桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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先祖供養は生き供養(3)



遺骨は畏敬の念の象徴


次に二つ目の論点である「遺骨は引き取らなくてもよいのか?」についてです。

記事には「遺族は東日本では全骨を引き取るのに対し、西日本では3分の1程度であり、残りは火葬場などが処理している。ならば、理屈上は、全骨処理してもらってもおかしくはなく、それで遺族は墓の確保が不要になる」と書かれていますが、この論理は飛躍しているのではないでしょうか。

確かに西日本には、埋葬用の遺骨と、分骨用の遺骨を収集し、残った遺骨は火葬場にある慰霊塔に祀って頂くという慣習があります。

ならば、理屈上は、全骨処理してもらってもおかしくはない」と言われるのですが、残った遺骨を火葬場の慰霊塔に祀って頂く慣習があるからと言って、何故それが全ての遺骨を火葬場に処理してもらってもおかしくないという結論に結びつくのか、私には、よく分かりません。

言うまでもありませんが、遺骨は、物ではありません。残された遺族にとっては、苦楽を共にしてきた亡き父母や家族の生きた証であり、先立った者にとっては、遺族を信仰へと導くかけがえのない救いの依り代なのです。

亡くなった人と、残された遺族とを結びつける精神的支柱ともいうべき遺骨の処分を、あたかも物を処分するかのように、他人に委託するという安易な発想の先に待っているのは、わが先祖の供養までも他人任せにしようという寒々とした慣習ではないでしょうか。

また島田氏は、「日本人は骨に対する執着・信仰があるというが本当なのか?」と仰っておられるようですが、日本人にあるのは、「骨に対する執着や信仰」ではなく、「ご先祖に対する畏敬の念」ではないでしょうか。

ご先祖に対する畏敬の念が、代々受け継がれてきた中で、埋葬方法が土葬から火葬に変わった結果、現在は遺骨を祀るという形に統一されているだけであって、ご先祖に対する畏敬の念は、父母やご先祖の遺体がそのまま埋葬されていた土葬の時代も、遺骨だけが残る火葬の時代も、まったく変わっていません。

つまり、遺骨は、亡き父母やご先祖を畏敬する象徴であり、土葬の時代の遺体と同じく、遺骨と畏敬の念を切り離す事は出来ないのです。

更に「遺骨を大切にするという「常識」は、戦争で膨大な戦没者が出たために遺骨への思い入れが強まったことと、火葬の普及が重なったために、戦後に出来上がったもの」との指摘にも疑問を抱かざるを得ません。

戦後になって、遺骨を大切にするという慣習が、日本人の「常識」となったのではなく、土葬、火葬の時代を問わず、先祖を敬う畏敬の念が、日本人の「常識」として、親から子、子から孫へと受け継がれてきたのです。

戦争で膨大な戦没者が出たから、遺骨を大切にする思いが強まった」と仰っておられますが、土葬の時代から受け継がれてきた亡きご先祖への畏敬の念が、たまたま土葬から火葬に変わっていった結果、遺骨を大切にするという形に変わり、戦争という悲劇の中で大勢の戦没者が出た事で、更にその思いが深まったのです。

要するに、根底に流れるご先祖に対する畏敬の念は、全く変わっていないのです。

島田氏の言うように、戦争という契機があったから、遺骨を大切にするという思いが強まった訳では決してありません。


両墓制について


記事には「日本では、埋め墓と詣り墓の両墓制を取り、詣り墓にだけ参る慣習も一般的だった」とあり、「だから、遺骨に対する思い入れは深くないから、遺骨を引き取らなくても全く問題はないのではないか?」と言う事ですが、確かに、日本では、遺骨を埋葬する為の埋め墓と、お詣りする為の詣り墓の両墓制が取られていたのは事実で、現在でも両墓制を取る地域が存在します。

何故このような慣習が生まれたのかは知りませんが、埋め墓の場所がお詣りするのに不便であったり、何らかの事情があったのでしょう。

そのような地域では、両方の墓にお詣りする遺族もいれば、詣り墓にだけお詣りする遺族もいるでしょうが、だからと言って、何故島田氏の言うように、短絡的に「詣り墓だけしかお詣りしないのだから、遺骨に対する思い入れは浅く、遺骨を埋葬する墓も必要ない」という結論になるのでしょうか?

