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「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(6)



私達が背負った重い使命


憲法9条の改正の是非は別として、ここでは、平和憲法と言われる今の憲法9条が果たすべき役割について、考えてみたいと思います。

その役割を知る為には、先ず憲法9条が目指している平和は、真実の平和なのか、偽りの平和なのかを確認しておかなければなりませんが、これについては改めて確認するまでもないでしょう。

戦争放棄と武力放棄を謳った憲法9条が、相手に命さえも委ねられる強い信頼関係で結ばれた真に平和な世界を目指して制定された条文である事は疑いの余地がなく、恐らくそれに異論を唱えるお方はいないと思います。

そうだとすれば、1項で戦争放棄、2項で武力放棄を謳った憲法9条を制定した我々は、国家としても、国民としても、究極の選択をしたと考えなければなりません。

何故なら、憲法9条を守る為には、相互の信頼関係を100パーセントに限りなく近くなるまで高めなければならないからです。

つまり、憲法9条は、私達に「自分の命さえも相手に委ねられる状況になるまで、相互の信頼関係を強固にする努力をしなさい」という、不可能とも思える要求を突きつけているのです。

憲法9条を制定したわが国は、各国に率先して、相互の信頼関係を100パーセントに限りなく近づける努力をする重い使命を背負った事になります。

その事は、憲法前文にも、ハッキリ謳われています。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」

これによって、前文と9条は、限りなく100パーセントに近い相互の信頼関係が確保されている真に平和な世界の在りようを明言し、私達が目指すべき方向性を示したものである事が分ります。

言い換えれば、武力の均衡(抑止力)によって保たれているに過ぎない今の平和は、偽りの平和に過ぎず、前文と9条が目指している平和ではない事、そして、私達自身にも、全世界の人々にも、戦争放棄と武力放棄が実現した真に平和な世界を目指す努力を惜しんではならない事をハッキリ要求しているのが、まさに前文と9条であり、平和憲法と言われる所以も、そこにあると思います。

ですから、国の安全保障を確保しつつ、他方で、相互の信頼関係を崩壊させようとする対外的圧力を阻止しながら、強固な信頼関係の確保に向け努力をしてゆく事が、前文と9条の理念を守る上で欠かせません。

しかし、ここで注意しなければならないのは、憲法9条に、真に平和な世界の在りようと努力目標が示されているからと言って、憲法9条によって平和が実現出来ると誤解し、過信してはならないという事です。

「戦後70年間、わが国の平和が保たれてきたのは憲法9条があったからだ」という認識は、まさにその誤解と過信から来るものであり、憲法9条が果たすべき役割と国の安全保障を考える上で、国民の判断を大きく誤らせる恐れさえある認識と言わねばならないでしょう。

勿論、武力の均衡(抑止力)によって保たれている偽りの平和(平和もどき)のままでよい筈がなく、武力の均衡(抑止力)など必要のない、相互に命さえも委ねられる強固な信頼関係で結ばれた真の平和社会の実現に向けて人類が叡智を結集し、前文と9条が掲げる理念の実現に向かって進んでいかなければなりません。

問題は、その理念と現実との間に横たわる巨大な溝をどのようにして埋めてゆけばよいのか、また、その溝を埋める為に前文と9条をどのように活用してゆけばよいのかという事です。


正当防衛権さえも否定している憲法9条


かつて共産党の野坂参三衆院議員が、憲法9条の戦争放棄について、「これは侵略戦争を放棄したのであって、自衛戦争まで放棄したものではない」と詰問したのに対し、吉田茂首相は、「近年の戦争の多くは国家防衛権の名において行われた事は顕著なる事実です。故に、正当防衛権を認めること自身が有害であると思うのです」と答弁し、自衛権さえ否定しています。

この正当防衛権(自衛権)さえも認めていないとする吉田発言は、いまわが国が、中国や北朝鮮など、共産党一党支配国家から歯止めの効かない軍事的挑発を受け、抑止力を高めざるを得ない状況に置かれている点から言っても、正当防衛権(自衛権)が国際法(国連憲章)でも認められている自然権である点から言っても、到底頷けるものではありません。

しかし、もし憲法9条が、正当防衛権さえ持つ必要のない、相手に命さえも委ねられる真に平和な世界の実現を目指して設けられた条文だとすれば、吉田首相の答弁には、憲法9条の立ち位置がハッキリ示されていると解釈しなければなりません。

