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宗教は人にあり(2)

─神仏の絶対不可侵性とは─



素朴な疑問


過激派によるフランスの新聞社「シャルリー・エブド」襲撃事件は、世界中に大きな衝撃を与え、「報道の自由」の在り方や信仰の尊厳性をめぐって、様々な問題を提起しています。

過激な無差別テロを非難する為に掲載した筈の風刺画が、イスラム教やムハンマドを冒涜していると誤解され、イスラム教徒の反発を招いて、あのような報復につながった事を考えれば、ただ過激思想に染まった犯人だけを非難しても、問題は何も解決しません。

マスメディア自身がもう一度原点に立ち返り、今回の事件を、「報道の自由とは何か?マスメディアの使命とは何か?」を考え直す契機としなければ、今後も同じような悲劇が繰り返されるだけでしょう。

しかし、今回の事件は、その事と同時に、「神の絶対不可侵性、預言者の尊厳性とは何か?」という、イスラム教徒の信仰の在り方そのものが問われている事件でもあるような気がしてなりません。

過去に、イスラム過激派と言われる組織が関わる事件が起きる度に感じてきた事ですが、今回の事件でも感じた素朴な疑問があります。

それは、「イスラム教徒にとって、唯一絶対神アラーや預言者ムハンマドは、あのような風刺画を描かれたくらいで、その不可侵性や尊厳性が傷つけられる存在なのか?」という事です。

イスラム教徒にとって預言者ムハンマドは、恐らく、我々仏教徒にとって、お釈迦様のようなお方だろうと思います。

そのムハンマドが侮辱されていると感じる風刺画は決して好ましいものではなく、仏教徒の一人として、イスラム教徒が怒りたい気持ちも分らないではありません。

しかし、不思議でならないのは、「何故あのような風刺画によって、預言者ムハンマドの尊厳性が冒涜された事になるのか?」という事です。

何故なら、あのような風刺画を掲載されたくらいで、ムハンマドの尊厳性が傷つけられ、冒涜された事には絶対にならないと考えるからです。


神仏の絶対不可侵性とは


そもそも、イスラム教徒が言う神の絶対不可侵性とは、何でしょうか?

もし、絶対に侵してはならない存在という意味ならば、神仏の絶対不可侵性は、我々人間に依存する事になり、信仰のない者によって、幾らでも傷つけられ、汚される恐れのあるものに過ぎなくなってしまいます。

イスラム教徒が、アラーやムハンマドの尊厳性が傷つけられ、冒涜されたとして風刺画を掲載した新聞社に抗議し、今回の「シャルリー・エブド」社襲撃事件にまで発展したのは、新聞社が、絶対に侵してはならない存在であるイスラム教の神と預言者の尊厳性を傷つけ、汚したと受け止めているからでしょう。

しかし、このように人間の手で簡単に傷つけられ、汚される神が、果たして絶対不可侵性を有する神と言えるのでしょうか?

私には、そうは思えません。

もしイスラム教徒たちが、風刺画によって、アラーの絶対不可侵性やムハンマドの尊厳性が傷つけられ、汚されたと考えているのであれば、アラーの絶対不可侵性やムハンマドの尊厳性は、風刺画によって簡単に傷つけられ、汚される程度のものに過ぎない事になります。

例えば、お釈迦様の風刺画が描かれたと仮定しましょう。その風刺画によって、お釈迦様の尊厳性が傷つき、冒涜された事になるのでしょうか?

もしそれでお釈迦様の尊厳性が傷ついたり、汚されるようなら、その尊厳性もまた、絶対不可侵性を有するものではなくなります。

要するに、幾らアラーを中傷しようが、ムハンマドを侮辱しようが、イスラム教を誹謗しようが、お釈迦さまを冒涜しようが、絶対不可侵的存在である神仏の不可侵性やムハンマドの尊厳性を傷つける事など不可能なのです。

だからこそ、アラーは、イスラム教徒達から、唯一絶対的存在と信じられているのではないでしょうか?

そうだとすれば、神仏の絶対不可侵性の意味は、一つしかありません。つまり、絶対に侵してはならない存在という意味ではなく、絶対に侵す事が不可能な存在という意味です。

勿論、イスラム教徒がいう神の絶対不可侵性やムハンマドの尊厳性の中には、彼らの行動規範として、絶対に侵してはならない存在という意味も含まれているでしょうから、それを頭から否定するつもりはありません。

しかし、絶対に侵してはならない存在という意味だとすれば、彼らがいう神の絶対不可侵性やムハンマドの尊厳性は、あくまでイスラム教徒が守るべき行動規範の一つではあっても、イスラム教徒以外の人々が絶対に守らなければならない行動規範ではない事になります。

先ほど、「イスラム教徒が言う神の絶対不可侵性は、我々人間に依存する事になる」と言ったのは、その為ですが、そうなれば、規範を守るか否かの判断は、一人一人の裁量に委ねられる事になり、今回の「シャルリー・エブド」のような事件が、今後も起こり得る可能性があります。

イスラム教徒は、神の尊厳性を冒涜されたと言って怒るでしょうが、尊厳性が冒涜されたと受け止めざるを得ないのは、イスラム教徒が言う神の絶対不可侵性が、絶対に侵してはならない存在という意味に過ぎないからではないでしょうか?

