桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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第二の矢を受けず(3)



信じて行じる事の大切さ


「行信一如(ぎょうしんいちにょ)」という言葉をご存じでしょうか。

これは、文字通り、信心と修行(実践)は一体であり、信心の裏づけのない修行も、修行を離れた信心もないという意味です。

残念ながら、ご相談者の男性が一時間余りかけてされた御回廊廻りの行は、結果を見る限り、ただ廻らされただけで、信心に裏付けられた行ではなかったと言わざるを得ません。

各地の寺院を訪ねて悩み事を相談され、様々な修行もしてこられたようですが、その中で、この男性が藁(わら)をも掴む思いですがった教えが幾つもあった筈です。

しかし、『法句経』に「茅(かや)を掴みそこぬればその手を傷つくるが如く、あやまれる求道は人を破滅にみちびく」と戒められているように、藁をもすがるつもりで掴んだ教えが、この男性にとって藁ではなく、萱だったのかも知れません。

何故なら、自分の思い通りに行く事のみが神仏のご利益であり、思い通りに行かない事は、すべて悪因縁(怨念)の仕業だと思い込んでおられるからです。


信仰は取引ではない


世間には、この男性のように、信仰すれば、その日から何もかも自分の思い通りになり、ばら色の人生が開けると誤解しておられるお方が少なくありません。

信仰とは何の為にするのでしょうか?自分の願いを叶える為でしょうか?それとも、自分にとって不都合な相手や、不都合な出来事を変える為でしょうか?

残念ながら、それは信仰とは言いませんし、修行とは、そんな事をする為のものではありません。

「これだけお布施をしたから、その見返りを下さい。これだけの修行をしますから、願いを叶えて下さい」

百人いれば百通りの願いがあり、千人いれば千通りの期待があり、様々な願いや期待をかけられる神仏のご苦労を思うと、何ともやり切れない気持ちになりますが、願いを叶えたいという期待を持って神仏を拝む行為は、近くのスーパーでお金を払って商品を買うのと同じで、信仰ではなく、ただの取引に過ぎません。

この男性がされた夢殿の御回廊廻りの行も同じで、何らかのご利益を期待した取引であったと言わざるを得ないでしょう。

そのような取引の行では、何時間しても、望むような結果が出る筈はありません。

大切な事は、仮に不都合な結果しか頂けなかったとしても、それをどのように受け止め、悟りに変えさせて頂くか、一時間の御回廊廻りの行を受け止めて下さったからこそ、心を育て、生まれ変わらせたい為に、あえて試練を与えて下さったのだと悟らせて頂くか、それとも、こんなに修行したのに、何のご利益も頂けなかったと言って、神仏を仇敵のように罵るか、進むべき道は一つしかありません。

どちらの道が神仏のみ心に適っているかは明らかですが、その道理が分からなければ、今までと同じ事を繰り返すだけで、次のステップへは一歩も進めません。

厳しい言い方ですが、お釈迦様が説かれた六道輪廻(注1)の世界を果てしなくさまよい続けて、生涯を終えるだけでしょう。


真の信仰とは


何度もお話しているように、信仰とは、み仏を利用して、自分の私利私欲を叶える為の手段(道具)ではありません。

真の信仰とは、み仏の願いを悟り、そのみ心に叶う人間に生まれ変わる事であり、そうなった暁に頂けるのが、救いという本当のご利益なのです。

言うまでもありませんが、その救いを頂く為には、様々な試練を乗り越え、産みの苦しみをしなければならない時もあります。

それらの試練は、今までの生き方、考え方を根本から変えなければ、とても乗り越えられないでしょう。

生き方、考え方を変えなくても乗り越えられる試練は、試練ではありません。

世の中には、信仰にご縁のあるお方もいれば、信仰とは全く無縁のお方もおられますが、信仰とは、生まれ変わる為に与えられる様々な試練を乗り越えさせて頂く上で欠かせないものです。

試練を乗り越えさせて頂く為の道しるべですから、信仰したからと言って、すぐ何もかも思い通りにいく訳ではありません。

むしろ、思い通りに行かない事の方が多く、だからこそ、その中で揉まれ、魂が浄化され、いかなる苦難に遭遇しても動じない不動の心が作られていくのです。

もし信仰してすぐに何もかも思い通りに行ったとすれば、それこそ大難の前兆と受け止めた方がいいでしょう。


二つのグループ


何もかも自分の思い通りに行っている時は、誰でも「有り難い。神仏のお陰だ」と言って、信心深い人間の振りをしていられますが、自分にとって不都合な試練を頂いた時は、そうはいきません。