つまり、憲法9条の立ち位置を、「相手に命さえも委ねられる世界こそが真に平和な世界であり、その世界が実現した時、初めて正当防衛権(自衛権)の放棄が可能となる旨を宣言した条文である」という点に置くならば、正当防衛権さえも否定したとする吉田発言は、決して間違っていないという事です。

この吉田発言から分る事は、正当防衛権(自衛権)を放棄する時と、戦争放棄(武力放棄)をする時と、真に平和な世界が実現する時は、同時であるという事です。

言い換えれば、正当防衛権の放棄と武力の放棄を実行する為には、真に平和な世界が実現する事が大前提であり、それ以外にはありえないという事です。

正当防衛権(自衛権)の放棄と、戦争放棄(武力放棄)と、平和な世界の実現の為に欠かせないのは、言うまでもなく「相互の強固な信頼関係の確立」です。

憲法前文に、「平和を愛する諸国民の公正と信義への信頼」がハッキリ謳われているのはその為であり、前文の基礎の上に立つ憲法9条が、1項で戦争放棄を、2項で武力放棄を宣言しているのも、まさに「平和を愛する諸国民の公正と信義への信頼」を前提としているからに他なりません。

そうだとすれば、「正当防衛権(自衛権)を放棄した以上、自衛戦争を放棄していると考えるのは当然だ」という吉田発言から導き出される結論は一つしかありません。

先ほども言ったように、憲法9条は、正当防衛権も自衛戦争もまったく必要のない、強固な信頼関係が確立された真に平和な世界の在りようを想定し、その平和な世界の実現を希求して設けられた条文であり、戦争放棄と武力放棄を世界に宣言している意味もそこにあるという事です。


憲法前文と9条の立ち位置


何が言いたいのかと言いますと、憲法前文と憲法9条は、正当防衛権さえ持つ必要のない、相手に命さえも委ねられる強固な信頼関係に支えられた真に平和な世界の在りようを示し、その世界の実現を希求しているところに大きな意義があるという事です。

言い換えれば、前文と9条は、「真の平和が実現している世界とは、戦争放棄と武力放棄が実現し、正当防衛権さえも持つ必要のない世界である」という人類の到達点を示したものだという事です。

それはつまり、「強固な相互の信頼関係の確立と、国の安全保障は切り離せない」という事であり、もし相互の信頼関係が崩れれば、正当防衛権を放棄した事も、自衛戦争を放棄したと考える事も無意味になり、自衛権も自衛戦争も肯定せざるを得なくなるという事です。

その事を念頭において設けられたのが、まさに「芦田修正」(注1)であり、鳩山一郎内閣が後に、「自衛権も自衛戦争も否定している」という吉田証言を変更して、「自衛権も自衛戦争も放棄していない」と主張した根拠も、そこにあります。(注2)

この「自衛権も自衛戦争も否定している」という吉田証言と、「自衛権も自衛戦争も放棄していない」とする芦田修正は、一見矛盾しているように見えますが、私はそうは思いません。

何故なら、「相互の強固な信頼関係の確立と、国の安全保障は切り離せない」という大前提がある以上、前文と9条は、「自衛権も自衛戦争も否定している」という吉田証言も、「自衛権も自衛戦争も放棄していない」とする芦田修正も、どちらも容認していると解釈せざるを得ないからです。

つまり、吉田証言は、正当防衛権さえ持つ必要のない、相手に命さえも委ねられる強固な信頼関係に支えられた真に平和な世界の実現を前提として出てきた証言であるのに対し、芦田修正は、東西冷戦や朝鮮戦争などによって、そのような真の平和な世界の実現が遠のこうとしている現実を見据えて出てきた修正であるという事です。

「自衛権も自衛戦争も否定している」という理想実現への姿勢(吉田証言)と、「自衛権も自衛戦争も放棄していない」とする現実対応への姿勢(芦田修正)のどちらに重きを置くかは、その時々の世界情勢、つまり、前文に謳われている「平和を愛する諸国民の公正と信義への信頼」がどうなっているかに依存している事は言うまでもありません。

鳩山一郎内閣が、吉田証言を変更して芦田修正に重きを置く姿勢に転じたのは、世界情勢が相互の信頼関係の崩壊に向かって大きく動いていたからです。

自衛隊の設立を違憲と主張する政治家や憲法学者もいますが、世界情勢の変化に対応すべく自衛隊を設ける事は、すでに前文と9条の中に織り込み済みであって、芦田修正によって初めて出てきたものではなく、今まで裏側に隠れていたものが、状況の変化によって裏帰り、表面に出てきたに過ぎません。

