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「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(4)



宗教者の政治活動


先般、「憲法9条にノーベル賞を」実行委員会のFacebookサイトに、キリスト教の一部の牧師さんによって結成された「特定秘密保護法に反対する牧師の会」の活動が紹介されていましたが、改めて宗教者の政治活動について考えさせられました。

先ず僧侶の立場から、宗教者の政治活動について一言すれば、宗教者であろうと政治活動をするのは基本的に自由であり、全く問題ないと思います。

但し、一つだけ条件があります。それは、「宗教の目的を逸脱しない限り」という条件です。

宗教の目的は、言うまでもなく、すべての人々の魂の救済にあります。

心の平和の実現と言ってもいいでしょうが、魂が救われ、心の平和が実現すれば、人々が生きる世界も自ずと平和になります。

仏教ではこのような心の状態を「極楽」と言います。「彼岸」「成仏」「解脱」「救済」等々と表現される場合もありますが、みな同じ意味です。

これに対し、魂が救われていない人々が住む世界を「六道(ろくどう)」と言い、地獄も餓鬼も修羅の世界もみな「六道」の一つですが、この「六道」から自らを救い(自利)、他の迷える人々を救う(利他)、つまり「自利利他」が仏教の目的です。

魂の救済、心の平和の実現にとって欠かせないのが、相互の信頼関係ですが、仏教徒にとっては、先ずみ仏との信頼関係が絶対に欠かせません。

つまり、私がみ仏を信じ、み仏が私を信じて下さるという相互の信頼関係がなければ、魂の救済はあり得ません。

しかし、これだけでは私の魂は救済されても(自利)、全ての人の魂を救済する事(利他)は出来ません。全ての人の魂の救済を実現する為には、私達相互の信頼関係もまた欠かせないのです。

自分が他の人々を信じ、自分も他の人々から信じられるような相互の信頼関係が確立されて、ようやく魂の救済、心の平和と世界の平和が実現します。

残念ながら、ISIL(アイシル)等が行っている無差別テロや、いま世界中で起きている宗教がらみの殺戮や虐殺は、相互不信と憎悪の産物以外の何ものでもなく、この惨状を見れば、いかに相互の信頼関係が平和の実現にとって不可欠であるか、そして、相互の信頼関係の実現がいかに困難であるかがお分かり頂けると思います。


地獄と極楽を分けるもの


相互の信頼関係の重要性について、こんなたとえ話があります。

ある人が、地獄と極楽の食事風景を見に行ったのですが、極楽では、みんな和気藹々と笑いながら楽しそうに食事をしているのに、地獄では、みんな腹を空かせてやせ細り、目を吊り上げて罵り合っていたというのです。

どちらの食卓にも、美味しそうな食事と、1メートル余りもある大きな箸が用意されていましたが、同じ物を使っているのに、何故こんなに違うのだろうと不思議に思い、よく見ると、地獄では、その箸を使って自分の目の前に置かれた食物をとって食べようとしていたのに対し、極楽では、その箸で、自分の前に座っている人の前に置かれた食物を挟み、その人の口に入れてあげていたのです。

地獄と極楽を分けていたのは、1メートルの箸を自分の為に使うか、相手の為に使うか、その使い方の違いに過ぎなかったのですが、何故箸の使い方が、地獄と極楽でこれほど違っていたのでしょうか?

それを分けていたのは、相互の信頼関係の違いでした。

極楽の人々がその箸を使って相手の口に入れてあげていたのは、お互いを信頼し合っていたからですが、地獄の人々が自分の口に入れる事しか考えなかったのは、自分以外の人を誰も信頼していなかったからです。

まさに地獄とは、信頼関係を失くした人々が住む世界と言ってもいいでしょうが、共産主義独裁政権によって支配され、自由な意思表示もできない近隣国の人々を見れば、地獄はあの世の事ではなく、この世に実在する世界である事がよく分かります。

このたとえ話は、相互の信頼関係が心の平和、世界の平和の実現にとっていかに大切であり、かけがえのないものであるかを教えてくれていますが、相互の信頼関係を築く上で、どうしても避けて通れない難題が一つあります。

