桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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生きる目的を見失っているあなたへ(6)



菩薩様のご説法


仏法による救済とはいかなるものか、占い・霊感による判断と何が根本的に違うのかについて、一つの事例を挙げてお話したいと思います。

もう二十五年以上も前になりますが、菩薩様が高知県窪川町にお住まいのご同行(注1)、S・Fさんのお宅にご説法に行かれた折の事です。

ご説法の後、菩薩様は、お参りされた皆様の様々な悩み事の相談に乗っておられましたが、その中に、若い女のお遍路さんが一人おられました。

四国霊場を巡拝している途中、たまたま善根宿(注2)のお接待をしておられたS・Fさんと知り合い、菩薩様が法話に来られる事を知り、悩み事の相談をしたいと、菩薩様が来られるのを待っておられたのです。

そのお遍路さんは、出家して尼僧になるべきか、出家を諦めて結婚すべきか、自ら決断出来ずに迷っておられ、どちらに進んだらよいかの判断をしてもらいたいと、菩薩様にご相談されたのですが、菩薩様の説法は、厳しさの中にも、その方を救わんが為の慈悲心あふれる非常に感銘深いものでした。

遍路─私は今結婚するべきか尼僧になるべきか分からなくて迷っているんです。

菩薩─結婚とか色々な問題は私が判定するんじゃなくて、行ってもいいでしょうか、この結婚はしてもいいでしょうか、そういう事の判定はいろいろありますが、そういう判定は仏法の中にはないという事です。
 それは大きな大日如来のみ心の中にすべてがあるということです。その大日如来のみ心の中まで心が及ばないでしょう。人間というものは一寸先も分からないのです。
 もしそれに対し判定を下したら、あなたの心が出来た心であれば、超えた心であれば私はいつでも判定を下してあげましょう。その結婚はやめておきなさいとか、その結婚はしてもいいとか、そこまでの心になっていれば、いくらでも判定を下してあげます。
 でもあなたの心がまだ出来ていないから判定は出来ないんです。何故かというと、私が判定を下したときに、もしあなたが不幸になったら、何だという事になるでしょう。

遍路─いいえ、私は思いません。それがやはり仏さまの試練だと思います。

菩薩─試練というか何もかもが慈悲と思える心にならなければいけないのです。

遍路─そうでも。私もうそうなっています。

菩薩─交通事故にあってもこれが慈悲だと、寒い雪が降ってきても、その雪が人間に都合の悪い雪であっても、あーこれもあり難い、私はこの雪で悟らせていただけるんだと、その雪で悟っていくということです。そこまでの心が出来ていれば、あなたに対し…。

遍路─そう、私そこまで悟れています。

菩薩─そこまで悟れているのであれば、あなた自身で決められるはずですよ。

遍路─私自身が自分で決められると言われるのですか?

菩薩─そう。そこまであなた自身の心が出来ているのであれば、私に相談することはありません。

遍路─沈黙

菩薩─相談するということは、まだその心が出来ていないという事です。自分で即決出来ないという心は、私はそこまで行っていますと言っていても、まだ心がそこまで行っていないという事です。あなたはもう心が出来ていますと言われるが、出来ていれば自分で決められる筈でしょう。

遍路─そうですね。仏さまにお任せしているんですから。

菩薩─仏さまというより、自分の心の仏さまにね。そうしたら、その仏が答えを出すでしょう。その結婚はやめなさい、その結婚はよろしいという答えが出るでしょう。
 そうしたら私に聞く必要はないという事です。あなたがそこまでの心になっているなら私に聞く必要はありません。だからまだ 超えた心になっていないという事です。

遍路─長い沈黙


目の当たりにした仏法の厳しさ


「どんな不都合なお計らいであっても、み仏のお慈悲と思える心になっていれば、答えを出してあげましょう」という菩薩様の問いかけに対し、彼女は、「もうその心になっています」とハッキリ答えられましたが、その言葉は、すでにその心は出来ているとの自信に満ち溢れていました。

ところが、菩薩様から、「その心になっているのであれば、私に答えを求める必要はありませんよ。あなた自身で答えを出せる筈ですよ」と言われ、一言も返答出来なくなってしまったのです。

どんな結果になろうと、不都合なお計らいであろうと、み仏のお慈悲と思える心が出来ているのであれば、人に道を求める必要はありません。人にどうすればよいかの判断を求めなければならないという事は、まだその心が出来ていない何よりの証です。

返答出来なくなったのは、その事に気付いたからでしょう。それまで多弁だった彼女が急に寡黙となり、一回りも二回りも小さく見えたのがとても印象的でした。

菩薩様の説法を聞きながら、彼女を救わんが為には有無を言わせぬ仏法の厳しさと、菩薩様の大いなる慈悲心に触れ、深い感銘を受けた事は言うまでもありません。

仏法による救済とはいかなるものか、占い・霊感による判断と何が違うのかを、これほど分りやすく説かれた説法を聞いたのは初めてでしたので、私の心にも、非常に印象深く残りました。

たまたまこの時のご説法を、S・Fさんがテープに録音しておられたので、コピーして頂き、何度も何度も繰り返し聞いた事を、昨日の出来事のように思い出します。


何故前に進めなかったのか?


