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後世に伝えたいこと(3)



6,000人を救った命のビザ


後世に伝えたい四つ目は、ナチス・ドイツに追われた多くのユダヤ難民を救った杉原千畝氏の功績についてです。

第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原千畝氏は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドや欧州各地からリトアニアに逃れてきた難民たちに、外務省からの訓命に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にものぼる避難民を救出しました。

その避難民の多くが、ユダヤ系であったことから、海外では「日本のシンドラー」などとも呼ばれています。

「シンドラーのリスト」という題で映画化され、世界的に知られるようになったドイツの実業家シンドラー氏は、第二次世界大戦中、ナチスによって強制収容所に収容されていたユダヤ人の内、自分の工場で雇っていた1,200人を虐殺から救出しましたが、救出したユダヤ人の数からいえば、杉原氏の方が圧倒的に多いと言えましょう。

ナチス・ドイツに迫害されていたポーランドのユダヤ人は、スイスと同じ中立国と思われていたリトアニアに移住してきましたが、1940年7月15日、リトアニアに親ソ政権が樹立され、ソ連に併合されることが確実となります。

リトアニアがソ連に併合されれば、ユダヤ人たちが国外に出る自由はなくなります。

ソ連に併合される前にリトアニアを脱出しなければなりませんが、すでにポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスがドイツの手に落ちていたので、西へ逃げる事は不可能でした。

残された道は、日本の通過ビザを取得し、第三国へ出国するという経路しかありませんでしたが、日本の通過ビザを取るには受入国のビザが必要です。

しかし、ソ連併合に備え、領事館が撤退する中、ユダヤ人難民に対して入国ビザを発給する国などありませんでした。

この窮状を救ったのが、カウナスの各国領事の中で唯一ユダヤ人に同情的だったオランダ名誉領事ヤン・ツバルテンディク氏でした。

彼は中米のベネズエラ沖のカリブ海に浮かぶオランダ植民地キュラソー島なら、税関もないので入国できることに目をつけ、キュラソー行きのビザを発給したのです。

もし彼の決断がなければ、杉原氏がビザを発給することは不可能だったでしょうから、彼の功績もまた、杉原氏と同じように大きいと言わねばなりません。

こうして、1940年(昭和15年)7月、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民は、まだ業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先であるオランダ領のキュラソーへの通過ビザを求めて殺到したのです。

「キュラソー・ビザ」を持ってユダヤ人が日本領事館に押し掛けたのは、1940年7月18日午前6時でした。

1940年7月18日(木)午前6時、ビザを求めるユダヤ人約200人が日本領事館の前を埋めつくしましたが、杉原氏は、その朝の模様を次のように回想しています。

6時少し前。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなってゆく。
 私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、なんと、これはヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った。

杉原氏は、事態を把握するためユダヤ人代表を選び領事館に入るように要請し、ユダヤ人代表5人と会い、2時間近く話し合いましたが、その中には、後の在日イスラエル大使館参事官になったニシュリ氏や、イスラエルの宗教大臣になったゾラフ・バルハフティク氏がいました。

「我々はナチスドイツから迫害を受け、ポーランドから逃げてきたユダヤ人で、日本領事館に行けばビザがもらえると聞いてきました。オランダ領キュラソーのビザもあります。日本の通過ビザを交付していただきたい」
 「みなさんの要求は日本通過の許可ということですが、みなさんの窮状はよくわかりました。なんとか援助してあげたいのですが、これだけの枚数のビザとなると外務省の許可が必要ですから、3、4日待ってください」

そう言って、杉原氏は、外務大臣に、判断を仰ぐ電報を打ちますが、7月22日(月)、外務省より届いた回答は、「最終国の入国許可を持たない者にはビザは発行してはならない」というものでした。

杉原氏は、苦悩のすえ、再度外務省に電報を打ちますが、「ビザ発給拒否」の回答は変わりませんでした。

杉原氏は、一晩中悩んだ末、7月25日(木)、ビザ発給を決断してビザを書き始めます。その後、ソ連から再三の退去命令があっても無視してビザを書き続け、領事館を退去した後も、杉原氏はホテルに滞在して、ビザの代わりに渡航証明書を発給し続けました。

しかし、全員には渡しきれず、とうとうリトアニアを退去する日が来ます。列車に乗った杉原氏は、「どうか許してください、私にはもう書けません。みなさんのご無事を祈っています」と叫ぶと、ホームに残ったユダヤ人たちは、「スギハラ。私たちはあなたを忘れない。いつの日か、きっと、あなたに会いにいきます」と叫びながら、別れを惜しんだのでした。 

