桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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生きる目的を見失ったあなたに(8)



人生の良きパートナー


自分自身の生き方や考え方を変えると言いましても、変える為には、変えるきっかけや動機がなければなりませんが、そのきっかけや動機となるのが、実は私達にとって甚だ不都合な迷いや苦しみなのです。

生きる目的を見失っているあなたに(5)」で述べたように、草花には迷いがありませんから、その生き様はたくましく、常に迷いの中にある我々人間から見れば、羨ましくさえ感じられます。

しかし、迷いや苦しみがないという事は、裏を返せば、進歩がなく、それ以上の成長がないという事です。

人間は、迷いも苦しみもしますが、迷い、苦しむからこそ進歩も成長もしてゆけるのです。迷いや苦しみがあるからこそ、お悟りの世界にも生まれ変われるのです。

菩薩様が、『道歌集』の中で、
  苦しみを 悲しむことより喜べよ
    深き悩みが 菩提(さとり)となるなり
  苦しみが あるから菩提(ぼだい)の花が咲く
    苦をもつ人こそ しあわせなりけり
 と詠っておられるのは、その為です。

「高原陸地に蓮華を生ぜず」と言われるように、み仏が、清らかな水の中にではなく、あらゆる汚物が流れ込む汚泥の中に根を張って育つ蓮華を台座としておられるのは、人生の迷いや悩み苦しみが大きければ大きいほど、悟りも深くなるみ仏の心を象徴しているからです。

確かに迷いや苦しみは、人間にとって厄介な存在ではありますが、同時に、自分自身を変えるきっかけを与えてくれる有り難い存在でもあります。

迷いや苦しみがなければ、お悟りもありませんし、彼岸・極楽へも行けません。迷いや苦しみがあるお陰で、人間の可能性は無限に拡がっているのです。

路傍の石や雑草にさえ、それぞれの役目があるように、迷いには迷いの、苦しみには苦しみの果たすべき役割があります。

それ故、迷い苦しみのマイナス面だけを見て忌み嫌ったり、避けたりするのではなく、自分を変えてくれる良きパートナーとして在るがまま受け入れ、悟りに変えていく知恵を身に付ける事が大切なのではないかと思います。


生活の道具に迷わされるな


お四国八十八ヶ所霊場を巡るお遍路さんが被っている菅笠に、「迷故三界城、悟故十方空、本来無東西、何処有南北」(めいごさんがいじょう、ごこじっぽうくう、ほんらいむとうざい、がしょうなんぼく)という言葉が書かれているのを、ご覧になった事があると思います。

これは、「迷うが故に三界は城なり、悟るが故に十方は空なり、本来東西は無く、何れの処にか南北有らん」と読みますが、迷いと悟りの違いをよく現しています。

例えば、北の方角を向いている私から見れば、右に居る人は東に、左に居る人は西に居る事になりますが、私が右に居る人の右側に立てば、今まで東に居た人は、西側になり、自分の立ち位置によって、東に変わったり、西に変わったりします。

何故こんな事が起きるのかと言えば、方角と言う概念は、私の立ち位置が変わっても決して変わらない絶対的、普遍的なものではないからです。

方角は、地球上に生きる我々が、便宜上そう決めたものに過ぎませんから、地球上でしか通用しません。

赤道を緯度0度として、北側を北緯、南側を南緯で現し、更にイギリスのロンドンにあるグリニッジ天文台を通る子午線を経度0度(本初子午線)として、東側180度を東経、西側180度を西経で現すと決めたのも、起点を決めておかないと、地域や国によって位置の表示や時間がバラバラになるからです。

このように、私達が日常当たり前のように使っている方角や時間、暦などというものは、すべて本来はどこにも存在しない架空の概念であって、便宜上作られた謂わば生活の道具(生活の知恵)に過ぎません。

