桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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殺生を超えるもの



Facebookでのやり取り


過日、Facebookを通じてご縁を結ばせて頂いた上田龍一さんが、Facebookに次のようなコメントを投稿されました。

待ち合わせ中。
 スズメが死んでいるのを見つけて、5円玉拾いました。

そのコメントを見た岩田雅代さんが、次のようなコメントをされました。

どういうご縁でしょうかf^_^;

そのコメントに上田さんは、

5円拾わなかった方が良かったかも(−_−;)
 スズメよ、安らかに
 南無阿弥陀仏

と返されたのですが、何故上田さんが「5円を拾わなければよかった」とコメントされたのかと言えば、死につながるご縁ではないかと思われたからです。

そんなお二人の会話を拝見し、私も次のようなコメントをさせて頂きました。

車を運転していますと、時々、車にはねられて死んでいる猫や鳥や動物に遭遇する事があります。
 そんな時は、たとえ猫や鳥や動物であっても、ただ通り過ぎるのではなく、心の中で手を合わせ、冥福を祈るようにしています。それは、私が僧侶だからではなく、私も彼らと同じだからです。
 私だって、いつどこで事故にあって死ぬかも分りませんし、事故に遇わなくても、所詮いつか死んでゆく身です。
 その時は、誰かに手を合わせて頂かなければいけませんし、冥福を祈って下さった方には感謝の気持ちでいっぱいになると思います。
 スズメだって、同じです。手を合わせて冥福を祈ってもらって、嬉しくない筈がありません。
 「スズメの恩返し」じゃありませんが、そのお礼の気持ちが、その後で拾った5円玉に込められているのではないでしょうか。
 その5円は、「有り難いご縁を頂きました」という雀からのメッセージです。
 5年玉を拾わなかった方がよかったのではなく、拾ってあげた事で、上田さんは、雀のメッセージに応えてあげたのです。
 スズメは、間違いなく往生したと、私は思います(^^)

このコメントを読んだ上田さんが、次の様なコメントを返して下さいました。

大西住職、ありがとうございます。
 岩田さんのコメントを読んで、最初にスズメの死、ご縁、5円玉、という事でご縁は死にあるかと思いました。それで、5円玉を拾わなければ良かったのかと思いました。
 しかし、死は生まれた時からのご縁ということを、改めて住職のコメントで思いました。
 スズメの恩返しの5円玉と思うと、確かに都合よく落ちていたものです。小銭入れとは別に、財布の中に大事にすることにしました。一つの死を受けとめるためにも。
 しかし、しかし、今日のスズメの命を思う自分は何と矛盾したことか。
 鹿やアライグマの命を自らの手で絶とうと狩猟免許を取ろうとしている自分を思うと複雑です。
 一羽のスズメは、人の前に墜ちて、人に命を見せてくれました。


殺生せずには生きられない人間


上田さんのご心境は、「桐一葉 落ちて天下の秋を知る」という古歌をもじれば、「雀一羽 堕ちて命の秋を知る」というところでしょうが、上田さんのコメントを読んで思い出したのは、「十善戒」という戒律です。

1、不殺生(ふせっしょう)―故意に生き物を殺さない。
 2、不偸盗(ふちゅうとう)―他人の物を故意に自分のものとしない。
 3、不邪淫(ふじゃいん)ー邪まな性関係を持たない。
 4、不妄語(ふもうご)―嘘を言わない。
 5、不綺語(ふきご)ー心にもない事を言わない。
 6、不悪口(ふあっく)ー人をむやみに誹謗、中傷しない。
 7、不両舌(ふりょうぜつ)ー二枚舌を使わない。
 8、不慳貪(ふけんどん)ー貪らず、惜しまない。
 9、不瞋恚(ふしんに)ー無闇矢鱈に怒らない。
 10、不邪見(ふじゃけん)ー真理に反するものの考え方をしない。

皆さんもよくご存じの戒律だと思いますが、この「十善戒」の最初に出てくるのが「不殺生戒」です。

十善戒は古来、身体に関するものが三つ(不殺生から不邪淫まで)、言葉に関するものが四つ(不妄語から不両舌まで)、心に関するものが三つ(不慳貪から不邪見まで)あるので、「身三口四意三(しんさんくしいさん)」とか「身三語四意三(しんさんごしいさん)」という言い方で呼ばれていますが、十悪業の中でどうしても避けて通れないのが、「殺生」です。

「殺生」以外は、絶対に避けて通れないという事はありませんが、「殺生」は、好むと好まざるとに拘らず、他の生き物の命を頂かなければ生きてゆけない私達にとって、絶対に避けて通れない、まさに生涯付いて回る罪と言っていいでしょう。

