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先祖供養は生き供養(2)



遺骨を引き取らないのが究極の形?


今年(2014年)5月5日付け『読売新聞』朝刊の文化面に、「遺骨引き取らない究極の形」と題する次のような記事が掲載されていました。

『葬式は、要らない』(2010年刊)で論議を巻き起こした宗教学者の島田裕己氏(60)が、今度は『0葬』(集英社)を著した。簡素な葬儀どころか遺骨すら引き取らないという、究極の葬送を提案する驚きの書だ。(文化部 植田滋)

島田氏は形式的で高額な現代の葬式のあり方を批判し、簡素化や不要論を提起してきた。新著でも、葬儀や墓に「資本の論理」が入り込み、数十万〜数百万もの費用がかかる実態を紹介。家族葬など簡素化が進む背景には、葬送で儲けようとする人たちへの「人々の静かなる抵抗があるような気がする」と述べる。

新著が衝撃的なのは、遺骨全部(全骨)を火葬場の処理に任せ、引き取らない「0葬」を提案している点だ。氏によれば、遺族は東日本では全骨を引き取るのに対し、西日本では3分の1程度であり、残りは火葬場などが処理している。ならば、理屈上は、全骨処理してもらってもおかしくはなく、それで遺族は墓の確保が不要になるという。

しかし、それでは死者を粗略に扱うことにはならないか。氏は「日本人は骨に対する執着・信仰があるというが、本当なのか」と疑う。

日本では、埋め墓と詣り墓の両墓制を取り、詣り墓にだけ参る慣習も一般的だった。遺骨を大切にするという「常識」は、戦争で膨大な戦没者が出たために遺骨への思い入れが強まったことと、火葬の普及が重なったために「戦後に出来上がった」ものだという。

東日本大震災を経た現在は、「死者と生者の絆」が見直され、きちんと葬ってもらえない「無縁死」も問題となっている。0葬の方向性はこれに逆行するかに見えるが、「死者との交わりを大切にするのは東北の地域性にもよる。無縁死が問題だというが、これを防ぐために日本人が積極的に行動したとは思えない。むしろ無理な人間関係作りを煩わしいと感じ、無縁化してきたのが都会の人々。そうした人たちにかなった葬送も必要になる」。

また島田氏は、葬送の簡素化には、日本人の宗教観の変化も反映していると指摘する。伝統的に葬儀を担ってきた仏教では、生老病死を「四苦」と捉え、苦しみの多い現世から離れ、極楽浄土を求める厭離穢土・欣求浄土の信仰を培ってきた。しかし、長寿化が進み、「大往生」の時代になった今、「多くの日本人は自分が十分生きたと思い、現世よりも浄土がいいとは思えなくなっている。四苦のうちの『生』は苦ではなくなっている」と言う。

氏は、皆が0葬にすべきだというのではなく、「0葬を考えることで、各人が本当に何が重要で、何が余計なのかを見極めてくれれば」と話す。葬送の簡素化は寺には経済的打撃だが、「仏教は無常を語るのだから、0葬の方向性の方が本来であるはず。仏教も歴史と共に変化するもので、葬式仏教とは別のあり方が見直されていくと思う」。


お葬式と告別式の違い−引導の意味


この記事を読んで、皆さんはどのように感じられたでしょうか?

様々な感じ方や意見があるでしょうが、論点は二つあると思います。一つは、「お葬式は必要なのか不要なのか?」、もう一つは「遺骨は引き取らなくてもよいのか否か?」という事です。

まず「お葬式は必要なのか不要なのか?」という論点ですが、この問題を考える上で先ず知っておいて頂かなければいけないのは、そもそも「お葬式とは何か?」という事です。

現在行われているお葬式は、狭義の意味でのお葬式と告別式が合体した形で行われているため、お葬式も告別式も同じだと誤解しているお方も大勢おられると思いますが、この二つは、全く違う儀式です。

告別式は、文字通り、亡くなられたお方と、生前お付き合いのあった方々とのお別れの儀式ですが、お葬式は、亡くなられたお方の御霊を導く為に行なわれる引導作法なのです。

「引導を渡す」という言葉があります。世間では、「とどめを刺す」「諦めさせる」というような意味合いで使われていますが、本当の意味は、迷いの世界から救いの世界(悟りの世界)に導く事、つまり、救済する事を言います。

つまり、「必ず迷いの人生に終止符を打ち、み仏の元へ帰れますから、諦めてはいけません。私を信じてついてきて下さい」と言って、亡くなられたお方を導く事が、「引導を渡す」という意味なのです。

決して世間で言われているような、「迷いの人生に終止符を打つのは不可能だから、諦めなさい」と言って、最後通牒を突きつける事ではありません。


誰が引導を渡すのか?