ところが、便宜上から生まれた生活の道具に振りまわされて、右往左往しているだけでなく、不幸な結果を招いているのが、私たち人間なのです。

勿論、方角、時間、暦という概念がなければ、人類が現在のような高度な発展を遂げる事は不可能だったでしょうから、無かった方がよかったとは言えません。

しかし、正しい使い方をすれば、人類に多大の恩恵をもたらす文明の利器である自動車が、一度その使い方を誤れば凶器にも変わるように、方角、時間、暦という概念を作って便利になった反面、それに振り回されて不幸を招いているのでは、何のために作り出した生活の道具なのか分りません。

迷いや苦しみも同じで、迷い苦しみがなければ、人生はもっと豊かで幸せになっていたかと言えば、そうとは言えません。また、迷い苦しみがあるから幸せになれないのかと言えば、そうとも言えないのです。

要は、迷いを邪魔者扱いするのではなく、幸せの糧としていく知恵を磨き、悟りに変えていく事が大切なのです。

薬にもなれば毒にもなる可能性を秘めている迷いや苦しみを、人生を豊かにする為に使う事も出来れば、人生を貧しくする為に使う事も出来ます。

勿論、迷いや苦しみは、薬として人類の幸福に役立てられる為にこそあるものであり、そこに迷い苦しみの本来の役目がある筈なのですが、害を与える毒として使っている人々が少なくありません。

薬として活用する手立て(方法)は、仏法の中にしか説かれていませんから、仏法を知らなければ、迷い苦しみを薬として活かす事は難しいでしょう。


慈悲ゆえまたも思いまどいつ


判断に迷い、進むべき道に迷い、様々な事に迷うのは、自らが招いた結果であり、自業自得と言ってもいいでしょうが、実はそう言い切れない場合もあります。

『道歌集』の中に、
  思わねば よいと思えどみ仏の
    慈悲ゆえまたも 思いまどいつ
 と詠われているように、自ら迷うのではなく、み仏の慈悲心によって迷わされる場合があるのです。

み仏は、私達をお悟りの世界に生まれ変わらせたいと願い、因縁を解いて救われて欲しいと祈っておられます。しかし、それを実現する為には、どうしても動機付けとしての迷いや苦しみが欠かせません。

そこで、み仏は、あえて私たちを迷わせ、苦しめ、悶々とさせるのです。

迷い苦しみがなければ、お悟りの世界を求める心も起せませんし、救いの世界を見る事も出来ませんから、み仏は、私たちに迷い苦しみを与え、どうしても悟りの世界に進まざるを得なくなるよう、仕向けられるのです。

例えば、時として甚大な被害をもたらす台風ですが、同時に、大量のゴミによって汚されている海の大掃除をしてくれる存在でもあります。

台風によって海が荒れ狂うからこそ、海水が攪拌されて、海に漂っている様々なゴミが海岸に打ち上げられるのです。

人間も同じで、様々な迷いや苦しみがあるからこそ、知らぬ間に溜まっている心の汚れを洗い流させて頂けるのです。

迷い苦しみは、一見不必要で不都合なものに見えますが、私達がより良く生きていく為には欠かせないものでもあります。


迷いを悟りに変える智慧ー仏法


私達にとって欠かせない迷い苦しみではありますが、何もしなければ迷い苦しみは無くなりませんし、何も変わりません。

迷いは、私達の救いにとって欠かせない、より良きパートナーですが、より良きパートナーとするのも、悪しき邪魔者とするのも、私達自身の手にかかっています。

何もしなくても、迷いさえあれば、誰も彼もがみなお悟りの世界へ生まれ変われる訳ではありません。迷いがお悟りに変わって初めて救いの世界が見え、迷わされている事の意味も分かってくるのです。

迷っているだけでは、永遠にお悟りの世界(極楽浄土)へは行けませんし、迷いをお悟りに変えなければ、迷いは永遠に続いていくだけです。

迷い苦しみの世界を六道と言い、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上」という六つの世界がありますが、この六道は、円の世界ですから、終わりがありません。

その果てしなく廻り続ける六道輪廻の人生に終止符を打ち、円の外に飛び出す為には、どうしても迷いをお悟りに変える必要があり、迷いをお悟りに変えてくれる智慧の結晶とも言うべき仏法が欠かせないのです。