それは、我々が生きている社会では、100パーセントの信頼関係を確立する事は不可能だという事です。

すでに「憲法9条にノーベル賞を運動に思う(2)」でも述べたように、相互に信頼し合わなければ平和を実現出来ないという現実と、相互の信頼関係が100パーセント保証されていないという現実の狭間で生きていかなければならない私達が取り得る道は、一つしかありません。

即ち、一方で相互の信頼関係を100パーセントに近づける努力を傾けながら平和の実現を目指すと同時に、他方で信頼関係が失われた時のリスクを最小限に抑える努力も忘れてはならないという事です。


牧師会の活動に対する疑問


この事を念頭に宗教者の政治活動を考えてみますと、相互の信頼関係の実現の為に、宗教者として為すべき事は沢山あります。

その活動が、魂の救済と心の平和の実現という宗教の目的を逸脱しない限り、宗教者と雖も、否、宗教者だからこそ、宗教者にしか出来ない相互の信頼関係の実現に向けた活動がある筈です。

ですから、もし牧師会の方々の活動が、相互の信頼関係の実現を目指すものであるなら大賛成であり、宗教者だから政治に一切関与してはならないという意見には賛成出来ません。

勿論、政教分離という憲法上の制約はありますが、この規定は、かつて宗教(国家神道)が戦争と深く結びついた過去の苦い経験を下に設けられたものですから、相互の信頼関係を実現し、戦争の危機を回避する為にする活動まで制約するものではなく、宗教者という理由だけでその活動を制約する事は、本末転倒だと思います。

但し、今回の牧師会の活動に限って言えば、その活動内容が、最初に申し上げた「宗教の目的を逸脱しない限り」という条件に当てはまっているか否かを見極める必要があります。

政府に対する牧師会の要請項目を見ると、次の三点が掲げられています。

1、「特定秘密の保護に関する法律」撤廃のためにご尽力お願いします。
 2、日本が戦争へ進む道を開く「集団的自衛権行使」容認の法整備を行わないでください。
 3、憲法前文・第9条の平和理念を守り、生かしてください。

この要請項目を拝見した上で、今回の活動が、人々の魂の救済と心の平和、世界平和の実現に資するものであるか否かについて考えてみますと、残念ながら、首を傾げざる得ない疑念が残ります。

何故なら、私の眼には、どうしてもその活動が一方に偏っているようにしか見えないからです。


要請項目で平和理念が守れるのか?


要請項目の内、1の特定秘密保護法と、2の集団的自衛権行使容認は、何の根拠も無く、唐突に出てきた動きではありません。

いずれも、東シナ海や南シナ海において、強大な軍事力を背景に、強引とも言える手法で、現状変更を推し進めようとする中国のなりふり構わぬ行動を目の当たりにし、もしこれを黙認すれば、何をしても良いとの誤ったメッセージを送り、益々挑発がエスカレートして、軍事的衝突にも発展し兼ねない恐れが出てきたため、早急に日米同盟を強化し抑止力を高めざるを得ない状況に追い込まれているからです。

もし牧師会の皆さんが、このような現状認識を共有しておられれば、このような要請項目が出てくる筈はないと思うのですが、私が危惧するのは、このような反対の声を上げる事で、覇権主義的野望による強引な海洋進出を推し進める中国をかえって勢い付かせ、益々挑発をエスカレートさせ、軍事的衝突を招きかねない恐れが出てくる事です。

「日本が戦争へ進む道を開く」というコメントがありますが、中国の軍事的挑発や、わが国の安全保障を考えれば、手をこまねいて黙認し、何もしない事の方が、余程戦争へと進む危険性が増すのではないでしょうか?

覇権主義的野望に燃え、強引に他国の領海領空を侵犯する中国の行動は、魂の救済と心の平和の実現、そして世界平和の実現という宗教の目的とは相容れません。

にも拘らず、牧師会の皆さんが、宗教の目的に反する行動をとる中国に対し、何の異も唱えておられないのは、何故なのでしょうか?