しかし、しかし、今日のスズメの命を思う自分は何と矛盾したことか。鹿やアライグマの命を自らの手で絶とうと狩猟免許を取ろうとしている自分を思うと複雑です」という上田さんの言葉は、私の心にも強く響きました。

と言うのも、私自身、出家するに当たり、「殺生はしません」という不殺生戒を授かり、み仏にお誓いしているからです。にも拘らず、私は毎日、他の生き物の命を頂いて、この身を養わなければ、限りある命を保つ事が出来ないのです。何という矛盾でしょうか。

勿論、他の生き物の命を頂かなければ生きていけない以上、殺生するのはやむを得えませんが、だからと言って、それが当たり前とも思いません。

法徳寺では、家族で三度の食事を頂く時も、法要にお参り下さった皆様と一緒に頂く時も、必ず「今日も天地大御祖、お大師様、菩薩様の御恵みと、多くの人々の御苦労に感謝して、この食物を頂き、この大恩に報いる働きをさせて頂きます。有難うございます。頂きます。南無大師遍照金剛、南無普門法舟大菩薩」とお唱えしてから頂くのが習わしですが、この言葉には、「申し訳ありません」という懺悔の心と、「有難うございます」という感謝の心、そして、「頂いた命を無駄にせず、この御恩に恥じない生き方をさせて頂きます」という報恩の心が込められています。

せめて懺悔と感謝と報恩の心をお供えさせて頂く事によって、命を奪われた多くの生き物の痛み、悲しみ、無念さに、少しでも応える事が出来ればと思いながら、お唱えしている次第です。


顕戒ー小乗戒と大乗戒


「十善戒」の話が出ましたので、戒律について簡単にお話しますと、戒律とは、仏教徒が守るべき生活規範、行動指針の事で、仏教徒の修行徳目である三学(戒、定、恵)(注1)の一つに数えられています。

一口に戒律と言いましても、「小乗戒」「大乗戒」「密戒」の三つがありますが、「小乗戒」は更に、在家の信者(優婆塞・うばそく、優婆夷・うばい)が守るべき生活規範である「五戒」(注2)、二十才に達しない出家(沙弥・しゃみ、沙弥尼・しゃみに)が守るべき生活規範である「十戒」(注3)、そして、二十才に達した出家(比丘・びく、比丘尼・びくに)が守るべき生活規範である「具足戒」(注4)の三つに別けられます。

しかし、この「小乗戒」は、「具足戒」の「二百五十戒」や「三百四十八戒」を見ても分かるように、日常生活のありとあらゆる場面に亘って事細かに決められた行動規範であるため、余りにも煩瑣で、形式的戒律偏重主義に陥っていると批判されました。

そこで、「小乗戒」への批判から新たに生まれたのが「大乗戒(菩薩戒)」で、梵網経を依りどころとする「十重四十八軽戒(じゅうじゅうしじゅうはっきょうかい)」や、瓔珞経を依りどころとする「三聚浄戒(さんじゅじょうかい」というものが定められました。

梵網経に説かれる「十重四十八軽戒」は、比較的重い戒律である「十重禁戒」と、比較的軽い「四十八軽戒」から成り立っていますが、「十重禁戒」は、次の通りです。

1、不殺生戒ーいかなる生き物も故意に殺してはならない。
 2、不偸盗戒ー与えられていないものを盗んではならない。
 3、不邪淫戒ー人の道に反する淫らな性行為をしてはならない。
 4、不妄語戒ー偽りを言ってはならない。
 5、不飲酒戒(ふおんじゅかい)ーお酒を飲んではならない。
 6、不説過戒(ふせっかかい)ー他人の過ちを殊更にあげつらってはならない。
 7、不自讃毀他戒(ふじさんきたかい)ー自分を讃え、他人を謗ってはならない。
 8、不慳法財戒(ふけんほうざいかい)ー法施や財施を惜しんではならない。
 9、不瞋恚戒(ふしんにかい)ー怒りに燃えて、自分を見失ってはならない。
 10、不謗三宝戒(ふほうさんぼうかい)ーいかなる場合でも、三宝を誹謗してはならない。

これを見ると、「十重禁戒」は、先に述べた「十善戒」とほぼ同じである事が分りますが、十善戒に含まれていない不飲酒戒が入り、身体に関する戒律が三つから四つに増えている点と、十善戒の「不綺語」「不悪口」「不両舌」の三つが、「不説過戒」「不自讃毀他戒」の二つにまとめられ、言葉に関する戒律が四つから三つになっている点が異なっています。

