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日本の立ち位置

―靖国問題解決に向けて(1)―



靖国問題を解決するには


8月という月は、日本人にとって忘れられない月です。忘れてはならない月と言ってもいいかも知れません。

昭和20年(1945年)8月6日に広島が、8月9日に長崎が、相次ぐ原爆投下で火の海となり、多くの罪なき人々が犠牲になりました。

広島の当時の人口は約2万人、その内、死者、行方不明合わせて12万1338人、長崎の人口は24万人、死者、行方不明合わせて7万3884人、更に被爆後5年間の内に、広島で20万人、長崎で14万人が亡くなりました。

長崎の原爆投下から五日後の8月14日、日本は、降伏を求めるポツダム宣言を受諾する事を連合国側に通告し、翌8月15日、天皇陛下の玉音放送が流され、終戦が全国民に告げられました。

9月2日、日本は、ポツダム宣言を受諾した旨の降伏文書(休戦協定)に調印し、その日以降、GHQによる占領下に置かれますが、それから7年後の昭和27年(1952年)4月28日、「サンフランシスコ講和条約」が発効し、ようやく日本は連合国の占領から脱して、独立国として再出発しました。

それ以後、日本は、天皇陛下の玉音放送の流された8月15日を終戦記念日と定め、毎年、日本武道館において「全国戦没者慰霊祭」を執り行い、戦没者の慰霊と世界の恒久平和を祈念してきました。

ところが、8月15日の終戦記念日になると、毎年のように繰り返されているのが、中国、韓国との間の靖国神社参拝問題です。

総理や閣僚が靖国神社へ参拝しようとすると、中国と韓国からの非難中傷が始まり、それに、一部のマスコミまでが同調して混乱に拍車をかけるという状況が、毎年のように繰り返されていますが、このような光景を目の当たりにするたび、日本人の一人として、慙愧(ざんき)に堪えません。

戦後68年が経過しているにも拘らず、いまだに一国の総理大臣が、心静かに戦没者の慰霊に参拝出来ない状況は異常という他はありませんが、この異常な負の遺産を、子々孫々に背負わせる訳にはいきません。

そこで、「靖国神社問題を解決するにはどうすればよいのか」について、仏教徒の立場から、考えてみたいと思います。


何故仏教は日本に根付いたのか?


この問題を解決する為には、まず日本の立ち位置をハッキリさせておかなければなりません。この立ち位置が分らなければ、靖国問題のどこがネックになっているかが見えてこないからです。

ご存じのように、いま日本では、様々な宗教が信仰されていますが、主に信仰されている宗教と言えば、わが国古来の八百万の神々を祀る神道と、インド、中国、朝鮮を経てわが国に伝えられた仏教です。

仏教国の中でも、日本が世界有数の仏教国である事は言うまでもありませんが、不思議なのは、仏教発祥の地であるインドや、経典の翻訳で大きな足跡を残した中国でさえ衰退した仏教が、何故日本の地でこれほど深く根付いたのかという事です。

外来宗教である仏教がわが国の伝統、文化、芸術、芸能、学問、思想など様々な分野に及ぼした功績は計り知れず、仏教なくしては、日本の文化も伝統も芸術も学問も思想も、これほどの深みへ到達する事は不可能だったでしょう。

そのような過去の経緯や仏教がわが国に及ぼした功績を見る限り、仏教がわが国や、我々国民にとって必要不可欠な宗教であった事は疑う余地がありませんが、それは表面的な枝葉末節の部分に過ぎません。

インドでも中国でも根付かなかった仏教が、わが国にこれほど深く根付いたのは、もっと本質的な部分で仏教が日本にとって必要不可欠な意味を持つ宗教だったからではないでしょうか。


国家の存亡を左右する事件―崇仏派の勝利


では、仏教がわが国にとって必要不可欠な宗教である本質的意味(真相)とは何でしょうか?