大切な事は、憲法9条が実効性の前提としている前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義への信頼」が現実にどこまで担保されているかを見極め、その時々の世界情勢を分析しながら国の安全保障について考える事です。

「強固な相互の信頼関係の確立と、国の安全保障は切り離せない」事を謳っている前文を無視して9条だけを取り上げ、信頼関係の崩壊という現実を無視して、自衛隊の違憲合憲だけを判断する事自体が、無意味であるばかりか、憲法と現実を無視した机上の空理空論と言わざるを得ないでしょう。


現実を無視した空念仏


私達が危惧するのは、前文と9条の立ち位置への認識の大きなズレが、9条が果たすべき役割への誤解、過信、妄信へとつながり、やがては国の安全保障をも脅かされかねない危険性を孕んでいるという事です。

何故なら、「戦争放棄と武力放棄を謳っている憲法9条のお陰で平和が実現している」という願望的、信仰的捉え方でしか、9条を捉えられなくなってしまうからです。

その典型が、まさに「戦後70年間、わが国の平和が保たれてきたのは憲法9条があったからだ」という倒錯した思い込みです。

これでは、先ほどお話した「相互の信頼関係の確立と国の安全保障は切り離せない」という前文と9条の立ち位置から大きく外れてしまう事になります。

前文と9条の存在意義は、相手に命を委ねられるまでの強固な信頼関係を世界各国が共有し、真に平和な世界を実現した時、初めて戦争放棄と武力放棄が可能になる事をハッキリ示すと同時に、国の安全保障の観点から、相互の信頼関係が確立されるまでは自衛権も自衛の為の武力も放棄できない事を明言しているところにあります。

前文と9条が、相互の信頼関係の確立を前提に、戦争放棄と武力放棄を謳っている事は間違いありませんが、その事を謳っているからと言って、その事によって現実の平和が保たれている訳では決してありません。

集団的安保体制による抑止力の効果、様々な外交努力、そしてあらゆるルートを通しての交流促進など、多重的な安全保障の成果として平和が保たれている事は、もはや周知の事実です。

勿論、9条が何らかの役割を果たしている事は否定しませんが、9条だけによって安全保障が保たれている訳では決してありません。

その現実を直視しなければ、9条はいつまで経っても、9条を信仰する人々の空念仏に終わるだけで、現実を変える力とはなり得ないでしょう。


相互の信頼関係を無視してはならない


先ほど「相互の信頼関係の実現」と「戦争放棄」「武力放棄」は三位一体であり、同時でなければならないと言いましたが、この三者には当然、優先順位があります。

平和の実現にとって最も大切なのが、「相互の強固な信頼関係の確立」です。

何故かと言いますと、相互の信頼関係さえ確立されれば、「戦争放棄」「武力放棄」も自ずと後からついてきますが、「戦争放棄」と「武力放棄」だけを実行しても、「相互の信頼関係の確立」がついて来るとは限らないからです。

以前から何度も述べているように、一国だけが率先して「戦争放棄」と「武力放棄」に走っても、他国が同時にそれを実行しなければ、「相互の信頼関係の確立」は、ただの絵に描いた餅にしかなりません。

しかも、国民の総意を反映させる仕組みも政権交代もない共産党一党支配の周辺国が、核開発を匂わせながら挑発を繰り返し、また東シナ海ではわが国の領土領海を侵犯して歯止めの効かない暴走を続け、南シナ海でも、紛争中の岩礁を一方的に埋め立て、軍事施設を作り、相互の信頼関係を崩壊させている状況の中で、わが国だけに足かせをはめても、何の解決にもならないばかりか、自殺行為に等しいと言っても過言ではないでしょう。

それは、相互の信頼関係が全くない他国に、1億2000万人の命運を委ねる事になるからです。

そればかりか、もし領土を一方的に奪われるような不測の事態にでもなれば、黙って見過ごす事が出来なくなり、望まざる戦争に巻き込まれざるを得なくなります。

だからこそ、そうならないよう抑止力を高め、万全の体制を整え、「転ばぬ先の杖」を持っておかねばならないのですが、残念ながら、周辺国と歩調を合わせ、その努力に足かせをはめようと躍起になっている人々が国内に居るのも事実で、私達国民にもたらす不幸な結末を考えると、嘆息せざるを得ないのが正直な気持ちです。


まだ実現していない憲法9条が目指す平和


勿論、抑止力を高めるだけで国の安全保障が担保される筈はなく、外交努力も含め、あらゆるルートを通じて、相互の信頼関係の確立に向けた努力を重ね、多重的な安全保障を考えていかなければなりません。

しかし、憲法9条が、憲法前文に謳われた「平和を愛する諸国民の公正と信義への信頼」の基礎の上に立って設けられた条文である以上、相互の信頼関係が確保されていないばかりか、度重なる挑発や威嚇によって危機的状況に置かれている今の状況では、好むと好まざるとに拘らず、国の安全保障の依りどころとして頼れるものは、力の均衡(抑止力)しかありません。

よく「憲法9条が改正されれば、戦争に巻き込まれ、平和な日本が崩壊する」と言われますが、崩壊する真に平和な世界がどこにあるのでしょうか?