こうして公式ビザを発給したユダヤ難民の数は、「杉原リスト」によれば、2,139人にのぼりますが、公式ビザ以外にも多数の渡航証明書が発行されているため、公式記録から漏れている人が大勢いる事や、当時は一家族に一枚のビザでよかったため、その家族の人数なども合わせると、杉原氏に助けられたユダヤ人は、6,000人にのぼると言われています。

リトアニアから脱出したユダヤ人たちは、シベリア鉄道に乗り、ウラジオストックに到着しましたが、次々に押し寄せる条件不備の難民に困惑した外務省は、「行先国に入る手続きが終わっていることを証明する書類を提出させてから、船に乗る許可を与えなさい」という命令を、ウラジオストックの総領事館に出します。

ところが、杉原氏の二期後輩で、後に難民たちから「ミスター・ネイ」の名で記憶されるウラジオストック総領事代理の根井三郎氏が、一度杉原領事が発行したビザを無効にする理由がないと抗議し、本来は漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給して難民の救済にあたったのです。

こうして、ユダヤ難民たちの命は、ヤン・ツバルテンディク氏、杉原千畝氏、根井三郎氏という三人の勇気ある行動によって救われたのです。


ユダヤ難民との再会


しかし、帰国した杉原氏に待っていたのは、外務省関係者の中傷による過酷な運命でした。帰国後、岡崎外務次官から「退職通告書」を突き付けられ、外務省を依願退職せざるを得なかったのです。

外務省の許可なく行ったリトアニアでのビザ発給に対する責任を取らされたのですが、杉原氏は、その後、様々な職を転々とした後、1965年(昭和40年)からは「国際交易モスクワ支店代表」として再び海外での生活を送ります。

3年後の1968年(昭和43年)夏、ニシュリというユダヤ人が、杉原氏を訪ねてきました。ニシュリ氏は、命のビザで助かった6,000人のうちの一人で、28年間杉原氏を探し続け、ようやくその消息をつかんで訪ねてきたのです。

杉原氏に会ったニシュリ氏は、「私を覚えていますか」と問いかけますが、杉原氏は、彼が誰だか分かりません。2,000人ものユダヤ人へのビザを書き続けた杉原氏が、彼のことを覚えていないのも無理はありません。

ニシュリ氏は、涙を流しながら、ぼろぼろになった紙片を取りだし、「あなたは私を忘れてしまったが、私たちは片時たりともあなたのことを忘れたことはありません。28年間、あなたを探し続け、やっと会うことができました」と言って、杉原氏の手を固く握りしめました。

ぼろぼろの紙片は、杉原氏が28年前に、ニシュリ氏に発給したビザだったのです。

カウナス駅で「スギハラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」と叫んだかつての青年は、新生イスラエルの参事官となって、杉原氏を探し求め、会いにきたのです。

1969年(昭和44年)、杉原氏は、命のビザの受給者の1人で、イスラエルの宗教大臣となっていたゾラフ・バルハフティク氏とエルサレムで29年ぶりに再会しますが、ゾラフ・バルハフティク氏は、この時初めて、杉原氏が失職覚悟の上で、独断でビザを発給した事を知って驚き、感銘を受けます。

それまで彼は、日本政府の許可が出た上でビザを発給してくれたと思っていたのです。彼は、インタビューで次のように答えています。

実際には、日本政府の許可なしであったことを私たちが知ったのは、1969年に杉原氏とイスラエルで再会した時である。
 杉原氏が訓命に背いてまで、ビザを出し続けてくれたなんてことは、再会するまで考えられなかったので、とても驚いたことを覚えている。
 杉原氏の免官は疑問である。日本政府がすばらしい方に対して何もしていないことに疑問を感じる。
 賞を出していないのはおかしい。表彰していないのは残念である。
 杉原氏を支持している方は多くいるが、私は20年前から、日本政府は正式な形で杉原氏の名誉を回復すべきだといっている。
 しかし日本政府は何もしていない。大変残念なことである。

こう言って、名誉回復をすべきだと強く進言していたのですが、杉原氏の名誉が回復されたのは、ようやく21世紀も間近の2000年10月10日のことでした。


杉原の名誉回復


1975年(昭和50年)、杉原氏は「国際交易モスクワ支店代表」を退職して日本に帰国しますが、帰国後も、「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」という悪意に満ちた中傷や、旧外務省関係者の杉原に対する敵意と冷淡さは、河野洋平外務大臣による名誉回復がなされるまで一貫して続いていました。

戦後、杉原氏の消息を尋ねるユダヤ人協会からの問い合わせに対しても、外務省は、「日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官は過去においても現在においても存在しない」と回答して、杉原氏の行方を隠ぺいし続けました。