お葬式が、死者に引導を渡す儀式であるとすれば、次は「誰が引導を渡すのか?」という事ですが、島田氏の著書『葬式は、要らない』には、松本市の神宮寺の住職である高橋卓志氏が、「戒律を守っていない僧侶が、戒律を授け、戒名をつけ、引導を渡すのは自己矛盾である」と言っておられる事や、島田氏自身も同様の見解を述べておられる事から、両氏が「引導を渡すのは僧侶だ」と考えておられるのは間違いないでしょう。

恐らく、一般の方々も、両氏と同じ考えではないかと思いますが、引導を渡すのは、実は僧侶ではありません。

ご存じのように、仏教では、「六道輪廻」と言って、私たち衆生は、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上」の六つの世界(六道)を彷徨いながら、果てしなく生死を繰り返している(輪廻転生している)と説いています。

弘法大師も、その著『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』の中で、
  生まれ生まれ生まれ生まれて 生のはじめに暗く
  死に死に死に死んで 死のおわりに冥(くら)し
 と説いておられるように、自分がどこから来て、どこへ帰っていくのか、自分は一体何者なのか、その正体を知らずに迷い続けているのが、私たちなのです。

果てしない過去から流転生死を繰り返し、現在も彷徨い続け、流転生死の人生を限りない未来へ相続して行こうとしている私たちに、万劫(注1)にも得がたいと言われる人の身を与えられたのは、このような迷いの人生を生きる為ではありません。

では一体何のために人の身を与えられたのでしょうか?人生を生きる目的とは何なのでしょうか?

私たちが、犬や猫や鳥や虫や魚や、その他の生類に生まれず、人の身を与えられた究極の目的は、果てしなく続く六道輪廻の人生に終止符を打ち、親様であるみ仏の元に錦を飾って帰るためであり、それ以外にはありません。

つまり、あなたも私も、「選ばれし者」として、この世に生を受けたのです。

しかし、その本分を悟らず、様々な罪を作っては汚れ、迷いの人生に終止符を打つ術を見失っているのが、今の私たちです。

このままでは、迷いの人生に終止符を打つという、生まれてきた本来の目的を果たす事など、不可能と言わねばなりません。

そこで、親様は、迷い多き人生に終止符を打ち、晴れて生まれ故郷へ帰ってこれるよう、私たちを引導して下さる幾多の聖者を遣わされました。それが、お釈迦様をはじめとする、先覚者と言われる方々です。

先程、「引導を渡すのは、僧侶ではありません」と言ったのは、その為です。

要するに、亡くなられたお方に引導を渡し、迷いの人生に終止符を打つ手助けをして下さるのは、私たちを引導するよう親様から遣わされた、お釈迦様をはじめとする先覚者の方々なのです。

では、「お葬式で導師を務める僧侶の役目は何か?」と言いますと、引導を渡されるお釈迦様やみ仏の名代に過ぎません。引導を渡して下さるお釈迦様やみ仏は、私たちの眼には見えません。そこで、僧侶が名代となり、目に見える形で、お釈迦様やみ仏が引導をして下さっている事を教えているのです。

迷いの人生に終止符を打つのですから、引導を渡せるのは、悟りを開かれたお方、つまり、お釈迦様やみ仏以外にはおられません。

ましてや、亡くなられたお方は、目に見えない世界に旅立たれ、我々の手の届かない所へ行かれたのです。その方たちを引導し、親様の元へ帰る手助けが出来るのは、目に見えぬ世界におられるお釈迦様やみ仏以外にいる筈がありません。

高橋卓志氏は、「戒律を守っていない僧侶が、戒律を授け、戒名をつけ、引導を渡すのは自己矛盾である」と仰っておられますが、まさにその通りで、僧侶が引導を渡せる筈がありません。もしそう考えている僧侶がいれば、それは大いなる誤解と言わざるを得ません。