この男性も、自分の思い通りの結果が出ていれば、「お参りしてよかった」と言っていられたのでしょうが、不都合な結果が出た為に、そうはいかなくなったのです。

この時、人々は二つのグループに分かれます。

一つは、どんなに不都合な結果も在るがまま受け止め、その意味を悟って感謝の誠を捧げ、どんどんみ仏の心に適っていく人です。

つまり、自分にとって不都合な出来事であっても、そこに隠されたみ仏のお計らいの意味を悟り、「尊いお計らいを頂き、感謝いたします」と拝めるまでの心を養ってゆける人です。こちらのグループの人は、悟りと喜びの波紋が次々と広がり、どんどん救われていく人です。

もう一つのグループは、これだけ信仰したのに、これだけ修行したのに、これだけお布施をしたのに、自分の思い通りに行かないと言って信仰不信に陥り、神仏を仇敵のように思い、益々自分を苦しめていく人です。

どちらのグループが多いかと言えば、圧倒的に二番目のグループです。何故なら、信仰を、自分の願いを叶える手段(取引の道具) と勘違いしているからです。

皆さんは、いまどちらの側におられるでしょうか? そして、どちらの側に入りたいと思っておられるでしょうか?

それを決めるのは、神仏ではありません。皆さんご自身です。


自己中心の信仰から仏中心の信仰へ


かつては私もそうでしたが、初詣に行っても、お寺や神社へお参りしても、自分の願いを叶えるための自己中心の信仰でした。

と言うより、それが信仰だと思い込んでいました。

しかし、少しずつ悟りを深めていく内に、真の信仰とは、自分の願いを叶える為ではなく、神仏の願いを悟り、神仏のみ心に適う人間として生まれ変わらせて頂く為にするものだという事が分ってきました。

そうならない事には、本当のご利益はいただけない事も分りました。

世間には、初詣に行って沢山お布施をしたから、商売が繁盛した、子供も授かった、願いも叶ったと言われるお方もおられるでしょうが、確かに神仏が、本当の信仰に目覚めて欲しい為に、方便として一時的に願いを叶えられる事もあります。

人間にはみな欲がありますから、「あそこの神様を信仰すれば商売が繁盛しますよ。こちらの仏様を信仰すれば子供を授けて頂けますよ」と言われれば、信仰心がなくても欲に釣られてお参りします。

お参りしている内に、信仰心に目覚め、悟りも少しずつ深くなり、やがて本当のご利益とは何かに目覚めるご縁もめぐってきます。

欲の深いお婆さんを信仰に導く為、観音様が牛に姿を変えて、お婆さんの大事にしている布を角に引っ掛けて善光寺まで導いたという「牛に引かれて善光寺参り」の諺があるのは、その為です。

しかし、み仏が与えたい本当のご利益は、様々な欲望を満たす事ではなく、それを越えた魂の救済である事を忘れてはなりません。

菩薩様が、『涙の渇くひまもなし』の中で、
  阿弥陀・薬師と変われども
    同じ心の 仏なり
    大悲のほかに 何もなし
 と詠っておられるように、この願いは、お釈迦様であろうが、阿弥陀様、お薬師様、お地蔵様、観音様であろうが、神様であろうが変わりありません。

お大師様が、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、わが願いも尽きなん」との御誓願を立てておられるのも、菩薩様が、「われは仏法を根本として無常の道理を納得させ、布施行の実践を教え、導く事を誓うものなり」とのお誓いを立てておられるのもみな同じで、魂を病む衆生を救済する以外にはないのです。

合掌

2017年11月28日


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(注1)六道(ろくどう)とは、迷いの人間が心に思い描く六つの世界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の事で、輪廻(りんね)とは、ねずみが回転車の中を果てしなく廻り続けるように、六つの世界を思い描く人生に終わりがない事を言う。そして、この果てしない迷いの人生に終止符を打つ事を、仏教で、解脱、成仏、極楽往生、救済などと言う。病気が治ったり、商売が繁盛したり、子供を授かるなどの現世利益は、仏教で言う救いではなく、一時的に欲望が満たされた状態(天上界)に過ぎない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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