前回、極楽浄土を目指して旅をしている極楽望氏が、道が二股に分かれている所で出会った占い師の翁と霊感者の老婆から、それぞれ相反する事を言われて益々迷いを深め、一歩も前へ進めなくなったという例え話をしました。

極楽望氏が前に進めなくなったのは、右へ行けば、恐ろしい化け物に遭遇し、左へ行けば、落とし穴に落ちて命を落とすかも知れないと言われたからですが、何故彼はそう言われて一歩も進めなくなったのでしょうか?

二人の言った事が正しいとは限らず、その正否は、実際に行ってみなければ分りません。

また仮に正しかったとしても、それぞれに危険箇所のある事が前もって分っているのですから、細心の注意を払いながら先へ進めば、難を避ける事も出来ます。

極楽望氏が、本心から極楽を望んでいるのであれば、翁と老婆にそう言われたからといって立ち止まる必要はなく、むしろある程度の危険を覚悟してでも、一刻も早く極楽を目指すべきでしょう。

しかし、彼は、そう言われただけで一歩も前に進めなくなってしまったのです。何故でしょうか?

それは、最終的な判断を下す事が出来なかったからです。

彼が前へ進むためには、先ず二人の言葉を信じるか信じないかの判断をしなければなりません。どちらへ進むか迷っている彼には酷かも知れませんが、二人の言葉を信じるか否かを彼自身が判断しなければ、一歩も先には進めないのです。

その判断をしてようやく先に進めても、それで終わりではありません。

彼が二人の言葉を信じる道を選んだとすれば、更にどちらへ行くかを判断しなければなりません。

そして、どちらへ行くにしても、化け物に遭遇するか、落とし穴に落ちるかの危険性を覚悟しなければなりません。

また信じない道を選んだとしても、その道を選んだ自分の判断が正しかったか否かという新たな不安を抱きながら、前に進まなければなりません。

つまり、いずれの道を選んでも、彼の前には、自ら判断しなければ解決出来ない難問や、乗り越えなければならない様々な試練が、幾つも待ち構えているのです。

問題は、人に道を尋ねなければならない彼に、その判断が出来るのかという事ですが、今の彼には難しいと言わざるを得ません。だから、一歩も進めなくなったのです。


彼が目指す極楽浄土の正体


彼が、化け物が出る右の道へも、落とし穴のある左の道へも進めなくなってしまったのは、二人の言葉を信じるか否か、そして先へ進むべきか否かの最終的な判断が出来なかったからだと言いましたが、その心の裏に潜んでいるのは、「自分にとって好都合な道はどちらかを知りたい。不都合な出来事に遭遇する恐れのある方には行きたくない」という思いです。

これを、分別心と言いますが、実を言えば、不都合な事を避け、拒否し、排除したいというこの分別心こそが、進むべき道の判断を誤らせ、化け物や落とし穴を乗り越える勇気を奪い去り、極楽浄土を遠ざけている張本人なのです。

しかし、彼はその事に全く気付いていません。

何故気付かないのかと言えば、彼が目指す極楽浄土とは、自分にとって不都合な事の一切起らない、不幸も苦しみも悲しみもなく、いかなる試練もない幸せばかりの世界だからです。

つまり、彼は、幸せになりたいという願いが叶えられ、その願いを妨げるいかなる障害も試練も苦難もない理想郷を、極楽浄土としてイメージしているのです。

勿論、これは彼だけではなく、世間の大多数の人々が思い描いている極楽浄土のイメージでもあります。

しかし、少なくとも仏法で説かれる真の極楽浄土とは、彼がイメージしているような何もかも自分の思い通りにいく世界でもなければ、美しい蓮の花が咲き乱れ、透き通るような小川が流れ、清々しい香りに満たされ、清らかな調べが聞えてくる理想郷でもありません。

勿論、私自身は、まだ一度もそのような理想郷へ行った事もなければ、見た事もないので、そんな世界が有るのか無いのかも分りません。

ただ仮に有ったとしても、その世界へ行けば、全ての悩み苦しみから解決されるとは思っておりません。

少なくとも私達が目指すべき真の極楽浄土は、そのような世界でありません。何故なら、仏法では、真の極楽浄土は、私たち自身の中にあると説かれているからです。

極楽望氏が、自分の中にある極楽浄土に気付けないのは、化け物も出ず、落とし穴もなく、自分にとって不都合な事が何も起らない理想郷を思い描き、その世界が自分以外のところにあると思い込んでいるからです。

「灯台下暗し」とはまさにこの事で、彼自身が変わらなければ、目指している極楽浄土へ到達する事は不可能と言わねばならないでしょう。


迷う人・迷わせる人・迷わされる人


もうお気付きだと思いますが、極楽望という人物は、幸せを願い、理想郷としての極楽浄土を目指し旅をしている、迷える人々の代表者なのです。

勿論、この世で幸せを願わない人は一人もいませんし、万人が万人ともみな等しく幸せな人生を望み、極楽浄土へ行きたいと願っていますから、誰もが極楽望氏と言っていいでしょう。