島田氏は、僧侶が授ける戒名や高い戒名料の事を問題視されていますが、問題を複雑にしている要因の一つに、「誰が引導を渡すのか?」という点に関する島田氏の誤解があるのではないでしょうか。


お葬式は死後得度式である


次に、「お葬式はどのように行われるのか?」についてお話しますと、まずみ仏の名代である僧侶(導師)が、亡くなられたお方に、剃髪を行い、戒律を授け、今日からみ仏の弟子となって六道輪廻の人生に終止符を打つための修行が始まる事を訓戒します。

勿論、導師となる僧侶は名代に過ぎませんから、見えぬ世界で死者に剃髪を行い、戒律を授け、訓戒をしているのは、み仏ですが、この儀式は、私たち僧侶が出家する時に受ける得度式に相当します。

つまり、お葬式とは、迷いの人生に終止符を打つに当り、仏の弟子となって、み仏の教えに従って精進していく事を誓う儀式であり、我々僧侶が生前に受けた得度式を、亡くなってから行うものです。

その事を前提として、島田氏が仰っておられる「お葬式は要らない」という意味が、「告別式は要らない」という意味なのか、それとも「告別式だけでなく、お葬式(引導)も要らない」という意味なのかを検証したいと思いますが、同氏の『葬式は、要らない』という本を読む限り、「告別式だけでなく、お葬式(引導)も要らない」という後者の意味で言っておられるようです。

後者の意味ではなく、「告別式は要らない」という前者の意味であれば、全く問題はありません。

最近、告別式を取りやめ、家族や近親者だけでお葬式を行う家族葬(密葬)が増えてきている背景には、告別式が年々贅沢なものとなり、死者のための儀式なのか、後に残された者の見栄や世間体の為に行われる儀式なのか分からなくなってきている事や、超高齢化社会となり、故人の知り合いが少なくなって告別式をする必要性がなくなってきている事など、様々な事情があり、告別式を省略し、近親者だけで見送る家族葬(密葬)が増えているのは、ごく自然の流れなのかも知れません。


忘れてはならない救済


或いは、島田氏が述べておられるように、「家族葬など簡素化が進む背景には、葬送で儲けようとする人たちへの人々の静かなる抵抗がある」のかも知れませんが、島田氏が葬式無用論を主張しておられる背景には、お葬式が、世界一高いと言われるほど贅沢になっている事戒名料が余りにも高額である事戒律を守れていない僧侶が戒律を授けるのはおかしい事生きている人を救わなければならない寺院が、亡くなった人だけに眼を向けている事に対する疑問など、葬式仏教への厳しい批判があります。

確かに、告別式の贅沢化に伴って、お葬式までもが贅沢となり、一部の寺院では、高額の戒名料を要求して、戒名料の高額化に拍車をかけている現実を見ていると、僧侶の一人として忸怩たる思いを禁じ得ません。

しかし、だからと言って、お葬式を無用とする意見には、賛同できないのです。何故なら、亡くなられたお方の引導(魂の救済)まで止めてしまっては、いくら近親者が集まって死者を弔ったところで、何の意味もないからです。

最近は無宗教でお別れ会を開くお方も増えていますし、「死んでしまっては救いも何も関係ない」と言われれば、それ以上何も申し上げられませんが、信仰の世界に身を置く者の一人としては、見えぬ世界があるからこそ、死者に救いは必要ないどころか、死者の救いを願わずにはいられないのです。

もし見えぬ世界がなければ、わざわざお葬式までして、み仏に引導をお願いする必要はありません。この世が目に見える世界だけなら、そもそも死者を弔う意味などなく、葬式仏教はとうの昔に廃れていたでしょう。

勿論、だからと言って、僧侶が葬式仏教に胡坐をかいたままでいい筈はなく、反省すべき点は反省しなければなりませんが、僧侶として肝に銘じておかなければならない事が、一つあります。