初めて仏教が日本に伝えられのは、西暦538年(注1)で、百済の聖明王から欽明天皇(注2)の下へ経典や仏像が伝えられたのがきっかけですが、この時、仏教を受容すべきか否かを巡って、廃仏派の物部氏(物部尾輿)や中臣氏(中臣鎌子)と、崇仏派の蘇我氏(蘇我稲目)との間で激しい対立が起こりました。

その対立は、子供の物部守屋と蘇我馬子に引き継がれますが、敏達天皇(注3)の世に疫病が流行した為、物部守屋と中臣勝海らは、蘇我氏による仏教崇拝が原因だとして、仏像を廃棄したり、伽藍を焼却するなどの、大規模な「廃仏毀釈」を行いました。

日本で行われた最初の「廃仏毀釈」ですが、蘇我氏が、百済の聖明王から欽明天皇に贈られた仏像を、向原(むくはら)の家(現在の明日香村豊浦)を寺にして祀っていたところ、物部氏が、その仏像を難波の堀江に捨てて寺を焼き払いました。

後に、本田義光が、その仏像を拾って祀ったのが、現在、善光寺の本尊として祀られている一光三尊の阿弥陀如来と言われていますが、敏達天皇に続く用明天皇(注4)の御世になると、崇仏派の蘇我氏と、廃仏派の物部氏との対立は決定的となり、587年の「丁未(ひのとひつじ)の役」によって、推古天皇や聖徳太子の協力を得た蘇我氏が、物部氏を制圧し、崇仏派の勝利に終わります。

その後、蘇我氏を支援した推古天皇(注5)が即位し、本格的な伽藍を備えた半官的な氏寺である飛鳥寺が建立され、四天王寺・法隆寺を建立した聖徳太子が摂政となって、仏教的道徳観に基づいた政治が行われ、以来、仏教は歴代の朝廷による手厚い保護の下、国を支える精神的礎となってゆきました。

この崇仏派の勝利は、歴史の1ページに刻まれた事件の一つに過ぎませんが、日本民族の存亡という観点から見れば、これほど大きな出来事はなかったと言っても過言ではないでしょう。

何故なら、この事件以降、仏教は常に国政の中心に在って、わが国を支える大きな柱の一本を担う事になっていったからです。


触らぬ神に祟りなし


ここで一つ仮説をお話したいと思います。

その仮説とは、もし仏教が日本に伝えられず、日本古来の神道だけの国であったとしたら、或いは、この時、廃仏派の物部氏が勝利し、崇仏派の蘇我氏が敗れていたとしたら、日本はどうなっていたかという仮説です。

私が、ここで仮説の話をするのは、靖国問題の解決の為にはどうしても考えておかなければならない大問題が、この中に隠されているからです。

私は九年前まで奈良県にある某寺院の住職を、20年間勤めていましたが、その中で気づいた事が一つあります。

それは、神式でお葬式をしている家に、何故か後継ぎがいなくて絶えている家が非常に多いと言う事です。

昔から「触らぬ神に祟りなし」と言われますが、仏教から神道に改宗し、お葬式や法事を神式でするようになり、何かしら神の障りに触れて子孫衰退の流れが生まれ、絶えてしまった家が決して少なくないのです。

神仏を信仰するご縁を頂けるという事は、万に一つもない有り難いご縁である事は言うまでもありませんが、せっかく尊いご縁を頂いても、神と仏の違いをよく理解した上で信仰しないと、思いもよらぬ禍を招く事があります。

お葬式や法事を神道(神式)で行う場合は、特に注意が必要です。

「神の障りに触れると、本当に子孫衰退の流れが生まれて家系が絶えるのか?」と不思議に思われるかも知れませんが、そのような事例は幾つもあります。

例えば、Aさんの家は、母親の代に仏教から神道に改宗し、お葬式や法事をすべて神式で行うようになりましたが、子供が女の子ばかりで、みんな結婚して家を出てしまったため絶えてしまいました。

分家を興したAさんの弟達もみな、母親の影響で神道を祀り、お葬式も神道でするようになりましたが、やはり後継ぎが若くして亡くなったり、子供が居なかったりして、絶えようとしています。

仏教から神道に改宗した家だけでなく、み仏を祀っている仏教の家であっても、神と何らかのご縁がある場合は、用心しなければなりません。

私が住職をしていたお寺の近くに、神様を祀る小さな祠があり、その祠が建っている土地を所有していたFさんご夫妻は、悪い事ばかり起こるので、怖くなり、その土地を村に寄付されましたが、後継ぎがいないため、結局絶えてしまいました。

