桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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悟り(仏法)こそ救いなり(2)



受け止め方の違い


法徳寺のご縁日は、春秋の大法要を含めて、年に十二回ありますが、帰郷して頂く日が、いつもいつも、お天気に恵まれるとは限りません。

帰郷される皆様にとっては、その日が快晴に恵まれ、清々しい一日となれば、これほど好都合な事はありませんが、残念ながら、雨に見舞われる時もあります。

雨になれば、法徳寺から見える富士山の雄姿を見て頂く事も出来ませんし、足下も悪くなり、帰郷される皆様にとっては、余り好都合とは言えません。

しかし、その日、帰郷される皆様は、その日の不都合な雨に、一期一会のご縁を頂かれたのです。

その不都合な雨は、何もしなければ、不都合な雨のままで何も変わりません。その雨を好都合な雨に変えるには、雨に対する思い方を変える他はありません。

不都合な雨を、不都合な雨のままで終わらせるか、それとも好都合な雨に変えるかは、私達次第であり、その雨に対する受け止め方如何にかかっています。

法徳寺の落慶法要の前日も、生憎、台風23号の影響で山梨県内は大荒れの一日でしたが、台風を不都合と決めるのは、私達自身です。落慶法要

この心を仏教で「分別心」と言いますが、好都合と不都合を色分けし、様々な世界を作り出す心です。

同じ雨でも、「折角明日の落慶法要の為に帰郷させて頂いたのに、嫌な雨だなア」と受け止める事も出来れば、「富士山を拝ませて頂けるまで、何度でも帰郷しなさいというみ仏様のお導きだ」と悟る事も出来ます。

そう悟る事が出来れば、思いもよらぬお計らいが頂ける事もあります。現に、落慶法要当日は台風一過の快晴となり、富士山もその雄姿を見せて、落慶を祝福してくれました。

十人十色百人百様と言われるように、十人の人がいれば十通りの、百人の人がいれば百様の受け止め方がありますが、心の中に様々な世界を作り、泣いたり笑ったりしながら迷いの世界をさまよっているのが、今の私達と言っていいでしょう。

勿論、雨は、私達を困らせようとか、嫌な思いをさせようとか、富士山を見られないようにしようとして降っている訳ではありません。

ただ、その時に降らなければならない理由があるから降っているだけで、晴れなければならない時が来れば、「晴れて下さい」とお願いしなくても、ちゃんと晴れてくれます。

大自然は、人間の都合に合わせて、雨を降らせたり、快晴にしたりしている訳ではなく、あくまで大自然の摂理に従って、降るべき時に降り、晴れるべき時に晴れているだけです。

広島の大規模な土石流も、山裾にある住居を押しつぶそうとして流れてきた訳ではありません。

大量の雨が降れば、水が高きから低きへ流れ、土石流が発生するのは当たり前であり、水はその真理に従って流れているだけです。

このような大災害が起きると、「大自然が牙をむいた」とか「大自然の猛威」などと、いかにも大自然に悪意があるかのような言い方をするお方がいますが、大自然には悪意など全くありません。

過去に崩れた事が何度もある所へ住居を構えた人間の不注意が大災害を招いたのであって、過去の教訓を忘れているところに大きな問題があります。

いずれにせよ、自分にとって不都合な結果を、どのように受け止め、思い開きをしていくかによって、心の中に様々な世界が作られ、自ら作った世界に翻弄されながら生きているのが今の私達であるという事を、肝に銘じておかなければなりません。


三界唯心


言うまでもありませんが、物事をどのように受け止めるかは、まだ何も決まっていません。全くの白紙状態と言っていいでしょう。

干ばつが続いている地方に雨が降れば、そこに住む人々は、「有り難い。恵みの雨だ」と言って、大歓迎します。

しかし、雨ばかり続き、災害の恐れが出てくると、恨みの雨に変わり、迷惑そうな顔をして文句を言います。

同じ雨が、有り難い雨にもなれば、恨めしい雨にもなるのは、その雨に対する受け止め方が違うからです。

雨は大自然の摂理に従って、降る時に降り、晴れる時に晴れているだけですが、その雨を、人間が自分勝手に、「有り難い雨だ」「恨めしい雨だ」と言って分別し、心の中に好都合と不都合を作っているのです。

この受け止め方の違いが大きな違いとなって現れてくるのが、私達の人生です。

仏教に「三界唯心(さんかいゆいしん)」という言葉があります。

三界とは、欲界、色界(しきかい)、無色界(むしきかい)の事で、迷いの世界を意味しますが、その迷いの世界を全て私達の心が作り出しているというのが、「三界唯心」の教えです。

ですから、心の絵筆で、幸せな絵を描くのも、不幸な絵を描くのも自由です。どんな絵を描くかを決めるのは、神仏でも、他の誰でもなく、自分自身です。自分以外に決められる者は一人もいません。


数字のマジック


日本人は、四と九を非常に嫌います。四は死を意味し、九は苦に通じるからです。

しかし、法舟菩薩様は、「四が無かったら、三から五へは行けないし、九が無かったら、八から十へは行けない。四は三と五を繋ぐ架け橋であり、九は八と十を繋ぐ架け橋だ」と、おっしゃっておられました。虹

四も九も必要だから、存在しているのです。しかし、人間は、自分の都合によって、縁起が良いものと、縁起が悪いものとを色分けします。これが、先ほど言った分別心です。

四も九も、縁起が悪い数字として生まれてきた訳ではなく、人間が勝手に、縁起が悪い数字と決め付けているだけです。

八は、末広がりだから、縁起が良いと言いますが、これも、人間が縁起が良いと勝手に決めているだけで、八は、どこまで行っても只の八に過ぎません。

年末にお正月用のお餅を搗きますが、殆どの家が、二十八日か三十日に搗かれるようです。二十九日に搗くという家は余り聞いた事がありません。九が付く日に搗くと「苦餅」になるからという、ただそれだけの理由で二十九日を避けているのです。

しかし、どうしても二十九日に搗かなければならない場合もあります。その場合はどうするのでしょうか?

