桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
桜紋の扉 法徳寺の扉 御祈願の扉 汗露水の扉 御法歌 法話の扉 帰郷の扉 升紋の扉
信者を作らない理由法話の小部屋御同行の体験談

後世に伝えたいこと(2)



スリランカとの友好関係


後世に伝えたいことの二つ目は、スリランカと日本との友好関係についてです。

今年(2013年)3月12日から15日までの四日間、日本とスリランカの国交樹立60周年を記念して、「スリランカ民主社会主義共和国」のマヒンダ・ラージャパクサ大統領ご夫妻が、国賓として来日されました。

滞在中,天皇皇后両陛下との御会見や宮中での午餐会、安倍晋三内閣総理大臣との会談や夕食会など、様々な歓迎行事が催されましたが、スリランカと言えば、昔はセイロンと言って、我々にはセイロン紅茶で馴染みの深い国です。

インド半島の南東にある島国で、かつては、中国の明、ポルトガル、オランダ、イギリスなどの植民地でしたが、1948年2月4日、イギリス連邦の自治領として独立し、セーナーナーヤカ氏が、初代首相に選出されました。

1956年、総選挙で勝利した「スリランカ自由党」のバンダラナイケ氏が首相に選任されると、彼は、シンハラ語を公用語とする法案を提出して、タミル人を公務員から排除する政策を推し進めました。

スリランカは、シンハラ人とタミル人が大部分を占めていますが、シンハラ語を公用語とするバンダラナイケ大統領の「シンハラ人オンリー政策」によって、シンハラ人とタミル人の対立が深まっていきました。

1972年、国名をセイロンから「スリランカ共和国」に改称し、イギリス連邦内の共和国になりますが、この年から、タミル人のスリランカからの分離独立運動が、ますます激しくなっていきます。

1978年、国名を「スリランカ共和国」から現在の「スリランカ民主社会主義共和国」に改称しますが、1983年、ついにシンハラ人とタミル人の大規模な民族紛争が起こり、2009年までの26年間にも及ぶ内戦状態へ突入していきました。

2009年5月19日、政府側は、対立状態にあったタミル人反政府組織の完全制圧と内戦終結を発表し、26年にも及んだシンハラ人とタミル人の対立に終止符が打たれました。

内戦の原因となったタミル人排除を目的とする「シンハラ人オンリー政策」もなくなり、いまはシンハラ語とタミル語の両方が公用語とされるなど、民族融和に向けての様々な取組が行われており、国を挙げて経済復興に取り組んでいます。

また、スリランカは、国民の7割が仏教徒という仏教国でもありますが、そのスリランカが、我が国にとって忘れられない国になった大きな出来事があります。


ジャヤワルダナ財務大臣の演説


第二次世界大戦終結後の昭和26年(1951)9月6日、サンフランシスコにおいて、敗戦国日本の戦後処理をどのように進めるべきかについて、関係国が集り協議する「サンフランシスコ対日講和会議」が開催されました。

会議の席上、ソ連は、「アメリカ・ソ連・イギリス・中国」で日本を分割すべきであると強硬に主張し、敗戦国日本は、北海道・本州・四国・九州に分割されて、外国の支配下に置かれるかも知れないという岐路に立たされました。

もしこのまま会議の流れが、ソ連の思惑通りに進んでいれば、北海道などは、北方領土と同じように、ソ連領に組み込まれていたかも知れませんが、その流れを覆したのが、スリランカ(当時はセイロン政府)代表のジャヤワルダナ財務大臣(後のスリランカ第2代大統領)の演説でした。

この演説の中で、ジャヤワルダナ財務大臣は、次のように述べて、満場から拍手喝采を浴びたのです。

何故アジアの諸国民は、日本は自由であるべきだと切望するのでしょうか。

それは我々の日本との永年に亘るかかわり合いの故であり、又アジア諸国民が日本に対して持っていた高い尊敬の故であり、日本がアジア緒国民の中でただ一人強く自由であった時、我々は日本を保護者として又友人として仰いでいた時に、日本に対して抱いていた高い尊敬の為でもあります。

