桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
桜紋の扉 法徳寺の扉 御祈願の扉 汗露水の扉 御法歌 法話の扉 帰郷の扉 升紋の扉
信者を作らない理由法話の小部屋御同行の体験談

納め札と執着心(3)



いつもまっさらなお四国遍路


ご承知のように、お四国霊場は、第一番札所・霊山寺から始まり、第八十八番札所・大窪寺で結願します。

一番札所から八十八番札所までお参りして結願すれば、お遍路修行は終わりです。

後は、紀州高野山へのお礼参りを残すだけとなりますが、「死んで再生する為の修行道場」としてのお四国遍路が八十八番札所で「終わった」という事は、一番札所でオギャーと生まれたお遍路修行が、八十八番札所で死を迎えたという事です。

八十八番で死んだのですから、次回のお遍路は、同じお遍路の二回目ではなく、新たに再生した(生まれ変わった)全く別のお遍路という事になります。

つまり、何回巡っても、次回のお遍路は、死んで生まれ変わった別のお遍路であり、二回目のお遍路とはなりません。

もし、お遍路が二回目、三回目と継続していくのであれば、一回目のお遍路修行はまだ死んでいなかったという事です。

勿論、ここに言う「死」とは、肉体の死の事ではなく、様々な執着心や三毒煩悩と言われる「貪欲、怒り、愚痴嫉妬」の心を捨て切れていないという意味ですが、まだ救われていない以上、これからも修行が続き、お遍路の回数も増えていく事になります。

つまり、お遍路の回数を数えるという事は、まだ修行が終わっていない事を前提としているのです。

僅か一回のお遍路修行で全てを捨てきれるほど、人間の心に巣食う執着心や三毒煩悩は生易しい相手ではなく、生涯かかっても克服できない強敵と言っても過言ではありませんから、まだ修行が終わっていない事を自覚するという意味で、お遍路の回数を数えていく事にも、それなりの意味があるのかも知れません。

しかし、お遍路修行が終わっていないから、回数を数えるというのは、まだ執着心が克服出来ていないから、お遍路の回数に執着すると言っているようなもので、本末転倒と言わねばなりません。

お遍路修行は、本来、八十八番札所で終わるべきものであり、仮にお四国霊場を三回廻っても、三回目のお遍路とはならず、まっさらな一回目のお遍路の繰り返しに過ぎないのが、在るべきお遍路の姿です。

だからこそ、何度廻っても、納め札は真っ白のままでなければならず、真っ白のままであり続ける事に意味があるのです。

何度も言っているように、納め札が真っ白である事には、死んで生まれ変わるという「再生」の意味が込められていますから、何回目のお遍路だから何色の納め札に変わるという性質のものではなく、そのようなものであってはならないのです。

お四国遍路の在るべき姿から言えば、回数を積み重ねるに従って、位が上がったり、納め札の色が変わっていくのではなく、むしろその逆に、位や格式や納め札の色などとは無縁となり、どんどん遠ざかっていかなければなりません。

回数によって納め札の色が変わり、しかも回数が増えていくに従って、その地位も上がっていくというのは、お四国遍路の在るべき姿に逆行していると言わねばならないでしょう。

ところが、誰が始めたのかは知りませんが、いつの頃からか、真っ白でなければならない納め札に様々な色が付くようになり、色の付いた納め札を持っている者が、お四国霊場では位が高いと受け止められ、人々から尊敬される風潮が広がっていったのです。


一回で終わるお遍路か?一生続けなければならないお遍路か?


以前、菩薩様がまだ人生のどん底で様々な試練を受けておられた時の事です。

救いを求めて、小豆島八十八ヶ所霊場へお参りに行かれたのですが、その時、奇しきご縁で、宿泊された旅館に泊まっておられた一人のご老人と一緒にお参りする事になりました。小豆島八十八ヶ所霊場

旅館のお方から、「一緒にお参りする予定だったお孫さんが、急病で行けなくなったそうなんです。お客様さえよろしければ、隣部屋のお爺さんと一緒にお参りしてあげて頂けないでしょうか」と頼まれ、急遽、菩薩様の車でお参りする事になったのですが、このご老人が、実に不思議なお方でした。