瓔珞経に説かれる「三聚浄戒」は、十悪を離れる事を勧める「摂律義戒(しょうりつぎかい)」と、十善を行う事を勧める「摂善法戒(しょうぜんぽうかい)」と、一切衆生救済のために尽くす事を勧める「摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)」の三つをまとめたものですが、同じ大乗戒の「三聚浄戒」と「十重四十八軽戒」の違うところは、「三聚浄戒」が「十重四十八軽戒」を「摂律義戒」の中に取り込んでいる点で、この点から、「三聚浄戒」の方が「十重四十八軽戒」より、範囲が広いと言えましょう。


密戒(三昧耶戒)の目的は菩提心の覚醒


この「小乗戒」と「大乗戒」が、顕教(注5)の戒律で、所謂「顕戒」と呼ばれるものですが、それに対し、真言密教で重んじられるのが、「密戒」と呼ばれる密教独自の戒律です。

「密戒」とは、「三昧耶戒(さんまやかい)」(注6)の事で、別名「仏戒」とも「発菩提心戒(ほつぼだいしんかい)」とも言います。

お大師様が、『平城天皇灌頂文』の中で、「この乗(じょう)に入るものは、まず須(すべか)らく戒を受くべし。この戒を三昧耶と名付け、教えを真言と云う。三昧耶といっぱ、梵言(ぼんごん)なり。唐翻(とうほん)には、本誓(ほんぜい)、平等、摂持(しょうじ)等の義あり」(注7)と説いておられるように、真言密教の法灯を受け継ごうとする者が、必ず受けなければならない戒律が、この「三昧耶戒」です。

大日経に説かれる「三昧耶戒」とは、菩提心を発す事、つまり、生仏不二(注8)の信念に基づいて、すべての衆生を済度せんとする大誓願を起こす事を戒律とするもので、具体的には次の四つ(四重禁戒・しじゅうきんかい)を指しています。

1、正法を捨てない(不応捨正法戒)
 2、菩提心を捨てない(不捨離菩提戒)
 3、一切の法を惜しまず人に施す(不応慳悋正法戒)
 4、一切衆生を利益する行いをする(不応不利衆生行戒)

これを見れば分かるように、小乗戒や、梵網経に説かれる十重四十八軽戒などの大乗戒が、具体的、形式的な行動規範であるのに対し、「菩提心の覚醒」という精神的な行動規範に変わっている点が、三昧耶戒の最大の特徴と言えましょう。

この四つの戒律(四重禁戒)を破り、菩提心を捨てれば、菩薩の命を断つに等しいと言われるのは、菩提心が、菩薩のいのち、仏のいのちそのものだからであり、「三昧耶戒」が真言密教で最も重んじられる意味も、そこにあります。


三昧耶戒と灌頂


真言密教に、灌頂(かんじょう)(注8)という儀式があります。これは、真言密教の法灯を受け継ごうとする者が必ず受けなければならない秘密の儀式で、お大師様が、唐の長安に行かれた折、青竜寺におられた恵果和尚から直々に授けられた真言密教に伝わる秘儀ですが、この灌頂を受けるに当たり、必ず受けなければならないのが、この三昧耶戒なのです。

三昧耶戒の目的は、いまお話したように、私達の内に眠る浄らかな菩提心を覚醒させる事ですが、この戒律を授かった後でなければ灌頂を受ける事は出来ません。

菩薩心を覚醒させるのが目的である事からも分かるように、この菩提心は、元々私達に具わっているもので、今まで無かったものが新たに生み出される訳ではありません。元々具わっているものですから、失われる事もありません。

しかし、その菩提心を、貪り、怒り、怨み妬み憎しみという三毒煩悩の厚い雲が覆っいる為、菩提心を覚醒させて、本来の姿に立ち帰らなければなりません。

そこで、お唱えするのが、菩提心を覚醒させる「発菩提心」と「三昧耶戒」の御真言です。

菩提心を発す「発菩提心」の御真言は、「オンボウジシッタボダハダヤミ」です。

「オン」とは、仏の徳を賛嘆する言葉で、「帰命」を意味し、「ボウジシッタ」は「菩提心」、「ボダハダ」は「発す」、「ヤミ」は「われ今」という意味です。

ですから、「オンボウジシッタボダハダヤミ」とは、「私はいま菩提心を発します」という意味になります。

次に「三昧耶戒」の御真言は、「オンサンマヤサトバン」で、「オン」は「帰命」、「サンマヤ」は「仏の本誓」、「サトバン」は「仏と自分とが融合し一体になる」という意味です。

