桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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いのちあるうち いのちあるうち

─お彼岸に寄せて─



お彼岸の意味


9月23日の中日を挟んで一週間が秋のお彼岸になりますが、お彼岸中は、ご先祖を偲んで法要を勤めたり、お墓参りをされる皆様も、大勢おられると思います。

お彼岸とは、「此岸(しがん)」に対する言葉で、救いの世界を現しています。

昔から、此岸と彼岸の間を流れる川を「三途(さんず)の川」と名付け、亡くなられたお方は、みな三途の川を渡って彼岸へ行くと説かれていますが、これは譬えであって、実際にこのような川が、この世とあの世の間に流れている訳ではありません。

仏教を「内道」と言い、仏教以外の教えを「外道(げどう)」と言うように、心の救いを説いているのが仏教ですから、此岸も彼岸も三途の川も、すべて私達の心の中にあります。

三途とは、六道(六つの迷いの世界)の中の「地獄、餓鬼、畜生」の事を言います。

六道とは、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上」の六つの世界を指し、三悪道と言われる地獄、餓鬼、畜生の世界から救われる事を譬えて、「三途の川を渡る」と言うのです。

昔から、三途の川を渡る時の為にと、棺に六文銭を入れるのが慣わしになっていますが、この六文銭には、迷いの世界である六道から救われて欲しいという願いが込められています。


お彼岸に込められた願い


お彼岸は、ご先祖供養の為に設けられた行事である事は言うまでもありませんが、それと同時に、生きている私達を彼岸に渡したいという願いの下に作られた行事である事を忘れてはなりません。

地獄は怒りの心、餓鬼は貪りの心、畜生は自分さえよければいいという自我我執の心によって作られる世界で、怒りと貪りと自我我執の心を制御しなければ、彼岸に渡る事は出来ません。

お彼岸と共に大切な仏事であるお盆は、釈迦十大弟子の一人、目連尊者が、餓鬼の世界に堕ちた母親を救った故事に由来しますが、目連の母親は貪りの心が強く、「惜しい欲しい」で生涯を送った為に餓鬼道に堕ちました。

菩薩様が作られた『救済和讃』の中に、
  この世の業が 分かれ道
  万苦が尽きる 地獄道
    欲しい惜しいが 餓鬼の道
    わが身ばかりが 畜生道
 と詠われているように、「欲しい惜しい」という貪りの心で生きた人が堕ちる世界が、餓鬼の世界です。

餓鬼にも、「無財餓鬼」と「有財餓鬼」があり、欲しいが「無財餓鬼」、惜しいが「有財餓鬼」です。

「無財餓鬼」は、あれも欲しい、これも欲しいと、飽くなき貪りの心に支配された強欲な人が堕ちる世界です。

「有財餓鬼」は、有り余るほどの財産があるのに、それを人に施すのが惜しいという、自分の財産に対する執着心の強い人が堕ちる世界です。

また貪り、怒り、愚痴嫉妬の三つを「三毒煩悩」と言いますが、仏教では、貪りの心は餓鬼の世界、怒りの心は地獄の世界、愚痴嫉妬の心は修羅の世界へ堕ちてゆくと決まっています。

地獄、餓鬼、畜生の三つに、自我我執の心で作る畜生の世界を加えて、「四悪道」といいますが、要するに地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六つの世界(六道)を心の中に作って苦しんでいるのが今の私達であり、その迷い苦しみの世界から、救いの世界である彼岸へ渡って欲しいという先人の願いが、お彼岸の行事に込められているのです。

決してご先祖供養の為だけに作られた行事ではないという事を、忘れないで頂きたいと思います。


吉祥天と黒闇天


こんな話が、経典に説かれています。

或るお家に、気品ただよう美しい女性が訪ねて来られ、「私は吉祥天という福の神です。お宅に、福徳を授けにまいりました」と言って、家の中に入って来られました。

ところが、吉祥天の後から、見るからにみすぼらしい女性がもう一人入って来られたので、家人が「どなたですか?」と尋ねると、「私は黒闇天(こくあんてん)という疫病神です」と名乗ったので、「疫病神に入ってもらっては困ります。どうぞお帰り下さい」と言って、追い返そうとしました。