普通なら、同乗を頼んだご老人の方から、菩薩様に、「ご無理を言って申し訳ありません。よろしくお願いします」と、一言、お礼の言葉をかけるのが礼儀ではないかと思いますが、ご老人は、挨拶をするどころか、「わしがあんたを導いてあげるんだから、おとなしく付いてきなさい」と言わんばかりに、菩薩様の考えもお参りの予定も聞かず、一方的に「次は何番札所へ行ってくれ」と命令するだけでした。

これだけ見ても普通のご老人とは思えませんが、札所へ着くなり、本堂の桟を人差し指でなぞり、「ここは綺麗にお掃除がされているなあ」と呟きながら十万円をお布施され、「ここは余りお掃除がされていないから」と言っては一万円を施され、お参りした札所で、合わせて百万円余りを施されたそうですから、只のご老人ではありません。

お参りの仕方も変わっていて、札所を順番にお参りするのではなく、途中を幾つも飛ばしながら、あちらこちらと飛び飛びにお参りするのです。

しかも、お勤めの時間が非常に長く丁寧で、お経を唱えている間に、後から来たお遍路の団体さんが、簡単にお勤めを済ませ、次々と次の札所へ向かって走るように去って行きました。

お遍路さんたちを横目で眺めながら、お勤めが終わった後、ご老人に「後から来た団体さんが、次々と次の札所へ向かって出発していきました」と言うと、ご老人は、平然とした顔で、「ええんや。あの人らは、一生廻らないかん人たちや。わしらは、もうこれで終わりや」とおっしゃったそうです。

ご老人が言わんとしておられるのは、自ら廻っているのか、それとも、み仏に廻らされているのか、一回で終わるお遍路なのか、それとも一生続けなければならないお遍路なのか、その違いをしっかり見極めなければいけないという事です。

救われなければ、いくら回数を数えても意味がありません。大切な事は、お遍路の回数を数える事ではなく、救われる事であり、救われる為のお遍路である事を忘れてはならないという事です。

遊び半分の心や物見遊山の気持ちでは、何回廻っても同じや。そんな信仰は、中味のない空っぽの信仰やから、救われるまで霊場を廻らされるんや。廻っているんやのうて、み仏に廻らされているんや。


道は自ら求めよ


こんな事もありました。

ご老人を乗せて札所へ向かう途中、道が分らなくなり、たまたま途中で出逢った地元のお方に道を尋ねたところ、親切に教えて下さったので、「親切なお方ですね」と言うと、ご老人は何も言わず、黙って聞いておられたそうです。

ところが、教えられた道が間違っていた為、遠回りをして倍以上の時間がかかり、札所へ着くのがとても遅くなってしまったのです。

菩薩様が、道を教えてくれた人の事を悪く言うと、初めて口を開かれ、「道を聞かなければ、親切な人やとも、不親切な人やとも思わなくてええんや。その人が悪いんやない。最初に道を聞いたあんたが悪いんや」とおっしゃったそうです。

ご老人が言われるように、最初の原因を作ったのは、道を聞いた菩薩様であり、結果が不都合だったからと言って、相手を恨むのは筋違いであり、逆恨みというものです。

日常生活の中で、私達も同じような体験をする事があります。

例えば、世間には、神仏に願いをかけ、願いが叶えば「有り難い」と言い、叶わなければ「この世には神も仏もいない」と言って、神仏を逆恨みする人がいますが、逆恨みするような願掛けなら、最初からしない事です。

自分に都合のよい結果だけを受け入れ、不都合な結果を受け入れない願掛けは、絶対にしてはいけません。それは信仰でも願掛けでもなく、ただの取引に過ぎませんから、必ず罪を作ります。

「これだけお布施しますから、これだけ信仰しますから、これだけお参りしますから、その見返りに願いを叶えて下さい」と言っているようなもので、近くのスーパーでお野菜や果物を買うのと同じです。

お金だけ払って商品を受け取れなかったら、その人は、忽ち怒りの炎に包まれ、損をしたと言って、相手に罵詈雑言を浴びせる事でしょう。取引の場合は、必ずそうなります。

こうして信仰を取引と勘違いしている人々は、「願いが叶わない」と言って神仏を逆恨みし、作らなくてもよい罪を作り、自ら苦しみのどん底に沈んでいくのです。

後日、菩薩様は当時を振り返りながら、「道を間違えたのは、ただ間違えたのではありません。悟らなければいけない事があるから、間違えさせられたんです。信仰の道も同じです。人に道を尋ねるのではなく、自ら悟っていかなければいけないんです。人から教えられた事は身につきませんが、自ら悟った事は決して忘れません」「最初は変なお爺さんだなあと思いましたが、あのお方は、間違いなくお大師様でしたね」と、噛み締めるように述懐しておられました。