それは、「いついかなる時も、魂の救済を忘れてはならない」という事です。

我々僧侶が済度しなければならない相手は、一切衆生であり、当然その中には、生きている人だけでなく、亡くなられた人も含まれています。

「八万四千の法門」と言われる数々の教えは無論ですが、葬式仏教と批判されているお葬式も、遺骨を埋葬する墓地の問題も、亡くなった方への追善供養も、その他諸々の仏教行事もすべて、「魂の救済」がその根底にあるからこそ、今日まで受け継がれてきたのです。

もし「魂の救済」がなければ、お葬式も、遺骨の埋葬も、追善供養も、諸々の仏教行事も、みな中味のない形だけの儀式に過ぎません。

これらの行事のすべてが、「魂の救済」という一点で深く結びついているからこそ、ご先祖から子々孫々へと、供養の心が途絶えることなく伝えられてきたのです。

「魂の救済」の為でなければ、何故わざわざお葬式をする必要があるのでしょうか?

勿論、現在のように、お葬式や戒名料や墓地に多額の費用がかかると批判されている現状を考えれば、島田氏のように、「お葬式もお墓も必要ない。遺骨も引き取らなくてよい」という極論を主張する人が出てきたとしても、何ら不思議ではありません。

島田氏が書かれた『0葬』を読んでいないので何とも言えませんが、読売新聞の記事を読む限りでは、「0葬」の提案は、「魂の救済」という観点からではなく、お葬式や戒名料や墓地、墓石にかかる費用が余りにも高額であるという理由からの提案のように思われます。

確かに大都市やその周辺では、予てよりお葬式や墓地、墓石の購入に多額の費用が必要だと言われていますし、「今の仏教は、死んだ者だけを相手にする葬式仏教に成り下がってしまった」という批判がある事も承知しています。

その点は、島田氏が仰るように、今後もお葬式の簡素化をすすめ、お金のかからないお葬式のあり方を抜本的に考えていかなければならないでしょう。

また、少子高齢化が加速度的に進行している状況の中で、お墓を継ぐ後継者がいない事も大きな社会問題となっており、それが墓地を持つ事を難しくし、墓離れにつながっているのも事実です。

最近は墓地を持たず、寺院や地方自治体が運営する納骨堂へ納骨されるお方も増えており、法徳寺に納骨堂「帰郷庵」を建立したのも、お墓を継ぐ後継者がいないという深刻な事情が背景にあります。

こうした様々な社会的状況の変化や経済的側面を考慮して、お葬式や遺骨の埋葬をどうすべきかについて、我々僧侶も真剣に考えていかなければならないと思いますが、いついかなる時も忘れてはならないのが、やはり「魂の救済」です。

「魂の救済」を抜きにして、お葬式や遺骨の埋葬の是非を論じるのは、木を見て森を見ない結果を招くだけでしょう。


葬式仏教の存在意義


私が「仏式でのお葬式は必要だ」と考える理由は、「魂の救済を忘れてはならない」という理由の他に、もう一つあります。

もし仏式でお葬式をしなくなれば、日本でのお葬式の殆どは、神式でしなければならなくなります。

その時、日本はどのような状況に置かれるでしょうか?

その点に関しては、「日本の立ち位置〜靖国問題解決に向けて(2)」で詳しく述べていますので、そちらをご覧頂きたいと思いますが、神式でお葬式が行われるようになれば、神の障りに触れて絶える家系が今よりも増加し、国家存亡の危機に直面する恐れがあるのです。

それは、過去の歴史を見れば明らかで、現在、日本で行われているお葬式の殆どが仏式である事は、決してただの偶然ではなく、神仏の絶妙なる采配のお陰と言っても過言ではないでしょう。

かつてわが国は、末代までも繁栄していく為に絶対外してはいけない「神と仏の二本柱」の一本を外し、「神の一本柱」にした時代がありました。

その結果、日本がどのような状況に陥ったかは、「日本の立ち位置〜靖国問題解決に向けて(2)」で述べた通りですが、その時、存亡の危機に直面した日本に救いの手をさしのべてくれたのが、釈尊が説かれた仏教でした。

葬式仏教と揶揄されている今の仏教界ですが、その仏教が果たしている役割は決して小さくなく、その事を私たちは決して忘れてはならないと思います。

勿論、島田氏は、「神式でお葬式をすべきだ」と言っている訳ではなく、「お葬式をする必要がない」と言っておられる訳ですから、全く次元の違う話ですが、もしお葬式を一切やめてしまえば、どうなるでしょうか?