すると、黒闇天は大笑いして、「先ほど入って行った吉祥天は、わたしの姉です。わたしたちはいつも一心同体ですから、わたしを追い出せば、姉の吉祥天も一緒に出て行かねばなりません」と言って、黒闇天を追い出したら、せっかく入って来られた吉祥天も黒闇天と一緒に出て行ってしまったというお話です。

とても示唆深い話ですが、この話が教えようとしているのは、吉も凶も、此岸も彼岸も、地獄も極楽も、幸も不幸も、苦も楽も、結局同じものだという事です。

つまり、吉凶禍福、幸不幸というものは、一枚の紙の裏表のようなもので、同じものを、どちら側から見るかの違いに過ぎないのです。

例えば、東京の空より、山梨の空の方が澄んでいて、空気も綺麗ですが、では、東京に住んでいる人は不幸で、山梨に住んでいる人は幸せだと言えるのでしょうか?

そんな事は断じてありません。

東京は山梨に比べ、都市機能も充実していて、暮らすにはとても便利で、山梨より優れた点が多々ありますが、では、山梨に住んでいる人は不幸で、東京に住んでいる人は幸せだと言えるのでしょうか?

これもまた違います。

東京は空気が汚れているから、山梨へ行けばきっと空気も美味しいし、快適な暮らしが出来るだろうと思って山梨へ来ても、やがて不満が出てくるでしょう。

また山梨は不便だから東京へ行けば便利で快適な毎日を送れるだろうと思って、東京へ引っ越しても、やはり不平をもらすようになるに違いありません。

何故なら、東京にも山梨にも、それぞれ優れた点もあれば、劣った点もあるからです。

私が申し上げたい事は、幸せばかりの世界(彼岸)も、不幸ばかりの世界(此岸)もないという事です。

「吉凶はあざなえる縄の如し」で、幸福のある所には必ず不幸が隠れ、不幸がある所にも必ず幸福が潜んでいます。

お釈迦様が、この世の有様を「四苦八苦」(注1)と説かれたように、この世が、苦しみ多き世界(此岸)である事は間違いありません。

しかし、苦しみだけの世界では、決してありません。この世が四苦八苦の世界であるなら、苦しみから救われる世界(彼岸)も、必ずこの世にあるのです。

よく、此岸はこの世、彼岸はあの世の事と誤解し、信心すれば、あの世の極楽浄土へ往生できると信じておられるお方がいます。

これは、先の例でいえば、東京は空気が汚いから、山梨へ行けば幸せに暮らせると言っているのと同じで、間違いではありませんが、正確ではありません。

何故なら、三途の川も彼岸も、地獄も極楽もすべて、この世にあるからです。

何故、この世にあると断言出来るのかといえば、地獄も極楽も、三途も彼岸も、苦しみも幸せも、すべて私達が作りだす世界だからです。

地獄も極楽も、私達が生きている所にしかありません。

ですから、私達が此の世にいれば、地獄、極楽もこの世にありますし、私達があの世に往けば、地獄、極楽もあの世に付いてきます。

地獄のようなこの世だから、あの世へ往けばきっと極楽浄土があるだろうと、信じたくなる気持ちは分かりますが、生きる世界を変えても、場所を変えても、何も変わりません。

苦しみから救われるのに、生きる世界を変える必要などないのです。

浪の音 嫌じゃと思うて山ごもり
   声色変えて 松風ぞ吹く
 という古歌があるように、生きる世界を変えても、場所を変えても、自分が変わらなければ何も変わりません。