私は、この前の戦争の最中に起きたことですが、アジアの為の共存共栄のスローガンが今問題となっている諸国民にアピールし、ビルマ、インド、インドネシアの指導者の或人達がそうすることによって自分達が愛している国が開放されるという希望から日本の仲間入りをした、という出来事が思い出されます。

セイロンに於ける我々は、幸い侵略を受けませんでしたが、空襲により引き起された損害、東南アジア司令部に属する大軍の駐屯による損害、並びに我国が連合国に供出する自然ゴムの唯一の生産国であった時に於ける、我国の主要産物のひとつであるゴムの枯渇的樹液採取によって生じた損害は、損害賠償を要求する資格を我国に与えるものであります。

我国はそうしようとは思いません。何故なら我々は大師(注:釈尊のこと)の言葉を信じていますから。

大師のメッセージ、「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」はアジアの数え切れないほどの人々の生涯(生活)を高尚にしました。

仏陀、大師、仏教の元祖のメッセージこそが、人道の波を、南アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、シャム、インドネシアそれからセイロンに伝え、そして又北方へはヒマラヤを通ってチベットへ、支那へそして最後には日本へ伝えました。

これが我々を数百年もの間、共通の文化と伝統でお互いに結びつけたのであります。

この共通文化は未だに在続しています。それを私は先週、この会議に出席する途中日本を訪問した際に見付けました。

又日本の指導者達から、大臣の方々からも、市井の人々からも、寺院の僧侶からも、日本の普通の人々は今も尚、平和の大師の影の影響のもとにあり、それに従って行こうと願っているのを見いだしました。

我々は日本人に機会を与えて上げねばなりません。

そうであるから我々は、ソ連代表の云っている、日本の自由は制限されるべきであるという見解には賛同出来ないのです。


法句経第5番ー恨みは人を許す心によってのみ解ける


ジャヤワルダナ財務大臣は、「欧米列強国からの独立を望むアジアの人々が、日本の掲げた理想に共感したことを忘れないで欲しい」と述べた上で、日本に対する賠償要求を放棄する事を宣言し、日本が再び国際社会に復帰する道すじを作ってくれたのです。

そして、ジャヤワルダナ財務大臣が演説で取り上げた釈尊の言葉が、『法句経』第5番の言葉です。

『法句経』とは、423の詩や句から成り立っているお経で、仏教の中でも代表的な経典の一つですが、その第5番は、

「怨みは、怨みを以ってすれば、終に以って休息を得ず。忍を行ずれば、怨み息むことを得ん。此れを如来の法と名づく」

という詩句です。

訳せば、「人に対する怨みは、怨みによって解く事は出来ない。人を許す心によってのみ解く事が出来る。これは永遠に変る事のない真理である」という意味になりますが、このサンフランシスコ講和会議でのジャヤワルダナ財務大臣の演説がなければ、戦後の日本は、全く違った形で再出発を余儀なくされていたに違いありません。

もし北海道がソ連領になっていれば、札幌の雪まつりも、サッポロラーメンも、富良野の花畑もなかったでしょう。

それだけに、私たちは、この時スリランカから受けたご恩と、わが国を救ってくれた釈尊の教えである「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」という『法句経』第5番目の詩句を決して忘れることなく、子々孫々に伝えてゆかなければなりません。


献身的なトルコ救助隊の活躍


後世に伝えたい三つ目は、トルコ共和国との深い絆についてです。

ご承知のように、トルコ共和国のイスタンブールはいま、東京、スペインのマドリードと共に、7年後の2020年夏季オリンピック開催をめぐり、招致活動を繰り広げています。(注1)

トルコ共和国は今回で五度目の挑戦となり、開催が決まればイスラム圏で初の開催となり、また日本も、1964年の東京オリンピック開催以来56年ぶりの開催となります。

日本は、2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災における全世界からの支援に対する返礼と震災復興、震災時に示されたスポーツの力などを開催テーマに掲げて招致活動に臨んでいますが、東日本大震災では、世界の20を超す国々が救援隊を日本に派遣してくれました。