残念ながら、「魂の救済」「家系の断絶」「国家の存亡」といういずれの観点からみても、神式でお葬式を行う以上の由々しき事態を招くであろう事は必至と言わざるを得ないでしょう。


生前のお葬式のすすめ


日本がいままで辿ってきた歴史的経緯を見る限り、島田氏の葬式無用論には反対せざるを得ませんが、一つだけ例外があります。それは、生前得度(生前のお葬式)を済ませている場合です。

先程もお話したように、お葬式とは、剃髪をし、戒律を授け、仏弟子となって、み仏の下で修行する為の得度式ですから、お葬式は、本来亡くなってからするものではなく、生きている内にこそ済ませておくべきものです。

「お葬式は生前に済ませておくべきものだ」と言うと、驚かれるかも知れませんが、現に「生きている内にお葬式を済ませました」と言われるお方が大勢おられます。

実は私もその一人で、生前にお葬式を済ませております。

私は、出家するに当り剃髪得度し、み仏の弟子となりましたが、この得度式が、私のお葬式であり、生前にみ仏から受けた引導です。

私は、出家得度によって一度死に、生前使っていた名前(俗名)を捨てました。そして、生まれ変わり、新たに「良空」という得度名(僧名)を頂きました。この「良空」という名前が、私の戒名です。

つまり、私たち僧侶は、生前にお葬式(引導)を済ませていますから、もう死んでからお葬式をする必要がありません。

いつ死んでもいいように、前もってお葬式を済ませておくというのは、生きていく上において非常に楽なもので、この事だけでも、出家得度した甲斐があったと、心からそう思っています。

勿論、実際は、死んでからお葬式をする僧侶の皆さんも大勢おられますし、殆どの方がそうしておられるのではないかと思いますが、何故二度もお葬式をするのか、私は不思議な気がします。

丁寧と言えば丁寧ですし、「いや、すでにお葬式を済ませているから、これは、お葬式ではなく告別式なのだ」と言われるのかも知れません。

また檀家寺の場合、檀家さんの手前、住職のお葬式をしないと都合が悪い面もあるのでしょうが、いずれにしても、お葬式は本来生前に済ませておくべきものだという事を覚えておいて下さい。


戒名料の問題


いま「お葬式は、本来生前に済ませておくべきだ」と申しましたが、それは同時に、得度した(引導を受けた)証である戒名も生前に頂いておくべきだという意味です。

今は亡くなってから戒名を付けるようになっているため、世間では、戒名は死後に授かるものと受け止められていますが、死後に戒名を付けるのは、あくまで生前に受けるべき引導を受けていなかったための例外的措置に過ぎません。

戒名は、戒律を授かり仏弟子となった事を証明する身分証明書のようなものですから、本来、生前に頂いておくべきものなのです。

この点は、島田氏も異論がないようですが、問題は、島田氏が指摘しておられる高額な戒名料です。

戒名料については色々な考え方があるでしょうが、戒名は、み仏から戒律を授かり、仏弟子となった事を証明するものですから、本来そこに戒名料なるものは発生しません。何故なら、得度は、み仏との取引ではないからです。

み仏が、引導を渡す見返りに、戒名料なるものを請求すれば、対価を求める取引と同じになってしまいます。

出家得度は、み仏との師弟関係を結ぶものですから、師に対するご法礼(お布施)はあっても、み仏から弟子に、何らかの名目で見返りを求める事はありません。

残念ながら、現在は、引導を渡すみ仏の名代に過ぎない僧侶が、その見返りとして戒名料を要求し、しかも、それが余りにも高額であるため、お金儲けだとか、商売だとか、坊主丸儲けなどと批判されている訳で、島田氏の批判もそこにあります。


檀家寺の現状


高額な戒名料を要求する寺院がある一方で、島田氏が『葬式は、要らない』の中で触れておられるように、今の仏教寺院、特に檀家寺の維持運営が、戒名料やお葬式や法事の収入に頼っている厳しい現実がある事も否定出来ません。