もし彼らの言う神の絶対不可侵性が、絶対に侵す事が不可能な存在という意味であれば、風刺画を掲載されたくらいでその絶対不可侵性や尊厳性が傷つく筈はありませんから、彼らの信仰が冒涜される事もなく、今後このような悲劇が二度と繰り返されない明るい未来が見えてくるかも知れません。

しかし、イスラム教徒が信じる神が、絶対に侵してはならない存在という意味である限り、同じような悲劇は今後も繰り返されるでしょう。

勿論、イスラム教徒以外の人々が、アラーやムハンマドを冒涜してよい筈がない事は言うまでもなく、イスラム教徒もユダヤ教徒もキリスト教徒も仏教徒も、信仰のない人々も、マスメディアも、それぞれの信仰や立場を尊重し、敬う姿勢を決して忘れてはならないと思います。

しかし、自らが信じる絶対に侵してはならない存在である神や預言者を冒涜したからと言って報復したり、無差別に殺害したりする行為は、まさに本末転倒と言わねばならず、これほど神の意思に反する行為はないでしょう。

もしイスラム教の信仰の中に、絶対に侵す事が不可能な存在という意味が確立されていれば、今回のような悲劇は起こらなかったかも知れないと思うと残念でなりませんが、今回の事件は、この問題が、「報道の自由」を担うマスメディアだけで解決できる問題ではなく、「神の絶対不可侵性をどう捉えるか?」という、イスラム教徒の信仰の問題とも併せて考えなければ解決出来ない問題であるという事を、改めて教えられているような気がします。


四国霊場での有り難いお計らい


かつて、四国八十八ヶ所霊場へ遍路修行に行った時の事です。

愛媛県の宇和島市内を歩いていると、対向車線を走ってきた車が私の横に止まり、運転していた男性がいきなり、「真言亡国、もう四国へ来るな!」と罵声を浴びせてきたのです。

真っ赤な顔をしている上に、呂律が回っていませんでしたから、酒を飲んで酔っぱらっている事は、一目見て分りました。

助手席に座っている奥さんと思われる女性が、男性をたしなめていましたが、運転席から、「真言亡国。もう四国へ来るな!」と口走った後、走り去っていきました。

網代笠を被り、信玄袋を背負い、杖を突いて歩いていましたから、一目見て、弘法大師の弟子だと分ったのでしょう。

「真言亡国」というのは、日蓮聖人がおっしゃった言葉で、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と言って他宗を非難攻撃した事から、様々な迫害を受けられました。

聖人の流れをくむ新興宗教の中には、お大師様を、悪魔であるかの如く教えているところもあると聞きますが、その男性も、そのような間違った教えを何の疑いもなく鵜呑みにし、酒の勢いに任せて口走ったのでしょうが、問題は、「その男性が言った『真言亡国。もう四国へ来るな!』という言葉で、お大師様の尊厳性が傷つけら、その偉大さが損なわれたのか?」という事です。

その男性には申し訳ありませんが、お大師様の尊厳性も、その偉大さも、全く損なわれていません。

何故なら、お大師様の尊厳性は、すべてを超越しており、その男性の言葉によって簡単に傷ついたり、汚されたりするようなものではないからです。

超越しているという意味は、一切の汚れを清めて浄化する絶大なお力をお持ちと言う意味で、お大師様にいかなる罵詈雑言を浴びせようが、汚す事など不可能なのです。

お大師様の尊厳性を損なう事は不可能にしても、私の信仰心や自尊心を傷つける事は出来たのでしょうか?

残念ながら、それもありません。私の信仰もまた、そんな言葉で傷つき、汚され、損なわれるものではないからです。

傷つき、汚され、損なわれたのは、お大師様の尊厳性や私の信仰ではなく、「真言亡国」と言って走り去っていったその男性の尊厳性です。

その男性は、自らが発した言葉によって、自らの尊厳性を傷つけ、その徳を損なったのです。

多分、男性はその事に全く気付いていないでしょうが、この世はこだまであり、自らの口から発して言葉は、全て必ず自分自身に跳ね返ってくるのが、この世の真理です。

ましてや、神仏を誹謗し、仏法を誹謗する事は、「誹法罪」と言って、昔からどんな罪よりも重く、自らの命を絶つに等しいと言われています。

ですから、もし「シャルリー・エブド」の関係者が、風刺画によって、アラーの絶対不可侵性やムハンマドの尊厳性を傷つけ、汚したとしても、その結果は、アラーやムハンマドやイスラム教徒にではなく、描いたその人に返ってくるのです。

アラーもムハンマドも、そんな風刺画を描かれたくらいで、少しも穢れるものではありませんし、尊厳性が傷つけられる存在でもありません。

その男性が、「真言亡国」と言って、幾らお大師様を中傷しようが、冒涜しようが、私に罵詈雑言を浴びせようが、その言葉は、お大師様や私に来るのではなく、全てその男性自身に跳ね返ってくるのです。

では何故過激思想に染まった犯人達は、「シャルリー・エブド」を襲撃したのでしょうか?