また、この祠の入り口の真向かいの土地に、Sさんというお方の家がありました。元々その土地は畑だったようですが、そこへSさんのお父さんが家を建てられたのです。

Sさんのお父さんには、Sさんの他に2人の子供(次男と長女)が居ましたが、まともなのは長男のSさんだけで、次男と長女の2人は精神を患っていました。

私がお寺に入った時、お父さんは既に交通事故で亡くなり、お母さんが、次男と長女の面倒を見ておられましたが、その内、お母さんが亡くなり、二人の弟妹さんも相次いで亡くなりました。

Sさんには男の子が一人いましたが、その子も同じく精神を患い、小さくして亡くなり、やがてSさんも亡くなって、結局、S家は絶えてしまいました。

小さな祠とは言え、神を祭る祠の入り口の真向かいに家を建てるという事は、神を深く信仰しなさいというお導きであり、信仰によって救おうとしておられる神のみ心の現れでしょうから、そのみ心を知らずに過ごしていると、神の障りに触れる恐れがあるという戒めと言っていいでしょう。


石碑が祀られた真相


こんな事例もあります。

お寺の隣に、Bさんが所有する百坪程の広さの柿畑があり、その柿畑とお寺の土地が接する場所に、石碑が建っていました。

愛宕大権現の石碑と、庚申さんの石碑ですが、石碑が建っているのは、お寺の土地ではなく、Bさんの柿畑の上でした。

Bさんの柿畑に石碑が建てられた経緯ですが、Bさんのお父さんが、愛宕講や庚申講の方々から、「石碑を建てたいので、柿畑の一部を貸してもらいたい」と頼まれ、好意で貸してあげたそうです。

当時は何の価値もない袋小路の柿畑だったので、お父さんも軽い気持ちで貸してあげたのでしょう。

ところが、その後、周辺一帯が再開発され、区画整理によって、袋小路だったBさんの柿畑が大きな道と接するようになり、土地の値打ちが一気に上がったのです。

しかも、当時はバブル全盛期の真っ只中で、土地の値段はうなぎのぼりに上がっていきましたから、Bさんが、この柿畑を売ろうと思われたのも無理はありません。

ところが、売る予定の土地の一角に石碑が建っているままでは売る事ができないため、「土地を売りたいので、何とか石碑を除けて欲しいが、どうしたらいいか」と、知り合いの方を通じて私にご相談があったのです。

確かに、石碑がBさんの柿畑に建てられた経緯を見れば、愛宕講や庚申講の方々がBさんのお父さんから好意で貸して頂いた訳ですから、元の持ち主に返さなければならないのは当然で、Bさんの言い分はもっともと言えましょう。

しかし、ここで大切な事は、愛宕さん、庚申さんが、Bさんの土地に祀られた表面的な理由ではなく、その裏に隠されている真相です。

結果的に、庚申さん、愛宕さんがBさんの土地に祀られるようになったという事は、庚申さん、愛宕さんが、Bさんの土地を選ばれたという事になりますが、何故、愛宕さん、庚申さんは、その土地を選ばれたのでしょうか?

その理由は、一つしか考えられません。つまり、この土地に何らかの禍の因縁があり、その因縁がBさんの家に禍を及ぼす恐れがあるという事です。

愛宕さんと庚申さんがBさんの土地を選ばれたのは、その禍の因縁を封じるためであり、それがBさんの土地に神様が祀られるようになった真相ではないでしょうか。

この石碑を邪魔者扱いして、無闇やたらと取り除いては、今まで封じられていた禍の因縁がどのような形で芽を噴き出さないとも限りません。

ご主人が命を取られるか、後継ぎが急死するか、それとも家族の誰かが何らかの災難に見舞われるかは分かりませんが、取り除けば、どのような禍の因縁が芽生えないとも限らないのです。

そこで、「石碑を取り除くのは簡単ですが、後々の事を考えれば、やはり暫くこのままここに庚申さん、愛宕さんをお祀りしておかれた方がいいのではありませんか」と、その方からBさんに伝えて頂いたのです。