憲法9条の活用方法を間違えてはならない


要請項目3の「憲法前文と憲法9条の理念を守り、生かす」事には大賛成であり、是非ともその為の活動を続けて頂きたいと思います。

しかし、同時に、憲法前文と憲法9条の理念を守り、生かす為には、わが国を取り巻く状況と照らし合わせながら、慎重に取り組む必要がある事も肝に銘じておいて頂きたいと願わずにはいられません。

何故なら、憲法前文に掲げられた「平和を愛する諸国民の公正と信義への信頼」と、憲法9条の「戦争放棄」は、謂わば、基礎とその上に立つ家であり、一体不可分の関係にあるからです。

つまり、憲法9条の「戦争放棄」は、「平和を愛する諸国民の公正と信義への信頼」が確保されている事が大前提であり、私達がいくら憲法9条が掲げる戦争放棄・武力放棄の道へ進もうとしても、相互の信頼が確保されているか否かを見極めた上でなければ安易に進めないのです。

何故なら、1億2000万人もの国民の生命財産を危機に陥れる事は出来ないからです。

当然の事ながら、憲法前文と憲法9条の正しい活用方法が見出せるか否かは、その事への認識が有るか無いかにかかってきます。

つまり、憲法前文と憲法9条は、平和理念の実現に欠かせない相互の信頼関係の構築の為に活用すべきである事は言うまでもありませんが、それと同時に、もし相互の信頼関係を崩壊させようとする動きがある時には、その動きを封じ込める為に活用すべき条文でもあるという事です。

その観点から、いま日本を取り巻く状況を考えた時、憲法前文と憲法9条の平和理念を守り生かすのは、どちらの活用方法でしょうか?

日本に足かせをはめる為に活用すべきなのか、それとも軍事的挑発を繰り返す中国の野望を封じ込める為に活用すべきなのか?

今の状況を考えれば、後者の方法以外にはありえないと思います。

つまり、中国の強引な軍事的挑発によって、相互の信頼関係が崩壊の危機に瀕している事を、「平和を愛する諸国民」に訴え、平和を目指す理念と目前の危機感を各国と共有しながら、中国の野望と挑発を封じ込める為にこそ活用すべきなのです。

勿論、今の状況で中国の覇権主義的野望を簡単に封じ込められるとは思いませんが、もし国際世論によって少しでも歯止めがかけられるなら、わが国が抑止力強化に動かざるを得なくなる必要性が低くなり、結果として憲法前文と9条の理念を守る方向に舵を切ることが出来ます。

その意味で、牧師会の活動には、疑念を抱かざるを得ません。これでは、封じ込めるどころか、益々挑発をエスカレートさせ、平和の理念に逆行する危険性を孕んでいると言わざるを得ないのではないでしょうか?


見えてこない根拠


以前から、この運動の発案者の鷹巣直美さんや「憲法9条にノーベル賞を」実行委員会の皆さん、そして「戦争をさせない1000人委員会」や「立憲デモクラシーの会」の皆さんへの疑問として、度々提起してきた事ですが、牧師会の皆さんが、特定秘密保護法や集団自衛権行使容認に反対し、日本にさえ足かせをはめれば、挑発を繰り返す国との相互信頼関係が確立でき、憲法前文と憲法9条の平和理念が守れると考えておられる根拠は何なのでしょうか?

その根拠が分らないので何とも申し上げられませんが、少なくとも実行委員会のFacebookサイトで、この活動が紹介されているところをみると、牧師会の活動は、実行委員会の考え方と一致するところがあるのだろうと推察します。

特定秘密保護法や集団自衛権行使容認に反対する事が、何故憲法前文と憲法9条の平和理念を守る事につながるのか、その根拠が示されていない点が、反対する人々の共通点ですが、強いて根拠らしきものを挙げるとすれば、同じ実行委員会のFacebookサイトに紹介されている「日本弁護士連合会」のウエブサイトに掲げられたコメントがそれに当るのかも知れません。

そこには、「国に対し、国民の表現活動を侵してはならないと縛りをかけている」「国民が制定した憲法によって国家権力を制限し、人権保障をはかることを「立憲主義」といい、憲法について最も基本的で大切な考え方です」「憲法は、国民のために、国民の権利・自由を国家権力から守るためにあるのです」等の文言が並んでいますが、恐らく、憲法の役割に対するこのような認識、つまり国家権力に足かせをはめる事が憲法の役割だという思い込みは、この運動の発案者の鷹巣さんや実行委員会の皆さん、「戦争をさせない1000人委員会」や「立憲デモクラシーの会」や牧師会の方々に共通する認識ではないかと思います。