お参りを済ませて別れる時も、ご老人は一言の挨拶もせず、礼も言わず、後ろを振り返る事もなく、どこの誰とも名乗らず、黙って立ち去って行かれたそうですが、人生のどん底で苦しんでおられた菩薩様を導かんがため、ご老人に姿を変えて現れたお大師様の変化身ですから、菩薩様にお礼を言う必要はありません。

お礼を言わねばならないのは、ご老人ではなく菩薩様の方だったのです。

何も言わず、名前も告げず、黙って去っていかれたのは、「私の氏素性を知って何の役に立ちますか。私に執着するのではなく、私から学び、悟った事を、多くの人々を救う為に生かしなさい」というメッセージだったのでしょう。

大切な事は、何を悟らせて頂き、それをどのように生かしていくかであり、お大師様の変化身(へんげしん)であるご老人から頂いたお悟りという宝物を、世のため人のために役立てる事こそが、お大師様(ご老人)への何よりのご恩返しとなるに違いありません。


罪を作らせてはならない


ご老人が言われた「あの人らは、一生来ないかん人たちや。わしらは、もうこれで終わりや」という言葉には、回数に執着する人々への大切なメッセージが込められています。

もし百回のお遍路を達成した人だけが持てる錦のお札を、納め札箱に入れたら、他のお遍路さんたちはどうするでしょうか?

間違いなく、先を争って手に入れようとするでしょう。何故なら、お遍路さんたちも、この錦の納め札に執着しているからです。納め札箱

しかし、これは、執着心から自由にしてあげなければいけない立場にある人が、錦の納め札を納め札箱に入れる事によって、他の人々の執着心を消し去るどころか、益々増長させている事になります。

善い事をしているつもりでも、逆に罪を作らせ、救いを妨げているのです。

これを見ても、人々の執着心を取り除く事はおろか、自らの執着心を克服する事さえ容易ではない事が分りますが、少なくとも、自らの執着心を克服出来れば、人々の執着心を増長させる行為を防ぐ事が出来ます。

その逆に、自らの執着心を克服出来なければ、他のお遍路さんの執着心を取り除いてあげる事も出来ません。

もしそれを実現したいと思えば、どうしても、錦の納め札を捨てて、真っ白な納め札に持ち替えなければなりません。

錦の納め札を持ったままでは、自分の執着心も他人の執着心も取り除く事は不可能なのです。

詐欺事件を起した伊勢丹の元従業員の女性のように、信仰のない人の心に巣食うお金や物に対する執着心も手強い相手ですが、信仰心のある人に巣食う功徳に対する執着心は更に根深く、それ故にその根を絶つ事の難しさは、伊勢丹の元従業員の比ではありません。

菩薩様の『道歌集』の中に、
  生死(しょうじ)なく 欲も苦もなく我もなく
    無常さとれば 涅槃に帰る
 という法歌がありますが、執着心を克服するには、お遍路修行の在るべき姿を悟り、無常、無我、無心、無欲、無所得、無執着の境地に到達する以外にはありません。

その意味で、人を導く立場にある者は、無常、無我、無心、無欲、無所得、無執着の心を常に忘れず、自分のみならず、誤って人に罪を作らせる事がないよう、納め札をお接待する功徳行ひとつにも、細心の注意を払わなければならないのです。

合掌

2015年11月7日

納め札と執着心(1)
納め札と執着心(2)
納め札と執着心(3)
法話の小部屋Topへ


このエントリーをはてなブックマークに追加

サイト内検索 help
 


法徳寺の草花と自然

ソメイヨシノ

南天
(花言葉 良き家庭)

 


法話の小部屋Topへ


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


高野山法徳寺(たかのやまほうとくじ) TEL:0551-20-6250 Mailはこちらから
〒408-0112 山梨県北杜市須玉町若神子4495-309 FAX:0551-20-6251 お問合せフォーム