お正月を前に、お餅を搗かないという訳にもいきません。ではどうすればいいのか?答えは簡単です。 縁起が悪いと思う九を福に変えればいいのです。

法徳寺では毎年、皆さんが避ける二十九日にお餅を搗きます。二十九を「福(29)」に変えれば、苦餅ではなく福餅になるからです。

「縁起が悪い」と思う九を福に変えるには、悟って九を福に変えるしかありません。悟れば、九が福に変わります。

日本人は九を嫌いますが、中国では九は最高の数字と考えられています。

中国は、風水や陰陽道(おんみょうどう)が盛んな国ですが、陰陽道では、偶数が陰、奇数が陽で、九はこれ以上ない最高の数字というので極数とされています。

五重塔や多宝塔の天辺にそびえる相輪(九輪)には、九つの丸い輪が付いていますが、これは、九が無限につながる数字である事に由来しています。相輪(九輪)

九月九日は、九(陽)が二つ重なるので、特におめでたい日とされ、昔から日本でも、九月九日を「重陽の節句」と言ってお祝いする風習があるのは、この陰陽思想からきています。

中国人が、九が四つ並んだ「9999」という自動車の番号を、大金を出しても欲しがるのはその為ですが、日本人は、こんな番号は絶対に選びません。日本には、九は苦につながるという考え方があるからです。

九という数字は、日本でも中国でも同じなのに、その同じ九が何故縁起のよい数字になったり、縁起の悪い数字になったりするのかと言えば、私達がそう分別するからです。

「無限に通じる最高の数字だから縁起が良い」と思うか、「苦を連想させる数字だから縁起が悪い」と思うかで、同じ九がこれほど大きく変わるのです。

先ほどお話した雨と同じで、九は、人間に苦しみを与えたいとも、喜びを与えたいとも思っていません。九は、あくまで九であり、八と十をつなぐ架け橋であり、それ以上でもそれ以下でもありません。

ところが、その九を、人間が、「縁起が良い」「縁起が悪い」と決めつけ、勝手に分別しているのです。

これを見れば、幸も不幸も苦も楽も、全て受け止め方次第だという事がお分かり頂けると思います。

二十九を苦と読むか、福と読むか、それだけの違いで、縁起の悪い「苦餅」にもなれば、有り難い「福餅」にもなるのです。

皆さんは、ただ受け止め方が違うだけだと思われるかも知れませんが、心は、人生そのものをも根底から変えてしまうほどの大きな力を持っています。

受け止め方によって、私達の住む世界を百八十度変える事だって不可能ではありません。

「苦餅」を「福餅」にするか、それとも「福餅」を「苦餅」にするか、たったそれだけの違いで、人生そのものが百八十度変わっていくのです。

人生を変えるのは、すべて私達の心です。私達の分別心が、住む世界を作り、人生を根本から変えていくのです。

良く変われば、自分の力だと自画自賛し、悪く変われば、あの人が悪い、会社が悪い、社会が悪いと言って他に責任を転嫁している人をよく見かけますが、これでは、益々迷いを深めるだけであって、いつまで経っても救いの灯を見る事は出来ません。


思いも寄らぬ心の力


先にお話したように、心には、人生を根底から変える力があります。私達を幸せにするのも、不幸にするのも、みな心です。

その心は目に見えませんが、目に見えない心が、私達の人生を大きく左右し、引いては国全体をも動かしているのです。

よく不景気とか好景気とか言われますが、何故、景気が良くなったり悪くなったりするのかと言えば、私達の心が経済を操っているからです。

「先行きが不安だから、お金を手元に置いておこう」と思えば、誰もお金を使わなくなり、景気が悪くなります。

反対に、給料が上がり、世の中に明るい兆しが戻ってくれば、お財布の紐もゆるみ、景気は上昇してゆきます。

経済でさえも、人の心が操っているのですから、当然、その心は、私達自身の人生をも大きく左右するほどの大きな影響力を持っています。

だからこそ、その心を如何に制御し、より良き方向へ導いていくかが問われる訳ですが、やっかいなのは、わが心でありながら、中々思い通りになってくれない事です。

ではどうすればよいのか?

思い通りにならない我が心をより良き方向へ導いてゆく為には、仏法に従う以外に道はありません。仏法に従っている限り、心が間違った方向へ進む事はありませんから、いつ如何なる時も、仏法に触れ、迷える心を正しい方向へと導いて行けるよう、心しておかなければなりません。


平成26年11月2日


悟り(仏法)こそ救いなり(1)
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