「オンサンマヤサトバン」とは、「私は、仏の本誓により、仏と一体になって生きてゆきます」という意味ですが、灌頂を受ける時も、三昧耶戒を受ける時も、ひたすら唱え続けるのが、この「オンサンマヤサトバン」という三昧耶戒の御真言です。

また龍樹菩薩(注9)が著した『菩提心論』に、「もし人、仏慧(ぶって)を求めて菩提心に通達(つうだっ)すれば、父母所生(ぶもしょしょう)の身(しん)に速やかに大覚(だいかく)の位を証す」(注10)と説かれているように、仏である真実の自己の姿に目覚める為に欠かせないのが「菩提心」であり、その菩提心を発し、決して捨てない事をお誓いするのが「三昧耶戒」なのです。


お護摩の真相


菩提心は、功徳の母であり、菩提心には、すべての罪を清める力がありますが、その力を象徴的に現しているのが、皆さんもよくご存じのお護摩です。

残念ながら、高野山法徳寺にはまだ護摩堂がありませんので、お護摩を焚く事は出来ませんが、皆さんの中には、真言行者がお護摩を焚いている光景をご覧になったお方もおられると思います。

様々な願いを書いた護摩木を炉で焚きながら、真剣に祈っている行者の姿は、とても敬虔で尊いものです。また、奉納された皆さんの真剣な眼差しにも、心を打たれます。

しかし、激しく燃えさかるあのお護摩の炎を、ただの炎と思って見ていては、お護摩の本当の有り難さは分りません。

世の中には、お護摩の炎が燃え上がるのを見て、「炎の中にお不動様のお姿が見えます」と、人を迷わせるような事を言う霊感者や霊能者がいますが、お護摩の炎は、そのような霊感的な意味を持つ炎ではありません。

あの炎は、いまお話した菩提心を象徴的に現す炎なのです。つまり、お護摩を焚く真言行者の菩提心が、あのお護摩の炎の如く燃えさかっている様を、目に見える炎を通して教えているのです。

菩提心の炎によって焚かれているのは、勿論、奉納された皆様の護摩木ですが、そこには、様々な願いや思いが書かれています。

身体健全、家内安全、商売繁盛、病気平癒、無病息災、厄除け、災難除け、交通安全、合格祈願、安産祈願等々、ありとあらゆる願いが所狭しと書かれていますが、それは、奉納された皆様の願いであると同時に、裏を返せば、限りない欲望でもあります。

欲望は、人間が生きていく上において欠かせないものであり、欲望がなければ、人類の発展や子孫の繁栄も望めませんが、欲望は同時に、人を傷つけたり、不幸にしたりする側面も併せ持っています。

清濁併せ持っているのが欲望であり、その欲望が持つ悪しき汚れを清め、焼き尽くすのが菩提心であり、その菩提心を目に見える形で具現化したのが、お護摩の炎なのです。

肉眼には、真言行者が護摩木を焚いているようにしか見えませんが、お護摩を焚く真言行者の心の中では、奉納された皆様の心の汚れを焼き尽くすべく、菩提心の炎が燃えさかっているのです。


お不動様の正体


お護摩のご本尊であるお不動様のお姿をご覧になった事があると思いますが、柔和な表情をして蓮華の台座の上に坐しておられるお地蔵様や観音様と異なり、仏らしからぬ恐ろしい形相をして、燃え盛る火炎の中に坐しておられるのが、お不動様の愛称で親しまれる不動明王です。

不動明王は、真言密教の根本仏、大日如来の化身で、柔和な姿では救えない者を、左手に持つ羂索(けんさく)でとらえ、その迷いの根を、右手に持つ鋭い剣で断ち切ると言われています。

明王の「明」は、「真言」の事で、迷いを断ち切る真言の威力が、どの仏よりも強大である事から「明王」と名付けられているのですが、火炎を背に坐しておられるあの姿は、菩提心の炎を燃やして人々の救済を必死に祈る真言行者自身の姿でもあります。

毘沙門天が身につけている鎧甲冑も同じで、菩提心の鎧甲冑を身に着けていれば、どんな災難であっても、払い除ける強大な力を現しています。

勿論、私達が生きていく上で避ける事の出来ない殺生の罪を清めてくれるのも、菩提心です。

三毒煩悩の厚い雲に覆われて眠っている菩提心を覚醒させ、少しでも人の為、社会の為に役立つ生き方をしていこうと発心し、日々精進していく事が、命を奪われた多くの生き物の痛み、悲しみ、無念さに応え、殺生の罪を超えていく唯一の道なのです。