島田氏の言っている事と現実は、むしろ逆ではないかと思います。つまり、「詣り墓だけしかお詣りしないのだから、遺骨を埋葬する墓は必要ない」のではなく、「埋め墓が別にあるからこそ、詣り墓だけにお詣りしてきた」のです。

詣り墓は、埋め墓がある事を前提に作られたお墓であり、もし埋め墓がなくなれば、詣り墓が存在する意味も失われます。詣り墓は、埋め墓がなければ存在しえないお墓なのです。

私の知る限り、埋め墓と詣り墓を持つ家はあっても、詣り墓しか持たない家は一軒もありませんが、それは、埋め墓のない詣り墓は、最初から想定されていないからです。

要するに、どう考えても、「詣り墓だけしかお詣りしないのだから、遺骨は引き取らなくてもよいし、埋め墓も必要ない」という結論にはならないのです。


今も変わらない四苦八苦の人生


更に「長寿化が進み、「大往生」の時代になった今、「多くの日本人は自分が十分生きたと思い、現世よりも浄土がいいとは思えなくなっている。四苦のうちの『生』は苦ではなくなっている」のだから、「この世が苦界である事を前提として極楽往生を説く仏教的信仰は変わりつつあり、それが、葬儀の簡素化にもつながっている」と仰っておられますが、ここにも誤解があるように思います。

仏教で説かれる四苦とは、「生老病死」苦の事ですが、文字で書くといかにも四つの苦しみが別々にあるかのように見えますが、この四苦は一体のものであり、四苦の「生」には、老苦と病苦と死苦も含まれており、老病死苦のない「生」など最初から存在しません。

ですから、もし「四苦のうちの『生』は苦ではなくなっている」のであれば、老も病も死も、苦でなくなっていなければなりません。

逆に、もし老も病も死も、苦であるなら、生もまた苦である筈です。

確かに日本は、世界一と言われるほどの長寿国になりました。しかし、世界に誇れる長寿化は、日本人から、生きる上での生老病死の苦を取り除き、「大往生」の時代をもたらしてくれたのでしょうか?

大往生とは、ただ長生きする事ではありません。病院のベッドの上で、様々な機械につながれ、死を待つだけの延命では、いくら長生きしても「大往生」とは言えません。

島田氏が、苦しみではなくなっていると言われる「生」の長寿化は、認知症人口の増加や、病気を苦にした自殺、介護疲れによる殺人、死を待つだけの病院での延命治療など、むしろ様々に形を変えた「老病死」苦を加速させているのではないでしょうか?

要するに、世界一の長寿国の現実は、四苦八苦を説かれた2500年前のお釈迦様の時代と本質的に何ら変わっていないだけでなく、長寿化による新たな苦しみが、次々と私たちに降りかかっているのです。

変わったのは、肉眼に映る現象界だけで、悩み苦しむ存在としての人間の本質そのものは、お釈迦様の時代と何も変わっていません。


0葬は無常を説く仏教本来の立場なのか?


島田氏は、「仏教は無常を語るのだから、0葬の方向性の方が本来であるはず。仏教も歴史と共に変化するもので、葬式仏教とは別のあり方が見直されていくと思う」と述べておられますが、葬式仏教が見直されていく事には私も大賛成です。

しかし、その事と、遺骨の処理を火葬場に委託して引き取らない事とは、何の関係もありません。

そもそも仏教が無常を説くのは、無常を悟る事が、魂の救済にとって必要不可欠だからであって、それ以外の何ものでもありません。遺骨を引き取らない0葬の方向性と、無常を説く仏教本来の立場は、まったく次元の異なる問題です。

私は、全骨を引き取らずに火葬場で処分してもらうという唯物的思考こそが、まさに無常を説き、魂の救済を目指す仏教思想に相反する思考ではないかと思います。

島田氏が、このような提案をされるのは、お葬式や戒名料、墓地や墓石にかかる費用が余りにも高額である事がその背景にあるようですが、その点に関しては、私も忸怩たる思いを禁じ得ません。

死後得度式とも言うべきお葬式(引導作法)に、多額の費用がかかるというのは、僧侶の眼から見ても、異常という他はありません。

しかし、だからと言って、短絡的に「お葬式は必要ない。遺骨も引き取らなくてよい」と結論付ける事には、賛成しかねるのです。

今も言ったように、このような考えが「無常を説く仏教本来の立場」であろう筈がなく、「魂の救済」を説く仏教精神から見れば、本末転倒と言わざるを得ないからです。


先骨を叩く餓鬼と、先骨を拝む天人


次のような話があるのをご存じでしょうか?

