桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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体験を超えるものはない(1)

─ 奇跡の講演 ─



体験を超えるものはない


何万冊の書物を読もうが、どれほどの知識を得ようが、どうしても伝えられない事があります。例えば、真夏の暑い日差しの中で口にした一杯の水の味わいです。

古歌に、
  いっぱいの 飲みたる水の味わいを
    問う人あらば 何と答えん
 と詠われているように、「どんな味わいでしたか?」と尋ねる相手に対し、答えられるのはせいぜい「こんな味わいでした」という感想だけです。

そして、「どうしても知りたければ一度飲んでみて下さい。飲めばすぐに分ります」と答えるしかありません。

体験は、未体験者には、いかなる知識や言葉を以てしても絶対に伝える事の出来ない未知なる領域であり、知りたければ、自ら体験して確かめる以外に方法はありません。

その代わり、体験の世界は、体験した全ての人に、その答えを平等に与えてくれます。水を飲んだ十人の内、五人しか水の味わいが分らないというような事は決してなく、水を飲んだ十人全員が水の味わいを知る事が出来ます。

一口飲めば、天才も凡才も、老若男女、上下貧富の隔てなく、全ての人が平等に理解し合え、水の美味しさを分かち合えるのです。

残念ながら、知識の世界では、そうはいきません。天才と凡才の間には、知識量や理解力の点で大きな差があり、十人の内、五人にしか理解出来ないという事は決して珍しくありません。

当然、知識の量と質による優劣関係や情報格差も生まれます。

体験の世界には、そのような優劣関係や情報格差はありません。体験した人に与えられる情報は、すべて平等です。

また、知識は知識を超えられますが、体験を超える事は出来ません。

知識は、人から聞いたり自ら学べば得られますが、体験は、人から聞いても、自ら学んでも得られません。自ら体験して知る以外にはないのです。

勿論、知識には、その持てる力を存分に発揮できる分野があり、その分野では、その力を最大限に発揮します。知識の果たす役割を過小評価すべきではありません。

しかし、知識には限界がある事も事実で、知識は体験を超えられない事も知っておく必要があります。


千日回峰行


天台宗に伝わる千日回峰行と言われる修行があります。

千日回峰行とは、七年の間に千日、ひたすら比叡山の峰々を歩きながら、二百六十ヶ所余りに祀られている仏様を拝み続ける修行です。

30キロの道のりを、平均6時間かけて廻るそうですが、一年目から三年目までは一年に百日、四年目と五年目は一年に二百日、つまり五年間で七百日かけて、30キロの比叡の峰々を歩き続けるのです。

それが終わると、九日間にわたる断食・断水・断眠・断臥の苦行「堂入り」に入ります。

六年目は、京都までの道のりが加わり、60キロの道のりを百日間歩き続けなければなりません。

七年目は倍の二百日になり、前半の百日間は、「京都大廻り」と呼ばれる84キロの道のりを、後半の百日間は、再び比叡山中の30キロの道のりを歩き続けます。

こうして、七年かけて千日間歩きながら、み仏を拝み続けるのが千日回峰行ですが、その中で最も苦しく厳しい修行が、九日間に及ぶ「堂入り」です。

九日間ぶっ通しで、昼夜の別なく護摩を焚きながら、ただ黙々とお不動様を拝み続けるのですから、まさに死を覚悟した決死の修行と言えましょうが、何日目かに口を漱ぐだけのお水が頂けるそうです。

勿論、飲めませんし、飲んではいけません。ただ口を漱ぐだけのお水です。

今日まで四十七名の方が、千日回峰行を成し遂げられ、戦後は、酒井雄哉というお方が二回成満しておられますが、実は昭和の初めに、千日回峰行を三度成満なさったお方がおられるのです。


伝説となった講演


奥野玄順という、いまや伝説上のお方ですが、ある時、奥野大阿闍梨の講演会が催されたのです。

集まった聴衆が見守る中、奥野大阿闍梨が、しずしずと講演会場に入って来られると、体の小さなお方なのに、とても大きく見えたそうです。

千日回峰行を成満なさったお方の第一声を聞き逃すまいと、聴衆の誰もが固唾を呑んで見守っていたに違いありません。

演壇の前に立たれた奥野大阿闍梨は、暫く瞑目して合掌し、心静かに祈っておられましたが、おもむろに口を開かれ、こうおっしゃったそうです。

「私は今、お不動様にご懺悔(さんげ)の気持ちで一杯です」

九日間に及ぶ八万枚の護摩行(堂入り)を成満され、お不動様を拝み抜かれたお方が、開口一番、「お不動様にご懺悔の気持ちで一杯です」とおっしゃったのですから、誰もが唖然とした事でしょう。「何があったのだろう?」と、次の言葉を待っていると、おもむろにこうおっしゃったのです。

九日間、不眠不休で八万枚のお護摩を焚いている最中、たまたま口を漱ぐのに頂いたお水の一滴が喉を通ってしまいました。飲もうと思って口に含んだお水ではありませんが、喉を通ってしまいました。その事を私は今でも悔やんでおります。お不動様に申し訳ないと、今でもご懺悔しております、これから一生かけてお不動様にその事をご懺悔し続けていくでしょう。しかし、その時、喉を通ったお水の味わいは、今でも忘れられません。その味わいは、一生忘れる事がないでしょう。それではこれで私の話を終わります