封じられていた禍の因縁


封じられていた禍の因縁が芽を出す事例は数え切れませんが、有名なのは、かつて羽田空港の駐車場に建てられていた赤鳥居です。

この赤鳥居は、江戸時代から続く地元の穴守神社の鳥居のひとつで、羽田を国際空港にするため、敷地内にあった神社を移転することになったのですが、鳥居を取り壊そうとすると、工事関係者が次々と原因不明の病や事故で倒れたり、鳥居に手をかけた日にかぎって、飛行機の機器に不良が起こるという異常事態が続いたので、赤鳥居だけがそのまま残されたのです。

その後も、滑走路の拡張工事中に死傷者が続出するなど、羽田の赤鳥居にまつわる異変は続き、1999年(平成11年)になって、ようやく移転することが出来たのですが、羽田の赤鳥居は、まさに封じられていた禍の因縁が芽を出した好例と言っていいでしょう。

Bさんの土地でもそうならないかと心配していたら、案の定、恐れていた事が起こりました。

土地を返して欲しいという話があって暫くしてから、Bさんのお母さんがお手洗いで倒れ、救急車で病院に運ばれたのです。

原因は、くも膜下出血でした。お医者さんの診断では、一命は何とか取り留めるだろうが、良くて車椅子、悪くすると寝たきりになるだろうとの事でした。

私たちには分かりませんが、Bさんのご家族に何らかの禍が降りかかる因縁があったから、Bさんの土地に庚申さんと愛宕さんを祀らせ、その因縁を封じて下さっていたに違いありません。

ところが、「こんな所に石碑があっては高く売れる土地も売れない」と、邪魔者扱いして取り除こうとしたため、そのしわ寄せが、お母さんに来たのではないでしょうか。

まだ取り除いておらず、取り除こうと考えただけで、このような事が起こったのですから、神の障りに触れるという事がいかに大きな禍をもたらすかが、お分かり頂けると思います。


救わんが為のお計らいー見えない因縁の世界がある


Bさんのお母さんが、くも膜下出血で倒れたのは、息子のBさんが庚申さんや愛宕さんを邪魔者扱いした事への警鐘でしょうが、この話にはまだ続きがあります。

最初は車椅子か寝たきりと言われていたお母さんが、その後、奇跡的とも言うべき回復力を発揮され、すっかり元の健康を取り戻されたのです。

何故このような奇跡が起こったのかと、不思議に思われるかも知れませんが、実は、お手洗いで倒れるほんの数日前、そのお母さんが、「お供えして下さい」と言って、家で採れた野菜をお寺へ持って来られたのです。

それも、一度ならず、二度も続けてでした。

お寺に入って十数年経ちますが、そんな事は今まで一度もなかったのに、倒れる数日前に、何故か二度も続けて、お野菜をお供えなさったのです。

後日、これが、Bさんのお母さんを救うためのお計らいであった事が明らかになりましたが、その時は、そんなお計らいが為されていようとは知る由もありません。

ただ私の父は、かねがね「お寺へ来る人は、どんな人でも必ず救われなければならない因縁のある人であり、救いを求めて来られた人だから、救いを祈ってあげなければいけない」と言っていたので、「お野菜を持って来られたという事は、きっと私を救って下さいと言って救いを求めて来られたに違いない」と思い、それから毎朝、Bさんのご家族の救済を祈願し、修法で使ったシキミの葉を、石碑が建っているBさんの土地の一角に撒く事にしたのです。

その場所は、方角で言うと裏鬼門に当たりますが、裏鬼門に当たる場所に、石碑が建っているので、その横にシキミを撒かせて頂く事にしたのです。

この土地にまつわる様々な禍の因縁が清められ、これ以上Bさんのご家族に禍が及ばないようにとの一念で祈願し、シキミを撒かせて頂いたのですが、お母さんがお手洗いで倒れられたという知らせが入ってきたのは、それから暫く経ってからでした。

もしみ仏のお守りがなければ、Bさんのお母さんは、お医者さんの診断通り、車椅子か寝たきりの状態になっていたかも知れません。

前もってお野菜をお寺へお供えさせた事を見ても分るように、み仏の本心は、Bさんのお母さんを寝たきりの状態にする事ではなく、石碑を取り除く事によって降りかかるであろう更に大きな禍からBさん一家を守る事にあったのです。