罪と功徳の岐れ道


何度もお話しているように、仏法には、左右どちらの道へ進めばよいのかという判断(判定)はありません。

判断しないのは、絡まった因縁(縁起)の糸を解きほぐさない限り、右へ行っても、左へ行っても、何も変わらないからです。

「どちらの道を選んだ方がいいのかではなく、先ず自分自身が背負っている因縁を解いて下さい」と、繰り返しお話しているのはその為です。

大切な事は、絡まった因縁の糸を解いて、在るべき本来の姿に戻してあげる事です。そうすれば、自分自身の立ち位置が分り、進むべき道も自ずと見えてきます。

因縁さえ解ければ、どちらへ進むべきかの判断が出来るようになります。

しかし、因縁を解かぬまま、どちらへ行けばいいのかを判断するだけなら、絡まった因縁は背負ったままですから、何も変わりませんし、確固たる判断も出来ません。

例えば、他人に貸したお金が返って来なかったら、皆さんはどう対処しますか?

貸したお金は、返ってくるのが当たり前です。予定通り、お金が返って来れば、腹を立てる必要もありません。

しかし、返ってこなければ、腹を立て、罵詈雑言を浴びせ、身と口と心で、悪しき様々な因縁を作るかも知れません。

折角人にお金を貸してあげて功徳を積んだのに、功徳どころか、腹を立てて罪を作っているのでは、何のためにお金を貸してあげたのか分かりません。

しかし、もし「貸したお金が返らないのは何故だろう?」と疑問を持ち、心を落ち着けてその真相を悟ってみれば、全く違う世界が見えてくるかも知れません。


天地の計算狂いなし


貸したお金が返らないのは、そこに何らかの因縁があるからです。その因縁とは何でしょうか?

御法歌『頼め彼岸へ法のふね』の中に、
  他人のために 損しても
    それで前生の 借り果たす
    天地の計算 狂いなし
 という歌があるように、人に貸したお金が返らないのは、もしかすると、前の世に借りたお金を返していなかったのかも知れません。

勿論、前の世の事は誰にも分りませんし、「借りていたかどうかも分らないのに何故そんな思い方をしなければいけないのか」と、いぶかしく思われる方もいるでしょう。

しかし、因縁を解く上で大切な事は、返らないという結果をどのように受け止め、どのように悟りに結びつけていくかという事です。

勿論、「お金が返らないのは、返さない相手が悪いからだ」と言って、相手に全責任を押し付け、腹を立て、非難する事も出来ます。世間的には、そうしたからと言って、誰からも文句を言われる事はありません。

しかし、返らない事には必ず因縁がありますから、もし因縁を知っていれば、「返らない責任は自分にもある。先ず自分が過去の因縁を解かなければ、返る筈のお金も返らない」と悟っていく事も出来るのです。

そして、前の世の借りをこの世で返す時が来たのかも知れないと納得出来れば、「 天地の計算狂いなし」という言葉が、心の奥底にストンと落ちてくる筈です。

そう悟る事が出来れば、相手を憎む心も消え、「前の世でお借りし、有り難うございました」という感謝の気持ちが湧いてきます。

「貸したお金が返らないのは、いまが過去の因縁を解く(過去の借りを返す)又とない機会なのだ」と悟らせて頂き、貸し借りを清算させて頂けば、絡まっている因縁が解けていくのです。

しかし、悟る事が出来なければ、いつまでも損をしたと言って、貸した相手を恨みながら、また新たな輪廻の業を作っていく事になります。

もし因縁が解けない内に、お金が返ってきたとすれば、幾らお金を返してもらっても、また形を変えた別の因縁によって苦しまなければなりません。

人生には様々な悩み苦しみが付いて回りますが、もし不都合な悩み苦しみを頂いた時は、「いまここで因縁を解きなさいというみ仏のお指図だ」と悟らせて頂き、更に精進させて頂けばいいのです。

合掌

平成28年5月28日


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