釈迦十大弟子の一人で、「多聞第一」と言われた阿難尊者が、お釈迦様のお供をして、教化の旅に出ておられた時の事です。

ふと前方を見ると、雨ざらしになっている白骨を叩いている餓鬼がいるので、不思議に思った阿難尊者は、「どうしてあの餓鬼は、白骨を叩いているのでしょうか?」とお釈迦様にお尋ねしたところ、お釈迦様は、「あの白骨は、餓鬼の前世の白骨なのだよ。あの白骨の為に、餓鬼道に墜ちてしまったので、自分の前世の白骨が恨めしくて、あのように叩いているのだよ」と仰せになりました。

また暫く行くと、今度は、白骨を一生懸命拝んでいる天人がいたので、阿難尊者は、「どうしてあの天人は、白骨を礼拝しているのでしょうか?」とお尋ねすると、お釈迦様は、「あの白骨は、天人の前世の白骨なのだよ。あの白骨のお陰で、天上界に生まれ変わる事が出来たので、有り難いと言って、前世の自分の白骨を、一生懸命拝んでいるのだよ」と仰せになりました。

天上界は、所謂「六道(六界)」の一つで、餓鬼の世界と同じ迷いの世界なのですが、六道の中では、最も楽な世界なので、この天人は、自分を天上界に導いてくれた前世の白骨を拝んでいたのです。

迷いの世界の一つに過ぎない天上界に生まれ変われただけでも、天人が拝むほどに尊い前世の白骨なのですから、ましてや、悟りの世界(極楽)を目指して精進していこうとする人にとって、お葬式で引導を受けた白骨の尊さは、天人が拝んでいた白骨の比ではありません。

引導を受けた白骨は、これから仏の世界を目指して精進していこうという何ものにも替え難い尊き白骨なのです。

勿論、生前、六道を輪廻して迷っていた肉体ではありますが、たとえそうであったとしても、仏法に出会い、引導を受けて発心し、これから精進していこうというのですから、これほど尊い白骨はありません。

お釈迦さまのご遺骨(仏舎利)は、この上もなく尊いご遺骨として、五重塔の露盤の中や、多宝塔の中に納められていますが、それは、六道輪廻の人生に終止符を打たれたお釈迦さまの人生が、この上もなく尊く、気高いものだからです。

そのお釈迦さまを範として、六道輪廻の人生に終止符を打たんがため、生前に、み仏の御宝前で、発心修行をお誓い出来ればそれに越した事はありませんが、仮にご縁がなかったとしても、人生最後の幕を閉じるに当って死後得度式を執り行い、引導を受けて、み仏の弟子として生まれ変わる事が出来れば、これに勝る喜びはありません。

その意味で、お葬式は、これから悟りの世界を目指して発心修行していこうとするお方にとって、この上もなく目出度い門出の儀式と言っていいでしょう。

にも拘らず、み仏に発心修行を誓った尊い遺骨を拝ませて頂く事もなく、火葬場にその処分を委託することになれば、「何のためのお葬式なのか?」と言わなければなりません。

後に残った御遺族は、亡き方々の発心修行が無事に成就し、一刻も早く悟りの世界に生まれ変われるよう、供養を通して支えていかなければならないのです。

そこにあるのは、死者と遺族が、仏の世界を目指して共に精進している尊い姿であり、その千載一遇の仏縁を逃す事は、自らの救いを逃すに等しいと言わねばならないでしょう。

勿論、墓地や墓石が余りにも高価で、遺骨を埋葬したくても出来ないという事情がある事は重々承知していますが、その点に関しては、法徳寺の納骨堂「帰郷庵」のような、寺院や自治体が運営する納骨堂を活用したり、共用墓地を利用するなど、経済的に負担の少ない埋葬方法が他に幾らでもあります。

大切な事は、遺骨を埋葬し供養する事が、死者のためだけではなく、生きている私達が幸せに生きていく上で欠かせない仏行であるという事です。

墓地や墓石は、お金を出せば手に入るかも知れませんが、幸せは、いくらお金を積んでも買う事は出来ません。ましてや、ご先祖への畏敬の念を忘れていては、福の神を招き入れたくても、お迎えする事さえ出来ないのです。

合掌

平成26年6月5日


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