「真言亡国」と叫んで走り去った男性と同じように、自らの行いや言葉はすべて、自らに返ってくるというこの世の真理を知らなかったからです。

教えられていなかったのか、それともイスラム教の中にそのような教えがないのかは分りませんが、襲撃犯も、「真言亡国」の男性も、自らの手で自らの尊厳性を汚し、大きな罪を作った事だけは間違いありません。


信仰者への冒涜なのか?


「ひいきの引き倒し」という言葉がありますが、イスラム教徒が、ムハンマドを冒涜されたと言って怒っている姿を見ると、「ムハンマドの尊厳性を傷つけているのは、風刺画を描いた新聞社ではなく、むしろイスラム教徒自身ではないだろうか?」という気がしてなりません。

イスラム教徒の怒りは、ムハンマドが冒涜された事も然る事ながら、敬虔なイスラム教徒としての誇りと自尊心を傷つけられた事によるものなのかも知れませんが、もしそうだとすれば、尚更おかしいのではないかと思います。

何故なら、絶対不可侵的存在であるアラーやムハンマドへの信仰は、いかなる中傷を受けようが、誹謗されようが、汚されようが、一切揺ぎ無い不動の信仰でなければならない筈だからです。

「我々イスラム教徒の信仰は、そんな風刺画を描かれたくらいで傷ついたり、汚されるような薄っぺらなものではない」と、胸を張って堂々と言える信仰であってこそ、自らの信仰への誇りも自尊心も確固たるものとなるのではないでしょうか?

イスラム教の指導者の中には、イスラム教徒に向かって、「立ち上がって報復しなさい」とけしかけるお方もおられるようですが、このような言葉によって、知らず知らずの内に、アラーの絶対不可侵性やムハンマドの尊厳性を自らの手で傷つけている事に気付いておられないように思えて、宗教者の一人として残念でなりません。

いかなる誹謗中傷があろうと、その尊厳性を傷付ける事など出来ない不動の信仰を確立してこそ、初めてその信仰は、彼らが信じる神から祝福を受けるに値する絶対不可侵的な信仰となるのではないかと思います。


蓮華の台座の意味


み仏の絶対不可侵性を象徴的に現しているのが、仏様が座っておられる台座の蓮華です。

「高原陸地に蓮華は咲かず」と言われるように、蓮華は、一切の汚物が流れ込む泥沼にしか咲きません。

しかも、その泥に一切染まらず染められずに、美しい花を咲かせるのが、最大の特徴です。

蓮華が、み仏の台座とされているのは、一切の汚泥を栄養源とし、 汚れたものを分け隔てなく取り込みながら、しかも、一切の汚れに染められずに、清らかな花を咲かせる力を持っているからです。蓮華

蓮華が象徴しているように、み仏は、いかなる罵声を浴びせられようが、どんな言葉で侮辱されようが、冒涜されようが、それさえも一切受け入れ、汚れを浄化して、美しい菩提の花を咲かせる絶大なお力をお持ちなのです。

だからこそ、み仏は、絶対不可侵的存在として、多くの仏教徒から信じられ、敬われているのですが、その点では、アラーも、ムハンマドも、イエスキリストも、みな同じだと思います。

どんなに冒涜されても傷つかない絶対不可侵的存在である神仏を信仰させて頂くという事は、言い換えれば、どんなに中傷されようが、冒頭されようが、決して傷ついたり、汚されたり、揺れ動いたりするものではない事を、信仰を通して実践し証明しなければならないという事です。

もし、罵詈雑言を浴びせられて、すぐに怒りの炎を燃やし、仇に仇で返し、報復の行動に出るようなら、その使命を自ら放棄する事になるばかりか、信じる神仏の絶対不可侵性をも自らの手で汚す事になります。

その意味で、ムハンマドを冒涜しているのは、フランスの出版社ではなく、風刺画によって信仰を冒涜されたと怒っているイスラム教徒自身なのかも知れません。

それは、まるで「私達の信仰は、風刺画を掲載されたくらいで怒りをあらわにする信仰なのです」と、自ら告白しているようなものです。

先ほども述べましたが、今回の事件は、マスメディアが「表現の自由」の在り方を問われている事件であると同時に、イスラム教徒自身も、「神の絶対不可侵性、預言者の尊厳性とは何か?」という、信仰の在り方そのものを問われている事件ではないかと思います。

2015年2月17日


宗教は人にあり(1)ー神仏の絶対不可侵性とはー
宗教は人にあり(2)ー神仏の絶対不可侵性とはー
宗教は人にあり(3)ー神仏の絶対不可侵性とはー
宗教は人にあり(4)ー神仏の絶対不可侵性とはー
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