先日、NHKテレビの『クローズアップ現代』という番組で、「出家詐欺」についての放送がありましたが、ご覧になったお方もおられると思います。

出家得度すれば、比較的容易に改名出来る制度を悪用し、多重債務者を得度させて別人に偽装し、銀行から融資を受けさせた後に行方をくらませる出家詐欺が最近横行しており、暗躍するブローカーへのインタビューなども交えながら、仏教寺院が置かれている現状をクローズアップする内容でした。

この出家詐欺で狙われるのが、住職がいなくなった過疎地の無住寺院で、この番組を見ながら、改めて檀家が減少して維持運営出来なくなっている寺院の厳しい現状を垣間見る思いがしました。

島田氏は、檀家寺の場合、檀家数が三百軒なければ維持運営は厳しいと書いておられますが、この数字は当たらずとも遠からずと言えましょう。

当然、維持運営していくに足る数の檀家がいない過疎の寺院は、無住にならざるを得ず、都会の寺院に比べ、お葬式や戒名料に頼りたくても頼れない厳しい現実に直面しています。

しかも、高額の戒名料を要求しているのは、過疎の寺院ではなく、檀家数が千軒をくだらない大都市の寺院が殆どなのです。

先程、「戒なき坊さんから戒を受けるというのは根本矛盾だ」という、今の戒名のあり方を批判する松本市の神宮司住職、高橋氏の言葉を紹介しましたが、島田氏によれば、神宮寺の檀家数は700軒余りで、年間のお葬式が55件、お葬式の収入が1540万円にのぼるそうです。

お葬式や戒名料に頼りたくても頼れず、戒名のあり方を批判するなど考えられない過疎地の寺院住職が聞いたら、何ともうらやましい話ですが、いずれにしても、檀家の減少でお葬式や戒名料に頼りたくても頼れない寺院がある一方で、そんな事を心配する必要の無い寺院があるというのが、日本の仏教寺院が置かれている現状と言えましょう。

このような寺院格差、戒名料格差が、戒名料問題の解決を一層難しくしており、一概に「戒名料をなくせばよい。戒名は必要ない」と決めつけられないのが現実なのです。


自ら戒名を付ける事の是非


法徳寺の場合は、檀家も信者もいませんので、幸か不幸か戒名も戒名料も問題にはなりませんが、一部寺院の余りにも高額な戒名料については、憂慮せざるを得ません。

しかし、それ以上に残念なのは、島田氏のように、戒名料が高額だからという理由で、自ら戒名を付けようと考える人が出てくる事です。

作家の山田風太郎氏が自分で自らの戒名を付け、森鴎外が母親や友人の戒名を付けた事や、島田氏が叔父二人の戒名を付けた事などが、『葬式は、要らない』の中で紹介されていますが、戒名は、み仏から引導を受けた事を意味する戒律名に過ぎません。

大切なのは、戒名ではなく、戒律を受けて、み仏の弟子になる事です。それこそが、魂の救済を願うみ仏の本心であって、戒名などは、「有っても無くても、どちらでもいい」とまでは申しませんが、ただの方便に過ぎません。

「自ら叔父の戒名を付けた」という島田氏の話を聞いた時、思い出したのは、お四国八十八ヶ所霊場で受ける御朱印です。

ご存じのように、御朱印を押した御朱印帳やお納経軸は、霊場にお詣りした証として頂くものですが、御朱印集めをさせる事が本来の目的ではありません。

み仏は、一人でも多くの人々に仏縁を結ばせ、救わんが為に、御朱印帳という方便を用いて導こうとしておられるのです。

御朱印を集めたいと思えば、誰でもお寺へ足を運ばねばなりません。何度も足を運んでいる内に、信仰心に目覚め、み仏の救いの御手に導かれて、迷いの人生に終止符を打てるようにもなるのです。

ところが、最近は、お詣りよりも、御朱印集めが目的となり、お詣りもせずに御朱印だけを頂いて帰って行く人がいるそうです。

これでは何のための御朱印集めか分らず、まさに本末転倒と言わねばなりません。

「牛に引かれて善光寺詣り」ではありませんが、み仏は、一人でも多くの人に仏縁を結ばせたいとの慈悲心から、御朱印という方便を作られたのですが、そのみ心を知ってか知らずか、一部の人々は、本来の目的であるお詣りを忘れ、方便に過ぎない御朱印集めを目的にしてしまっているのです。

戒名を自分で付けるのも、まさにこれと同じで、御朱印を自らの手で書くのと同じ愚をおかす事になります。それは、もはや戒名ではなく、戒名とは似て非なる戒名もどきに過ぎません。

方便(手立て)と目的を取り違えて、戒律も受けず、ただ戒名という名前だけを付けても、み仏が願っている救済には、ほど遠いと言わざるを得ないでしょう。


見える世界での僧侶の使命


救う手立てである筈の戒名が、逆に救済の仇となっている現状を見て、み仏は何と思われるでしょうか?