もし私達が生きるこの世に苦しみ(地獄)があるなら、苦しみから救われる道(極楽)も必ずこの世にあります。

救いの道もないのに、苦しみだけが与えられる事は絶対にありません。

何が言いたいのかといいますと、いま何らかの苦しみを与えられていても、何ら悲観する必要はないという事です。

苦しみが与えられたという事は、ようやく救われる時期が来たという事です。苦しみが与えられた時が、まさに救われる時なのです

ですから、苦しみが与えられた時は、苦しむ為に与えられたのではなく、救われる為に与えられたのだと悟り、苦しみに感謝して、救いの道を求めなければなりません。

救いを求める事を「発心(ほっしん)」と言いますが、発心しなければ、救いの舟に乗って彼岸へ渡る事はできません。

苦しみが あるから菩提の花が咲く
   苦を持つ人こそ しあわせなりけり
 です。

吉祥天と黒闇天の話は、その事を教えてくれているのです。


お彼岸が教える真理とは


さて、われわれ日本人に馴染みの深いお彼岸ですが、数ある仏教国の中で、お彼岸の行事があるのは日本だけです。

一説には、聖徳太子が始められたとも言われていますが、芽の出る春と、散ってゆく秋にお彼岸の行事を作られた先人の叡智には、いつも感心させられます。

ご先祖を敬い、四季折々の美しい大自然に抱かれて生きてきた日本人だからこそ作り得た行事と言っても過言ではありませんが、お彼岸が教えている仏教の真理をご存じでしょうか?

一つは、「諸行無常」です。

「無常とは死ぬ事だ。死んでしまえば全て帳消しになる。だから、好きな事をして生きなければ損だ」とおっしゃるお方もいますが、無常とは、ただ死ぬ事ではありません。

文字通り、無常とは、移り変わる事を意味します。死んで終わりなら無常とは言いません。

 無常とは なくなることと思うなよ
    春夏秋冬 めぐり来るのに
 という歌があるように、果てしない生死の繰り返しが無常であり、その中に居るのが私達です

いま私達は、親から子、子から孫へと受け継がれていく命のリレーの真っ只中にいます。

私の命は、無数のご先祖から受け継がれた命であると同時に、無数の子孫へとつながっているかけがえのない命でもあります。

その事を考えると、ご先祖への感謝の念と、後に続く次世代に命を守り伝えていかなければならない責任の重さを痛感します。

もう一つは、「中道の精神」です。

昼と夜の長さがほぼ同じである春分の日と秋分の日を彼岸の中日と定めているのは、苦にも楽にもとらわれず、右にも左にも偏らず、常に真理を見つめながら進んで欲しいという願いが込められているからです。


いつ願いに答えるのか?


この二つの真理を悟って、苦しみの原因である執着と分別心から自由になり、晴れて三途の川を渡って彼岸(極楽)へ到達して欲しいというのが、お彼岸を作られた先人の願いですが、その願いに答えるのはいつなのでしょうか?

その時は、生きている此の世の今をおいて他にはありません。

「いつやるの?今でしょう」と言って有名になった学習塾の先生がいましたが、まさに今がその時なのです。

「生きている内に渡れなければ、死んであの世へ往ってから彼岸へ渡ればいいじゃないか?」と言われるかも知れませんが、残念ながら、私達には、今という時しか与えられていません

頭で考えれば、確かに明日も明後日も、あの世もあるように思えますが、明日になっても、明後日にあっても、あの世になっても、私達が生きられるのは、明日の今、明後日の今、あの世の今だけなのです。

100歳の双子の姉妹として有名になった金さん、銀さんだって、100年を生きた訳ではありません。生きたのは、今という一瞬です。

その今の積み重ねが、結果として100年なり80年なりの人生になるだけに過ぎませんから、 幾らあの世へ往ってから彼岸へ渡ろうと思っていても、あの世は永遠にめぐって来ないのです。

ですから、此岸から彼岸へ渡るのは、生きているこの世の今をおいて他にはありません。
  人の身は 咲いて散るこそ桜花
    いのちあるうち いのちあるうち


平成26年9月27日


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(注1)四苦八苦とは、「生老病死」苦の四苦に、愛別離苦(あいべつりく・愛する人と別れなければならない苦しみ)、怨憎会苦(おんぞうえく・会いたくない人と会わなけ ればならない苦しみ)、求不得苦(ぐふとっく・欲しても思うように得られない苦しみ)、五陰盛苦(ごおんじょうく・様々な欲望に縛られて生きなければなら ない苦しみ)を加えたもので、私達の人生は、苦そのものであると説かれた教え。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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