もしそうだとすれば、残念ながら、この認識についても異を唱えざるを得ません。何故なら、国家権力だけから国民を守るのが憲法の目的だとは思えないからです。

わが国が戦争放棄を宣言したのは、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、 われらの安全と生存を保持しようと決意した」からであり、わが国の安全保障と国民の生命財産を守る為には、世界各国への信頼関係が担保されなければならない事が、憲法前文に謳われているように、わが国の安全と国民の生命財産を脅かすあらゆる脅威から守るのも、平和憲法に課せられた大切な役目なのです。

牧師会の要請項目にある「憲法前文・第9条の平和理念を守り、生かして」、国民の生命財産を守る為には、国家権力だけではなく、わが国との信頼関係を崩壊させようとしている対外的脅威からも守られなければなりません。

勿論、国民を守る為に、憲法によって国家権力に足かせをはめ、戦争を未然に防がなければならない時もあるでしょう。

その事を否定するつもりはありませんが、場合によっては、国民を守る為、戦争を未然に防ぐ為、足かせをはめてはいけない時もあります。

その判断は、日本を取り巻く世界情勢如何にかかっていますが、いずれにしても、相互の信頼関係を無視した一国平和主義が実現不可能である以上、日本だけが憲法9条を盾にして突っ走る事への根強い疑念や不安に対し、どの会の皆さんからも、明快な説明も根拠も示されていない現状では、この運動への反対意見が沸騰するのもやむを得ないでしょう。


戦争ができる国づくり?


牧師会の声明の中に、「多くの国民の不安や反対の声、国外の懸念の声に耳を傾けることなく、政府は「特定秘密の保護に関する法律」法施行を強行し「積極的平和主義」の名の下に推し進める「戦争ができる国づくり」の流れを加速させています」という一文がありますが、これはむしろ逆ではないでしょうか?

軍事的挑発を繰り返す独裁国家があり、その脅威から、国民の生命財産を守れる当たり前の防御体制がとれる国づくり」を、大多数の国民が望んでいるからこそ、国民は、その体制がとれる現政権を支持しているのではないでしょうか?

この「憲法9条にノーベル賞を」運動が、非武装中立を掲げ、平和の実現を目指している運動であるにも拘らず、様々な疑問や不安を抱く人々がこれほど多いのは、軍事的挑発を繰り返す独裁国家の脅威が、非武装によってかえって増大し、国民をチベットやウイグルと同じ悲惨な状況に陥れる恐れがある事への懸念を共有しているからです。

勿論、非武装中立によって、その脅威が取り除けるという確固たる根拠や明快な説明がなされ、国民が納得出来るのであれば、平和の実現を望んでいる人々が反対の声を上げる筈がありません。

残念ながら、その根拠も説明もない状況の中で、今にも戦争が起きるかのような「戦争ができる国づくり」という、危機感を煽るキャッチフレーズだけを幾ら連呼されても、国民の耳には虚しく聞えるばかりです。

日弁連のウエブサイトには、「憲法は、国民のために、国民の権利・自由を国家権力から守るためにあるのです」と書かれていますが、確かにこれも一理ある意見だと思います。

しかし、憲法によって足かせをはめる事が国民の生命財産を守る事になるのか否かを見極め判断するのは、我々国民です。

しかも、わが国は、軍事的挑発を繰り返す一党独裁国家とは違い、選挙と言うフィルター装置が用意され、国民が望めば政権交代も実現できる民主主義国家である事を忘れてはなりません。

足かせをはめる事が妥当だと思えば、選挙という濾過装置を使って正々堂々と主張し、政権交代を実現すればいいのであって、国民の意志を無視して、足かせをはめる事のみが、さも全国民の願いであり、憲法の原則であるかのように主張してはばからない姿勢は、むしろ民主主義への逆行ではないかと、危惧せざるを得ません。

勿論、その逆もまた然りで、足かせをはめない方が妥当だと思えば、その選択もまた許されており、そうした選択肢を通じて国民の意志を反映させていくのが、民主主義体制を採る我々が進むべき道であり、政権交代の無い一党独裁国家とは根本的に違う点です。

激しく変化する世界情勢を無視して、憲法だけを不磨の大典の如く扱う事は、非常に危険であるばかりか、軍事的挑発を繰り返す一党独裁国家からの脅威を世界各国が目の当たりにしている状況の中では、憲法によって国に足かせをはめる事のみを正しい選択肢とする考え方に不安を抱き、異を唱える人々が大勢を占めるのは、むしろ当然といえましょう。