その事を思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになりますが、よくよく考えてみれば、それもこれもみな、道を説くべき僧侶が道を説かず、形式だけのお葬式をして事足れりとしてきた怠慢の付けが回ってきただけですから、驚くには当たらないのかも知れません。

いま改めて思い出されるのは、お釈迦様が御入滅された時の最期のお言葉です。

「さあ、修行僧たちよ。今こそお前たちに告げよう。すべては滅び行くものである。怠ることなく精進しなさい」

葬式仏教と批判され、坊主丸儲けと揶揄され、高額の戒名料への風当たりが強まる中、我々僧侶は何を改め、何を為すべきなのでしょうか?

日本の立ち位置〜靖国問題解決に向けて(2)」で述べたように、葬式仏教そのものが悪いとは思いません。仏教が死者を弔う為にその役割を果たす事も、また仏教の衆生済度の一側面である事は間違いないからです。

にも拘わらず、葬式仏教と批判されるのは何故か?

それは、僧侶が、お葬式という場を借りて果たさなければならない使命を果たしていないからです。

その使命とは、言うまでもなく、後に残された生きている人々の引導です。

仏教が、長年に亘りお葬式に携わってきたのは、後に残された人々を救う使命があるからです。

お葬式は、死者の救いも然ることながらより、後に残された人々の救いの為に活かされなければならない儀式であると言っても過言ではないでしょう。

菩薩様が、道歌集の中で、
  人よ人 死を見て悲しむことよりも
    死のある事を 忘れるな人
 と詠っておられるように、死者は、自らの死をもって、後に残された人々に、大切な事を語りかけてくれているのです。

その死者の思いをくみ取り、後に残された人々へのメッセージを死者に代わって伝えるのが、僧侶の大切な役目の一つであり、その為のお葬式と言っても過言ではありません。

亡くなった人々は、「私に合わすその両手を、家族や周囲の人々に合わせて下さい。その合掌の心を決して忘れてはいけませんよ。幸せに生きていく上で欠かせない智慧が、その合掌に込められているのですよ」と言って、後に残った人たちに語りかけてくれているのであり、我々僧侶はその思いを、後に残された人々に伝えなければならないのです。

先祖供養は生き供養(1)」でも述べたように、僧侶が為すべき事は、生きている人々を引導する以外にはありません。それこそが、僧侶の使命がある事を決して忘れてはならないのです。

誤解を恐れずに言えば、亡くなったお方の救いは、見えぬ世界におられるお釈迦様やみ仏にお任せしておけばいいのです。我々には、生きている人々を引導するという、眼に見える世界でしか出来ないお役目が山ほどあるのですから、そちらに全身全霊を傾けるべきなのです。

島田氏の『0葬』が、そのきっかけを与えて下さるのであれば、これほど有り難い事はなく、島田氏に感謝しなければならないでしょう。

合掌

平成26年5月31日


先祖供養は生き供養(1)
先祖供養は生き供養(2)
先祖供養は生き供養(3)
先祖供養は生き供養(4)
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(注1)万劫(まんごう)とは、仏教で説かれる時間の長さを現す単位で、「劫(こう)」とは、梵語のカルパ(kalpa)を音写した「劫波」を省略したもの。
『大智度論』によれば、1劫とは、百年に一度、天女がこの世へ舞い降り、40里四方の大きな岩を薄い羽衣で一度拭い、その岩が擦 り切れて無くなるのに要する期間(磐石劫)とも、芥子粒を40里四方の大きな城の中に満たし、百年に一粒ずつ取り出して、その芥子粒が無くなるのに要する期間(芥子劫)とも言われているが、要するに、それほどの時間を費やしても、人間に生まれてくる事は難しいという事の譬えである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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