そう言って僅か五分足らずの講演を終え、しずしずと会場を出ていかれたそうです。

聴衆の誰もが、会場を出て行かれる奥野大阿闍梨の後ろ姿を、茫然と見送っている様子が目に浮かぶようですが、まさに前代未聞の講演と言っていいでしょう。

先ず驚かされるのは、僅か五分足らずという講演時間の短さです。

僅かな時間の中で、伝えたい事のすべてを、余すところ無く語り尽くす事は、まず不可能と言っていいでしょうが、奥野大阿闍梨は、その不可能とも思える難事を見事に成し遂げられたのではないでしょうか。

京仏師の松久朋琳師は、『仏の声を彫る』の中で、次のように書いておられます。

雑物を払う、煩悩を払うといういき方は、いきおい、もうこれ以上削ったらみ仏の頬辺(ほっぺ)に傷がつく、み仏の肌に傷がつくという所まで鑿を入れてゆくことになります。とことんまで押しつめてゆきます。そして余分を全部払って、一つも残しまへん。余分というものを全部取ってしまいます。そして、そのエキスだけを残す──という手法になるのですな。
 目方でいきますと、出来上がったみ仏は、原木の四分の一から五分の一位になってしまうのですな。もうこれ以上減らせないという、ギリギリのところまで取ってしまわないことには、無垢な仏性はあらわれないのです。そこまで推し進めないと、拝む対象にはならしません。煩悩や俗心を残した仏なんて、いやはらしまへんのです。仏師の彫りまいらせるみ仏は、そういう生粋のところまでいかな、礼拝の対象にならんのやないか、わたしは、そない思うていますのや。

松久師の言葉を借りれば、奥野大阿闍梨にとって五分足らずの時間は、究極の体験を、これより多くても少なくてもその体験を正しく伝えられないギリギリのところまで削り取り、余分な言葉をすべて取り払った五分間だったのではないでしょうか。

奥野大阿闍梨の講演は、聴衆に強烈な印象を与え、その一言一言が魂の奥底にまで刻み込まれたに違いありません。

恐らくこの講演を聞いた人々は、極限まで削り取られた言葉の中に、奥野大阿闍梨の深い信仰心や懺悔の心、喉を通った一滴の水の味わいまでも汲み取ろうと、何度も何度もその言葉を反芻し、咀嚼し、熟考した事でしょう。


言葉を超えた言葉の力


それは、お護摩を焚く火の熱気が全身を覆い、体内から滲み出た汗が流れ落ち、飲まず食わず休まず眠らず、一心にお不動様を拝み続けている護摩行の真っ只中で起きた予期せぬ出来事でした。

体内から水分が失われ、断食・断水・断眠・断臥という、まさに肉体的極限状態に置かれた奥野大阿闍梨の喉を通ったのは、たった一滴の水でした。

奥野大阿闍梨にとっては痛恨の一滴ですが、その一滴が、全身の活力をみなぎらせるほどの味わいだった事も、想像に難くありません。

奥野大阿闍梨のこの体験は、体験した者にしか分らない、言葉では絶対に伝えられない究極の体験である事は言うまでもありません。

しかし、松久師が言われるように、もうこれ以上は減らせないというギリギリのところまで削り取られた言葉が言葉以上の力を持ち、言霊(ことだま)として新たな命が吹き込まれたとすれば、奥野大阿闍梨の講演は、奇跡を起こした稀有な事例と言っていいでしょう。

奇跡とは、言葉では伝えられない筈の体験が、言葉を超えた言葉の力によって聴衆に伝えられたという意味ですが、今までお話してきたように、言葉や知識には限界があり、体験を在るがまま伝える事は出来ません。

しかし、私が初めてこの話を聞いた時、まるで自分が同じ体験をしているかのような不思議な感覚に包まれたのを、今でも覚えています。

この逸話は、平成九年八月に御遷化された信貴山(しぎさん)玉蔵院の野澤密厳管長猊下が、玉蔵院の浴油講の集まりで話されたご法話を通じて知ったのですが、九日間にも及ぶ断食・断水・断眠・断臥の行の中で喉を通った一滴の水の味わいが、私にも伝わってきたのです。

勿論、奥野大阿闍梨が、「一生忘れない」と言われた味わいが分った訳ではありませんが、分らない味わいである筈なのに、分ったように感じたのです。

そう感じたのは、私が断食をした経験があるからかも知れません。

奥野大阿闍梨の断食・断水・断眠・断臥の行にはとても及びませんが、断食を終えて、最初に口にした重湯の味わいは、とても言葉にはなりません。

カラカラに乾き切ったスポンジが見る見る内に水分を吸収していくように、細胞という細胞が瞬時に目覚め、体中に活力がみなぎってくるのが、手に取るように分るこの感覚は、やはり体験してみなければ分りません。

しかし、幾ら断食の体験があるからと言って、奥野大阿闍梨の体験した一滴の水の味わいまで分るものではありません。

にも拘らず、分ったような感覚に包まれたのは、やはり奥野大阿闍梨が講演で述べられた、極限にまで削り取られた言葉の力(言霊)によるものと考える他はありません。

お大師様が伝えられた真言密教は、言葉に大いなる霊力を認め、真言と名付けられた、極限まで削り取られたエキスとしての言葉を読誦する事により、言葉では超えられない体験世界に合一しようとする教えですが、体験した事のない私が、一滴の水の味わいまで分ったような不思議な感覚に包まれたのは、奥野大阿闍梨が述べられた言葉の一つ一つに、奥野大阿闍梨の仏性が乗り移り、これ以上は削れないというギリギリのところまで削り取られた言霊となり、真言と化していたからかも知れません。

合掌

平成28年3月30日


体験を超えるものはない(1)ー奇跡の講演ー
体験を超えるものはない(2)ー奇跡の講演ー
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