にも拘らず、万人がみな平等に極楽浄土へ行ける訳ではありません。

どの道を行けば極楽へたどり着けるのか、どう生きれば幸せになれるのかを知らなければ、極楽へ往ける道理がありません。

最初にご紹介した女のお遍路さんも同じで、彼女が、尼僧になるべきか、結婚するべきかで迷い、菩薩様に進むべき道を尋ねたのは、彼女もまた、幸せを望み、極楽を願う極楽望氏であったからですが、残念ながら、求めるものが自らの中にある事を知らなかったのです。

彼女を見れば、人間という生き物が、幸せになりたいと願い、救われる事を望み、極楽を目指して旅をしている極楽望氏でありながら、同時に、どう生きれば幸せになれるか、どの道を行けば極楽へ到達できるかを知らない迷い人でもある事が、よく分かります。

そのジレンマを抱えながら生きていかなければならないところに、悩み苦しみを避けては生きられない人間の罪深さがあるようにも思いますが、そのジレンマを抱えながら、多くの人々が、幸せになる最良の道を占って貰うため、占い師や霊感者を尋ね歩いているのをよく目にします。

しかし、尋ねたのはいいけれど、返ってくる答えがみなそれぞれ違うため、益々迷いを深めて右往左往しているのが、迷える人々の現実なのです。


真の極楽浄土の在り処


ここまで読まれたお方は、どうすれば無事に極楽へ到達出来るのという難問を解決するヒントが、先ほどの菩薩様の説法の中に示されている事にお気付きだと思いますが、菩薩様はこう説いておられます。

何もかもが慈悲と思える心にならなければいけないのです。交通事故にあってもこれが慈悲だと、寒い雪が降ってきても、その雪が人間に都合の悪い雪であっても、あーこれもあり難い、私はこの雪で悟らせていただけるんだと、その雪で悟っていくということです。

何故彼女が菩薩様に進むべき道を尋ねたかと言えば、尼僧になった方が幸せか、それとも結婚した方が幸せかを知りたかったからですが、菩薩様は、「そうではない」とハッキリ釘を刺されました。

それは、彼女が求める本当の幸せ(真の極楽浄土)は、彼女が迷っているどちらかの道にあるのではなく、彼女自身の中にある事を悟って欲しかったからです。

尼僧の道に進んでも、結婚する道を選んでも、そこには様々な試練が待っています。不都合な事にも遭遇します。楽しい事ばかりではなく、苦しい事や悲しい事や辛い事も多々あります。苦楽幸不幸があるのは、どちらの道を選んでも同じなのです。

尼僧の道が幸せばかりの道で、結婚する道が不幸ばかりの道でもなければ、その逆でもありません。どちらの道に進んでも、その現れ方が異なるだけで、幸せもあれば、不幸せも必ずあるのです。

「何故そんな事が言えるのか?もしかすると右の道より左の道の方が幸せかも知れないし、その逆もあり得るではないか。先の事は誰にも分らない」と言われるかも知れませんが、確かに将来の事は誰にも分りません。

しかし、どちらへ行っても同じである事に間違いはありません。その理由については次回お話したいと思います。


自己を変えられるか


大切な事は、どちらの道へ進めば極楽に行けるかではなく、どちらに進もうかと悩み、迷っている今の自分自身が変わらない限り、極楽へは行けない事に一刻も早く気付く事です。

道に迷っている彼女が尼僧になる道を決断したとしましょう。彼女の未来には、バラ色の人生が約束されているのでしょうか。

残念ながら、そうではありません。やがていつか自分の思い通りに行かない事や、苦しみや悲しみにも遭遇します。その時、今のままの彼女なら、結婚する道を選んでおけばよかったと後悔するでしょう。

また結婚する道を選んだとしても、やはり違った苦しみや試練に遭遇します。その時もきっと、尼僧になっていれば違う人生があったに違いないと、結婚した事を後悔するに違いありません。

何故なら、尼僧になるにせよ、結婚するにせよ、彼女自身が変わらなければ何も変わらないからです。

菩薩様は、どちらに進めば幸せになれるか迷っている彼女自身が変わらない限り、どちらの道を選んでも、結果は同じである事を見通しておられたのです。

「今のあなたの心では、進むべき道を判断し、答えてあげる事は出来ません」と厳しい口調でおっしゃったのは、その為です。

占い師や霊感者のように、ただ進むべき最善の道を占い、判断するだけでは、彼女を救うどころか、益々迷いを深めるだけである事が分っていたから、敢えて「そこまであなた自身の心が出来ているのであれば、私に相談することはありませんよ」と厳しく突き放されたのです。

合掌

平成28年4月25日


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(注1)救いを求めて共に修行する仲間という意味。お遍路さんが頭に被る菅笠や羽織っている笈摺(おいづる)に書かれている「同行二人(どうぎょうににん)」とは、四国霊場の険しい山坂を、お大師様と共に、他のお遍路さんたちと共に、助け合いながら、苦しい試練の山坂を越えて行きましょうという意味である。

 

(注2)お遍路さんや修行僧を、自宅に無料で泊めてあげる事で、功徳l行の一つと言われている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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