お母さんのくも膜下出血は、その事を知らせるための手立てだったのではないでしょうか。

だからこそ、くも膜下出血で倒れても、元通りに回復出来るよう、前もってお母さんに二度も野菜をお供えさせて、寝たきりにならない段取りをして下さっていたのです。

私が申し上げたいのは、自分が祈願したから奇跡的に回復したという事ではなく、一連の流れを見ておりますと、人間の知恵では推し量れない、肉眼では見えない因縁の世界が間違いなく存在しているという事です。

皆さんは、道の角々に石のお地蔵さまが祀られているのを、ご覧になった事があると思います。

幼い子供が交通事故に遭って亡くなったりすると、子供の供養のため、ご両親が、お地蔵さまをその場所に祀ったりします。

しかし、祀られた経緯が、年月が経つにつれて、忘れられていき、何代も世代が代わると、「何故こんな所にお地蔵さまがまつられているのだろう?」と、経緯を知らない人ばかりになります。

しかし、遡れば、そのお地蔵様は、その場所で子供さんが交通事故で亡くなり、その供養の為にお祀りされたお地蔵さまなのです。

何の理由もなしにお祀りされているお地蔵さまや石仏さまというのは一体もありません。お地蔵さまがお祀りされた時の因縁(経緯)というものがあるから、後世の人間の都合でそれを勝手に除けたりすると、やはり因縁が芽を出してくるのです。

愛宕さんと庚申さんが祀られた表向きの理由も、愛宕講や庚申講の皆さんの頼みで、Bさんのお父さんが好意で土地の一部を貸してあげた事になっていますが、愛宕さんや庚申さんがBさんの土地に祀られた真相は、やはりその土地に何らかの禍の因縁があるからだと考えた方がいいでしょう。

石碑を除けるのは簡単ですが、それによって折角今まで封じられていた禍の因縁が出てこないとも限らないからこそ、除けようとする時は、神の障りに触れないよう、よくよく心しなければなりません。


汚れを嫌う神


これらの事例を見ても、神の障りに触れる事がいかに禍を招くかが分りますが、何故お葬式や法事を神式で行わない方がいいのかと言えば、神様は、あらゆる汚れを忌み嫌われるからです。

昔から人間の死は、「汚れたもの」「忌み嫌うべきもの」と考えられています。お葬式で必ず「お清めの塩」が配られるのは、死にまつわる汚れを清めるためです。

神様が忌み嫌う汚れそのものとも言える死者を送る儀式を、あえて神式で行うのは、例えば天皇陛下や皇族方の葬儀など、特別な場合だけで、一般の方が神式で行う事は、ご本人やご家族が余程深く神様を信仰しているような場合を除いては、余りお勧め出来ません。

ご存じの様に仏教では、人が亡くなると49日間の中陰供養を勤めますが、中陰が明けるまでは、家にある神棚に半紙をかぶせ、神様を拝む事も、神社にお参りする事も慎みます。これは、喪が明けるまでは、汚れを嫌う神様に近づかないようにという先人の知恵です。

念のために申し上げれば、神式で行わない方がよいと申し上げているのは、私が僧侶だからではありません。

もし皆様が、神を深く信仰され、神社への月参りも欠かさず、日々精進潔斎をして心身を清め、神への奉仕の精神と祭り事の心構えを、親から子、子から孫へと何代にも亘って守り伝えてこられたのであれば、神式でされても一向に差し支えないと思います。

しかし、ただ神棚があるだけで、お花やお供え物を変えたり、お掃除をしたりした事もないようなお家が、決して少なくありません。

そのような神に粗相をしている恐れのある家が、神の障りに触れる恐れのあるお葬式や法事を神式でされる事は、厳に慎むべきではないかと思います。

先祖代々、神職を勤める家系では、神様に対する日々のお給仕やお勤めは勿論、様々な神事を通じて神に奉仕する精神を養い、祭り事の心得を子々孫々に伝えていますが、祭り事の心得を子孫に伝えるのは、御神徳を仰ぎ、神の障りに触れるのを防ぐ為には欠かせないからです。