こうした杉原氏に対する冷徹な態度を変えようとしない外務省関係者の姿勢に真っ向から抗議したのは、ドイツ人のジャーナリスト、ゲルハルト・ダンプマン氏でした。

旧西ドイツのテレビ協会の東アジア支局長として、1974年(昭和49年)から1981年(昭和56年)まで東京に在住していたダンプマン氏は、『孤立する大国ニッポン』のなかで、

戦後日本の外務省が、なぜ、杉原のような外交官を表彰せずに、追放してしまったのか、なぜ彼の物語は学校の教科書の中で手本にならないのか(このような例は決して他にないというのに)、なぜ劇作家は彼の運命をドラマにしないのか、なぜ新聞もテレビも、彼の人生をとりあげないのか、理解しがたい。

と、痛烈に批判しています。

亡くなる前年の1985年(昭和60年)1月18日には、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で、日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人賞」(ヤド・バシェム賞)が贈られます。

杉原氏の名前が世に知られるにつれて、各方面から賞賛が寄せられますが、その一方で、政府の命令に反してビザを発給したことで、「国賊だ、許さない」などという中傷の手紙も送られるようになります。

同年(1985年)11月、心臓病と高齢のために出席できない杉原氏に代わって杉原氏のご子息が出席して、エルサレムの丘で記念植樹祭と顕彰碑の除幕式が執り行われましたが、残念ながら、翌1986年(昭和61年)7月31日、杉原氏は波乱に満ちた86年の生涯を閉じました。

政府の意に反してビザを発給した事で、様々な非難や中傷にさらされてきた杉原氏でしたが、2000年10月10日、河野洋平外務大臣によって、ようやく名誉が回復されます。

これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。
 日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております
 故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。
 私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。

1940年に杉原氏がビザを発給してから60年目、そして没後14年目での名誉回復ですが、杉原氏が取った行動は、やがて、東日本大震災で傷ついた多くの人々を救ってくれたのです。


ユダヤ人社会に広がる支援の輪


2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災が発生し、地震と津波による甚大な被害が世界中に報道されるや、内外のユダヤ人社会から、「第二次世界大戦時にユダヤ難民の救済に奔走した杉原の事績を想起すべきだ」というアピールがなされます。

まさに、トルコ政府が、エルトゥールル号の遭難事件の時に受けた恩を忘れず、東日本大震災の時に危険を顧みずに支援してくれたのと同じ行動を、ユダヤの人たちもとったのです。

10日後の3月21日には、イスラエルの有力紙『エルサレム・ポスト』が、「第二次世界大戦中、在リトアニア日本公使、チウネ・スギハラが、訓令に反してビザを発給し、6,000人のユダヤ人を救ったことに報いる為、在日ユダヤ人共同体が協力し、すべてを失い窮状にある人々の救済を始め、在京のユダヤ人たちは募金のための口座を開いた」と報道しました。

東日本大震災によって被災した人々に対する義援金を募るにあたって、米国のユダヤ人組織であるオーソドックス・ユニオンは、会長のシムカ・カッツ博士と副会長のスティーヴン・ヴェイユ師の連名で、以下のような公式声明を発表しました。

窮状にある人々に手を差し伸べることは、主のいつくしみの業に倣うことである。今こそ、身職を賭して通過ビザを発給し、リトアニアから6,000人ものユダヤ人を救ってくれた杉原夫妻の恩義に報いる時である。

こうして、多くのユダヤ人が、60年前に受けた恩をいまも忘れず、その時の恩に報いようと立ち上がったのです。

2011年10月24日には、早稲田大学出身の超党派の国会議員を中心に「杉原千畝顕彰会」が発足し、杉原千畝氏を顕彰する顕彰碑が早稲田大学構内脇に建立されました。

その碑文には、「外交官としてではなく、人間として当然の正しい決断をした」と書かれています。


恩義を忘れない国民


トルコやイスラエルの人々の行動を見て感銘を受けるのは、やはり受けた恩義を何年経っても忘れないその国民性です。

良い時も、悪い時も、苦しい時も、困っている時も、変わらずに同じ態度で接してくれる人だけが、信じられる真の友人だと、よく言われますが、トルコやイスラエルの人々を見ていると、まさにその通りだと痛感します。

お大師様(弘法大師)が書かれた書簡を集めた『性霊集(しょうりょうしゅう)』という書物の中に、「四恩」という言葉が26か所も出てくるように、お大師様は、「四恩」という言葉をとても大切にされました。

四恩とは、「父母の恩、国王の恩、衆生の恩、三宝の恩」のことです。

此の身は虚空より化生(けしょう)するにもあらず、大地より変現せるにもあらず、必ず四恩の徳に資(たす)けられて、この五陰(ごおん)の体(てい)を保つ。謂わゆる四恩とは一には父母、二には国王、三には衆生、四には三宝なり(注1)

