の恐怖」を克服する道を悟られ、当時としては宗教革命と言っても過言ではない仏教を開かれたのです。

仏縁を頂くという事は、取りも直さず、死の苦しみを克服されたお釈迦様のお悟り(仏法)に触れるご縁を頂くという事であり、私を含め、いま仏縁を頂いておられるお方は、まだ仏縁を頂いておられないお方に比べ、死の問題と向き合える機会も、死の苦しみを克服する機会にも恵まれていると言っていいでしょう。

今わが国では、29秒に一人が生まれ、26秒に一人が亡くなっています。

少子化が加速度的に進んでいる事はこの数字を見ても明らかですが、いずれにしても、29秒の中に入っている私たちにとって、死は決して他人事ではありません。

今まで医師であり僧侶でもあるという立場から、多くの末期がんの患者さんの死と向き合い、心のケアを続けてこられた西明寺のご住職も、いまご自分の死が間近に迫ってきている状況の中で、「死の苦しみ」をどう克服するかと言う人生最大の難問に直面しておられる訳ですが、これは、ご住職だけの問題ではなく、私たち一人一人が克服しなければならない問題でもある事を深く心に刻んでおかなければなりません。


臨死体験から得た結論


以前、当ホームページの「あなたが生きる道」でも述べたように、ジャーナリストの立花隆氏は、医師から死を宣告されたにも拘らず、再び息を吹き返した数多くの臨死体験者を取材され、死後の世界の解明に挑まれましたが、その結果、「あの世が有るのか無いのか結局のところはよく分からないという結論に到達した」と、その著書『臨死体験』に書いておられます。

しかし、同時に分った事が二つあるとも書いておられます。

一つは、死ぬ事が怖くなくなった事、もう一つは、死はいつか必ず来るのだから、生きている内はそんな事を考えずに、いかに生きるかを考えなければいけないという事です。

その境地に到達されたのは、体験者の取材を続け、体験者がほとんど異口同音に、死ぬのが恐くなくなったと言うのを聞いている内に、死というものの正体が、それほど恐怖に満ちたものではない事が分ってきたからですが、これは、死に対する恐怖心を克服する上で、非常に興味深い話だと思います。

何故なら、結局、死への恐怖心を克服する為には、死の正体を見極め、その上で自分自身を納得させる以外にはないからです。

立花氏が「いつの間にか私も死が恐くなくなってしまった」と書いておられるのは、数多くの臨死体験者の体験談を聞いている内に、自らもその体験談に納得出来たからに違いありません。

言い方を換えれば、『臨死体験』は、立花氏自身が死に対する恐怖心を克服する為に書いた書であり、死の恐怖を克服するまでに辿った道のりを綴った求道の書と言ってもいいでしょう。

勿論、立花氏が納得出来たから、私たちも『臨死体験』を読めば納得出来るようになるのかと言われれば、そう簡単ではありません。

しかし、少なくとも同氏の体験が、死を克服する上で、一つの示唆を与えてくれている事だけは間違いないでしょう。


死とは何か?


お釈迦様は、「人生は苦である」と説かれ、その苦を「四苦八苦」という言葉で表現されました。

「四苦八苦」の「四苦」とは、「生・老・病・死」という四つの苦しみの事です。

「八苦」とは「八つの苦しみ」ではなく、生老病死の「四苦」に、愛する人と別れなければならない愛別離苦(あいべつりく)、会いたくない人と会わなければならない怨憎会苦(おんぞうえく)、欲しても思うように得られない求不得苦(ぐふとっく)、様々な欲望に縛られて生きなければならない五陰盛苦(ごおんじょうく)を加えたものです。

この中で最大の苦しみが、自分と言う存在が無くなる死の苦しみで、お釈迦様が出家を決意をされた動機の一つでもあります。

しかし、「では人生最大の苦しみである死の正体について、どこまで知っておられますか?」と問われ、即座に答えられるお方が果たして何人おられるでしょうか?

恐らく殆どの方が、肝心の「死の正体」を知らないまま、ただ漠然と「死に対する恐怖心」を抱き、「死とは怖いものだ」と思い込んでおられるのではないでしょうか?

化け物の 正体見たり枯れ尾花(注2)

この俳句のように、怖い、恐ろしいというイメージを持っていると、何でもない事まで恐ろしいものに見えてきます。

死も同じで、その正体を知らないまま、「怖い、恐ろしい」というイメージだけが先行してしまっているような気がしてなりません。

勿論、臨死体験者を除き、死は一度きりの体験であり、その正体は体験してみなければ分りませんが、いずれにしても、死の正体が分らなければ、死の恐怖を克服する道も見えてきません。

そこで次回は、お釈迦様のお悟りから見えて来る「死とは何か」「死の正体」について考えてみたいと思います。

合掌

平成28年6月3日


病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(1)
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(注1)釈尊の出家の動機を伝える『四門出遊(しもんしゅつゆう)』の説話によれば、王子であったシッダールタ(釈尊)は、お城の東門を出たところで老人、南門で病人、西門で死人をご覧になり、老、病、死の苦しみから逃れられない人間の赤裸々な姿に直面され、それ以来、一人物思いに耽るようになりました。ところが、或る日、北門を出たところで出家者と出会い、その清楚で威厳に満ちた姿に感動したシッダールタ王子は、自らも苦しみから解脱する道を求めたいと、出家を決意されたと言われています

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

道歌集

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『臨死体験〈上〉』
著者:立花隆
文藝春秋 (2000/03)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注2)江戸時代の俳人、横井也有(よこいやゆう)の詩文集、「鶉衣」(うずらごろも)にある俳句。恐怖心があると、何でもないものまで恐ろしいものに見え、正体を知れば、恐ろしいと思っていたものが何でもなくなるという意味。

 

 

 

 

 

 

 

 


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