合掌

平成25年(2013)11月16日

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(注1)三学(さんがく)とは、仏教徒が修めなければならない三つの修行徳目の事で、戒(かい)、定(じょう)、慧(え)を指す。
毎日の行いが規律正しくなれば(戒律)、心も自ずと定まり、心が定まれば(禅定)、悟りの智慧も湧いてくる(智慧)というように、この三つは不即不離の関係にあり、どの一つが欠けても、修行の成果は望めない。

 

(注2)不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒の五つの戒律。
前の四つは、行為自体が罪悪であるため「性罪(しょうざい」と言い、不飲酒戒は、行為自体は必ずしも悪ではなく、他の罪を犯させる機縁となるものであるから「遮罪(しゃざい)」と言う。
前の四つは、他の宗教にもある共通の戒律であるが、最後の不飲酒戒は仏教独特の戒律である。
仏教は覚醒を求める宗教であり、飲酒による酔迷を最も嫌うためにこの戒律が入っている。
こんなたとえ話がある。ある人が酒を飲むために隣家の鶏を盗み、酒の肴にするため殺してしまった。そこへ隣家の妻がきて尋ねたが、彼は知らぬと言って嘘をつき、果ては酒に酔って隣家の妻を犯してしまった。こうして彼は、飲酒によって偸盗、殺生、妄語、邪淫の罪を犯してしまったのである。飲酒が最も慎むべきものとされているのは、この為である。

(注3)五戒に、次の五つを加えたもの。
1,不非時食ー午後食事を取らない。
2,離歌舞観聴ー派手な遊興娯楽に近づかない。
3,離香油塗身ー派手な化粧をしない。
4,離高広大床ー早起きをする。
5,離金銀宝物ー金銭を持たない。

(注4)僧(比丘)は、二百五十戒、尼僧(比丘尼)は、三百四十八戒が定められている。

 

 

 

 

 

 

 

 


(注5)真言密教以外の一般仏教。
顕教と密教の違いは、経典や教えにあるというのが一般的な考え方であるが、弘法大師が『般若心経秘鍵』の中で、「顕密は人にあり、声字は非なり」と説いておられるように、顕密の違いは、文字や教えにではなく、人にあるというのが、密教の考え方である。

 

(注6)大乗戒(菩薩戒)が梵網経を根拠としているのに対し、三昧耶戒(仏戒)は大日経を根拠としている。

 

(注7)真言の教えに入る者は、まず最初に戒を受けなければならない。この戒を三昧耶(さんまや)と名付け、教えを真言という。三昧耶というのは、梵語である。漢訳では、本誓、平等、摂持などの意味がある。

 

(注8)「生仏不二(しょうぶつふに)」とは、迷える衆生と、悟れる仏は、その本性において何の違いもないという教えで、「生仏一如」とも言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注8)投華得仏(とうけとくぶつ)によって曼荼羅に描かれた諸仏菩薩と縁を結び、頭の頂きに加持した香水を灌いで、真言密教の正式な継承者となるための秘密の儀式。
須弥山(しゆみせん)の四方にあるといわれる四つの大海(四大海)から取り寄せた水を、王位継承者の頂きに灌いで、王位継承の証としたインドの王位継承の儀式を仏教に取り入れたもの。
灌頂には、一般在家の人々が、曼荼羅の仏と縁を結ぶ結縁(けちえん)灌頂、出家して密教を学ぼうとするものが、仏縁を結んだ仏の一印(印契)一明(真言)を授かる受明(じゅみょう)灌頂、四度加行(しどけぎょう)という修行を終え、密教の指導者である阿闍梨の位に就く者が受ける伝法(でんぽう)灌頂がある。
具体的には、目隠しをしたまま、曼荼羅が置かれている所まで導かれ、両手の中指の間に挟んだシキミの華を、曼荼羅の上に投げる投華得仏(とうけとくぶつ)を行い、華が落ちた仏と縁を結ぶ事になる。
弘法大師は、唐の恵果和尚から、金剛界、胎蔵界の伝法灌頂を受けた際、投華得仏の華が、金剛、胎蔵の両部とも曼荼羅中央の大日如来の上に落ちた事から、大日如来の密号(金剛号)である「遍照金剛」という別名を授けられた。弘法大師の御名を「南無大師遍照金剛」と唱えるは、そこに由来している。

 

(注9)真言密教を伝えた八人の聖者(真言八祖)の一人で、第三祖。龍猛(りゅうみょう)菩薩とも言う。

 

(注10)誰であろうと、み仏の智慧を得ようと発心して、菩提心を成就すれば、父母より生まれたこの身このまま、大いなる悟り(仏)の位を証する事が出来る。

 

 

 

 

 

 

 

毘沙門天

 

 

 

 

 

 

 

 


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