我を生みて、我を育するは父母の恩、天よりも高く、地よりも厚し。身を粉にし、命を損ずるとも、いずれの劫(とき)には報ずることを得ん」(注2)と説いておられるように、われわれがこの世に生まれ、今ここに存在しているのは、言うまでもなく、父母のお蔭であり、父母なくして今の私はありえません。

また国があってこそ、はじめて生命財産が保障され、日々の安穏な暮らしを送ることが出来るのです。歴史を顧みるまでもなく 国のない民族ほど悲惨なものはありません。

お大師様は「父母我を生ずというといえども、もし国王なくば強弱相戦い、貴賤劫奪して身命保ちがたく、財宝何ぞ守らん」(注3)と説いておられますが、内乱によって同じ民族同士が戦わざるを得ない国々の人々を見ると、国が平和である事の有り難さを痛感します。

また「もし恵眼をもってこれを観ずれば、一切衆生はみなこれ我が親なり。この故に経にいわく、W一切の男子はこれ我が父、一切の女人はこれ我が母、一切の衆生はみなこれ吾が二親師君なりWこのゆえに衆生の恩、すべからく報酬すべし」(注4)と説いておられますが、私達が、自分一人の力で生きているのでなく、多くの人々に支えられ、またすべての生き物の命を頂いて生かされている事も間違いないでしょう。

三宝の恩とは、仏法僧の恩で、お大師様が「もしよく生死の苦を断じ、涅槃の楽を与うるは三宝の徳なり。思議すべからず。三宝とは、一には仏宝、二には法宝、三には僧宝なり。仏宝は一切智智を具して衆生に正路を示す。法宝は難思の功徳を具して、よく持者をして世出世の楽を与えしむ。仏と法とかくのごとくの功徳ありといえども、もし僧宝なくば流通することを得じ。僧とは、菩薩声聞などの別なることあり。もしは菩薩、もしは声聞、凡聖を論ぜず、持破をえらばず、経論を誦伝して人に智恵を授くるをばこれを僧宝と名ずく」(注5)と説いておられるように、この世の真理である法と、法を悟ったみ仏と、法を伝え人々を導く命を担う僧がいなければ、私たちは、救いの光明を見いだせぬまま、永遠永劫、輪廻転生を繰り返していかなければなりません。

いずれにせよ、私たちは、受けた恩義を忘れることなく、感謝の誠をささげ、万が一にも受けた恩を仇で返すような事だけは決してしてはならないのです。

合掌

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(注1)この肉体は、虚空から生じたものでもなく、大地から生まれたものでもなく、すべて父母、国王、衆生、三宝にたすけられて、そのご恩のお蔭で保っている肉体である。四恩とは、第一に父母の恩、第二に国王の恩、第三に衆生の恩、第四に三宝の恩である。

(注2)私を生み、育ててくれるのは父母の恩であり、その恩は大空よりも高く、大地よりも厚い。父母の恩は、この肉体を粉にし、命を捧げても、報いる事が出来ないほど大きなものである。

(注3)いくら父母が私を生んでくれても、国を統治する国王がいなければ、強者と弱者は互いに争い、上の者と下の者は互いに奪い合って、この命を保つ事も、財産を守る事も難しくなる。

(注4)もしすぐれた智慧の眼で観れば、生きとし生けるものは、みな我が親である。だから、経典には、「凡ての男子はわが父、凡ての女子はわが母、すべての生きとし生けるものは、みなわが父母、師匠、君主である」と説かれているのである。それゆえに、衆生の恩には、必ず報いなければいけないのである。

(注5)生死の苦しみを逃れさせ、悟りの楽を与えてくれるのは、三宝の恩である。この三宝の徳こそ、人智を超えた神秘なるものである。三宝とは、一には仏宝、二には法宝、三には僧宝である。仏宝は、すべての智慧の中でも最高の知恵を具え、生きとし生ける者に、悟りへの正しい路を示してくれる。法宝は、不思議で神秘的な功徳を具え、仏宝を守る者に、この世の楽しみ、仏の世界の楽しみを与えてくれる。仏と法はこのように多くの功徳があるものではあるが、もし僧宝がいなければ、世の中に仏法が遍く流布することが出来ないのである。僧とは、大乗の修行を成就した菩薩、小乗の修行をする声聞などの区別がある。菩薩であろうと、声聞であおると、凡人聖人の区別はない。戒律を守り続ける人も、戒律を破った者も区別はない。経典や論書を講義し、伝える者を僧宝と名付ける。

 

 

 

 

 

 

 


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