勿論、世間を見れば、子孫が絶えているのは、神式でお葬式や法事を行っている家ばかりではありません。仏式で行っている家の中にもあります。

しかし、私の知る限り、神式でお葬式をしたり法事をしたりしている家の方が圧倒的に多いのです。


神と仏の違い


一口に神仏と言いますが、神と仏は決して同じではありません。

例えば、供物一つをとってみても、神への供物(神饌)は、お水、お神酒、お塩、お洗米など、私達がまだ手を加えていないものです。

それに対し、み仏へのお供え物は、お茶湯、御仏飯、お汁、煮物というように、火を加えて調理したもので、私たちがいただくのと同じものをお供えします。神饌に含まれる生魚のような、火を通していないものを、み仏にお供えする事はありません。

これをみても、み仏への供物より、神への供物(神饌)の方が、新鮮さ、清らかさをより重視している事が分ります。

また拝み方も、神を拝む時は柏手を打って拝むのに対し、み仏を拝む時は、柏手は打たずに、合掌して拝みます。

更に、神道には、神を祀って拝む祭祀(儀式)はあっても、教えというものがないのに対し、仏教には、「八万四千の法門」と言われる教え(仏法)があります。

このように神と仏、神道と仏教では、様々な面で異なっていますが、その中でも特に顕著なのが、罪汚れに対する考え方の違いです。


汚れを否定する神と肯定する仏


ご承知の通り、御神前では必ず、「払えたまえ、清めたまえ」という祝詞が唱えられます。神に汚れを払い清めて頂くために唱えられる祝詞ですが、神は、清める為に、汚れを払い除けようとされます。

それに対し、み仏は、汚れを排除するのではなく、その汚れを受け入れ、汚れそのものを清めようとされるのです。

汚れを排除して清めようとするのが神、汚れを受け入れて清めようとするのがみ仏ですが、この違いをハッキリ現わしているのが、み仏が座っておられる台座です。

皆さんもご存じだと思いますが、み仏は、蓮華の台座の上に座っておられます。

法徳寺のご本尊「身代わり升地蔵尊」は、坐像ではなく、蓮華の上に立っておられる立像ですが、坐像であれ立像であれ、蓮華を台座としておられる事に変わりはありません。

何故み仏は蓮華を台座としておられるのでしょうか?

「高原陸地に蓮華を生ぜず」と言われるように、蓮華は、清らかな水の中ではなく、あらゆる汚物が流れ込む汚泥の中に根を張り、汚物をすべて吸収しながら、しかもその汚れに染まらず、染められずに清らかな花を咲かせます。

この蓮華のように、み仏もまた、一切の汚れを受け入れながら、いかなる汚れにも染まらず、染められずに、汚れを清めるお力をお持ちなのです。

罪汚れをすべて肯定し、その罪汚れを清める絶大なお力を象徴しているのが、蓮華の台座なのです。

このように神と仏では、罪汚れに対する考え方が根本的に異なり、汚れを清める方法は、まさに正反対と言ってもいいでしょうが、私が、お葬式や法事を仏式で行った方がよいと申し上げるのは、み仏が、神が忌み嫌われる汚れをすべて受け入れ、清めて下さるお力をお持ちだからです。

もし神の障りに触れて絶えようとしている家があるなら、その家には、あらゆる汚れを受け入れて浄化するみ仏のお力が必要です。

神の障りに触れて生まれた子孫衰退の流れを根底から変える事は容易ではなく、人間の力だけではとても不可能で、汚れを受け入れて清めて下さるみ仏のお力がどうしても必要なのです。

合掌

平成25年8月28日


日本の立ち位置〜靖国問題解決に向けて(1)
日本の立ち位置〜靖国問題解決に向けて(2)
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(注1)仏教公伝の年代については、『日本書紀』の記述に基づく552年説と、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』などの記述に基づく538年の二説があるが、いまは538年説が有力視されている。

(注2)第29代。第26代継体天皇の第三皇子。第27代安閑、第28代宣化の異母弟。

(注3)第30代。欽明天皇の第二皇子。

(注4)第31代。欽明天皇の第四皇子。聖徳太子の父。

(注5)第33代。日本初の女帝。用明天皇の妹。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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