一方に偏ってはならない


集団自衛権行使容認に関して、憲法9条の解釈変更が取り沙汰されていますが、解釈の変更によって変遷を余儀なくされてきた背景には、朝鮮戦争の勃発や、米ソ冷戦時代への突入、そして近年の無差別テロの拡散など、憲法制定当時のままでは、国民の生命と財産は守れないと判断せざるを得なくなっている世界情勢のめまぐるしい変化があります。

牧師会の声明には、「多くの国民の不安や反対の声、国外の懸念の声に耳を傾けることなく」と書かれていますが、この状況認識はどこから出てきたのでしょうか?

前にも述べたように、集団自衛権行使容認に異議を唱えているのは、反日政策を採っている中国、韓国、北朝鮮の僅か三ヶ国と、それに歩調を合わせる国内の一部勢力に過ぎません。

その証拠に、この三ヶ国以外の東南アジア諸国や世界の国々はみな、日本の集団的自衛権行使容認に歓迎の態度を明らかにしています。

何故なら、民主主義国家では当たり前に認められている、政治に国民の意思を反映させる選挙(政権交代)というフィルター装置を持たない一党独裁国家が、覇権主義的野望に燃え、軍事力を背景に強引に突き進む有様を目の当たりにしているからです。

そのような状況の中で、各国が暴走への危機感を抱くのは当然と言えましょうが、わが国も、抑止力を高めながら、早急に戦争の危機を未然に防ぐ万全の体制を整えておく必要があります。

但し、解釈の変更による集団自衛権行使容認にも限度があり、もし憲法の条文に縛られて、国民の安全を確保出来ない恐れが出てくれば、条文の改正という選択肢も、当然有り得るでしょう。

勿論、国の根幹に関わることを決めている憲法が、時の政権によって簡単に変えられるようでは困りますが、他方で、それが足かせとなり、周辺国からの軍事的挑発によって日本が危機的状況に陥るかも知れないという状況の中で、身動きが取れなくなって何もできないというのでは、国民を守る為に作った筈の憲法によって国が滅びるという、笑うに笑えない事態に陥る事だって大いにありえます。

今も言ったように、我々の社会は、相互の信頼関係が100パーセント保証されている社会ではありません。

ましてや、政権交代の無い一党独裁国家の覇権主義的野望によって、相互の信頼関係など無きに等しい状況の中で、いま日本だけに足かせをはめる事が何を意味するかは、チベットやウイグルの惨状を見れば明らかでしょう。

そんな中で、特定秘密保護法や集団的自衛権行使容認に反対する牧師会の活動が、果たして「相互の信頼関係の確立と覇権主義的野望の封じ込め」にどれほどの意味を持つのか、日本だけに足かせをはめる事によって、どこまで魂の救済と心の平和、世界平和の実現という宗教の目的に寄与出来るのかを考えた時、懐疑的にならざるを得ないのが正直な気持ちです。

実は以前から、鷹巣さんや実行委員会の方々に、「本当に平和を願っているのなら、何故、軍事力を背景に挑発を繰り返し、信頼関係を崩壊させようとしている周辺国に対しても、平和の実現に向けた信頼関係の大切さを訴えないのですか?何故危険な暴走を目の当たりにしながら、見て見ぬ振りをしておられるのですか?」と問いかけ、「憲法9条は、その暴走を食い止め、戦争の危機を防ぐ為にこそ活用すべきではありませんか?」と提案してきましたが、今までの活動状況を見る限り、憲法9条のみを国の足かせとして使う以外の選択肢は考えておられないようです。

牧師会の皆さんが、実行委員会の方々と同じ立ち位置にあるとは思いたくありませんが、もし同じであるなら、鷹巣さんたちに抱いた疑問を、牧師会の方々にも投げかけざるを得ません。

もし真の平和を望んでおられるなら、何故、特定秘密保護法や集団的自衛権行使容認に反対するだけでなく、そうせざるを得ない状況を作り出し、信頼関係を崩壊させている周辺国の軍事的挑発に対しても、反対の声を上げられないのですか?

平和を望む宗教者としての活動であるなら、そして、その活動が宗教の目的を逸脱していないのなら、一方にだけ偏ってはならないと思います。


平成27年5月8日


「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(1)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(2)
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