先ほど言ったように、憲法9条が謳っている真に平和な世界など、まだ一度も実現していないのです。

また、もしいま在る日本の平和が、偽りの平和に過ぎないのであれば、それは、憲法9条によって実現している平和ではなく、武力の均衡(抑止力)によって保たれている偽りの平和に過ぎませんから、どのように考えても、「憲法9条が変われば平和が崩壊する」という現実はどこにもありえないのです。

勿論、その事と、憲法9条が目指している真に平和な世界の実現のため、今後とも努力を続けていかなければならない事とは別問題であり、私達は、前文と憲法9条を制定し、平和の実現に向けた努力を誓った責任において、今後とも真の平和実現の為に、弛まぬ努力を傾けていかなければなりません。

しかし、いまの平和が、決して憲法9条によって保たれている平和でもなければ、9条が希求している真の平和でもない事への正しい現状認識がなければ、憲法9条が目指す真に平和な世界の実現はおろか、わが国の安全と国民の生命財産を守る事さえ出来ません。

もし、今の平和が、武力の均衡(抑止力)によって保たれているに過ぎない偽りの平和であり、その平和さえもが、強大な軍事力を背景にした他国からの挑発によって脅かされている事への危機感を持っているなら、憲法9条の正しい活用方法も自ずと見えてくる筈です。

以前から何度もお話しているように、憲法9条は、平和の理念を守る責任をわが国一国が負うのではなく、平和を願う世界各国の人々と共有分担し、相互に協力して覇権主義的野望に燃える一党独裁国家からの軍事的挑発を封じ込め、戦争の危険性を減少させるためにこそ活用すべきなのです。

これこそが、現憲法の前文と9条に与えられた役割ではないでしょうか?

もしその事を理解し、真の平和を願って始められた運動なら、挑発を繰り返す彼の国への批判や対応があって然るべきであり、当然その脅威を封じ込める為、前文と9条の正しい活用方法が採られるべきだと思いますが、そのような動きが全く見られない現状では、真の平和を願って始められた運動とは到底思えず、誰もがその進むべき方向性に疑念と不安を抱かざるを得ないでしょう。


平成27年7月8日


「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(1)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(2)
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(注1)昭和21年、日本国憲法改正小委員会において、芦田均委員長が、9条1項冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の文言を加え、2項の最初に「前項の目的を達するため」の文言を追加した事を指す。
当初の政府案では、9条2項は「陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない」と定められていたが、これでは、「陸海空軍その他の戦力」は、いかなる場合でも保持してはならない事になるため、「前項の目的を達するため」の文言を追加する事により、1項で放棄しているのは、「国際紛争を解決する手段」としての戦争や武力行使であって、自衛の目的であれば、戦力を保持することは可能であると解釈できる。
この修正が、自衛権も自衛戦争も放棄していないという論拠になっている。

(注2)1954年(昭和29年)12月、自衛隊が発足するに当り、鳩山一郎内閣は、「自衛権さえも否定している」というそれまでの吉田証言を変え、芦田修正を根拠に、「9条1項の戦争放棄は、侵略戦争の放棄であって、独立国が当然有する自衛権の発動としての自衛戦争まで放棄したものではない。2項の戦力不保持は、侵略戦争をするための武力を放棄しただけであって、自衛の為の戦力まで放棄したものではない」とする統一見解を発表した。
その背景には、東西冷戦や朝鮮戦争の勃発など、相互の信頼関係の崩壊という日本を取り巻く状況の大きな変化があった事は言うまでもない。
国民の生命財産を守るため、めまぐるしく変化する世界情勢に臨機応変に対処しなければならない政府として、現実を直視した適切な対応といえよう。
しかし、たとえ憲法解釈が状況に応じて変わらざるを得なくとも、「人類が目指すべき到達点をハッキリ宣言した条文」という憲法前文と9条の立ち位置は普遍的なものであり、この理念だけは今後も変えてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 


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