彼らは被災地に入り、行方不明者の捜索・救助や、がれきの撤去作業、医療活動などに献身的に取り組み、その活動は、被災地の人々を勇気づけ、心の支えとなりましたが、福島第一原発の事故の深刻さが明らかになると、撤収を選択する国が続出しました。

外資系企業の中には、日本支社の社員に「東京から退避せよ」と命じるところもあり、動揺が各地に広まりましたが、そんな中、救援隊の中では最長となる3月19日から4月8日までの約3週間、宮城県石巻市、多賀城市、七ヶ浜町など被災地の現場に踏み止まり、最後まで、被災地の救援活動を続けてくれた国がありました。

それが、日本と共に、2020年夏季オリンピック招致活動を繰り広げているトルコ共和国なのです。

親日国として知られるトルコ共和国は、西アジアのアナトリア半島と東ヨーロッパのバルカン半島の東側の一部地域に広がる7270万人余りの人口を有する国で、アジアとヨーロッパとアフリカを結ぶ東西文明の交流点に位置しています。

国民の99パーセントがイスラム教徒(ムスリム)というイスラム教の国でもありますが、国土の北側の大半が黒海に、南側が地中海に面し、西側をギリシャとブルガリア、南側を、シリアとイラク、東側をグルジア、アルメニア、イランと国境を接しています。

イスラム教の国なので、中東諸国の一員のように思えますが、実は西側諸国の一員で、NATO加盟国でもあります。トルコの首都はアンカラですが、最大都市は、オリンピック開催候補都市で、人口1137万人余りを数えるイスタンブールです。


テヘランからの日本人救出


東北の被災地で示されたトルコ救助隊の活躍は目覚ましいものがありますが、何故トルコが、これほどまでに日本に強い信頼と友情を示してくれるのかと言いますと、その背景には、両国がお互いに支えあってきた友好の歴史があります。

1999年にトルコ北西部で発生した大地震では、日本は世界に先駆けて国際緊急援助隊を派遣し、緊急物資・無償援助などを行ないました。

東日本大震災の後の2011年10月にもトルコ東部で大地震が発生しましたが、日本政府が緊急支援を行ない、さらに「難民を助ける会」など日本のNGOも現地で救援活動を展開しました。

しかし、それらの支援も然ることながら、両国の友情を考える上で、日本人が決して忘れてはならない出来事があります。

それは、昭和60年(1985)に起きたイラン・イラク戦争下でのテヘランからの日本人救出です。

イラン・イラク戦争は昭和55年(1980)に始まりましたが、昭和60年3月、イラクによるイランの都市空爆を契機に、両国の都市攻撃が激化します。

イランの首都テヘランにもイラク空軍機が襲来するなど、情勢が一気に緊迫化する中、イラクのフセイン大統領(2006年12月30日死亡)が、3月17日に「48時間以降、イラン上空を飛行する航空機を、民間機であろうと無差別攻撃する」と宣言したのです。

各国は大慌てで、自国民救出のための救援機を送りますが、日本からは救援機が出せませんでした。

当時は、平和憲法9条の壁があって自衛隊の海外派遣が出来ないという原則があったために自衛隊機を送ることができず、また当時国内で唯一、国際便を運航していた日本航空も、労組が「航行安全の保証がない限り臨時便は出せない」という方針を打ち出して反対したため、救援機を飛ばせなかったのです。

現地の日本人は八方手を尽くしますが、他国の航空会社はどこも自国民優先で、乗れる飛行機は一機もありませんでした。

いよいよ刻限が迫り、現地邦人の誰もが諦めかけていた時、手を差し伸べてくれたのがトルコでした。

しかも、当時、テヘランには600名を超えるトルコ人がいたにも拘らず、危険を承知でトルコ航空機を現地に飛ばし、215名の日本人を優先して救出してくれたのです。

最後の命綱とも頼む日本の航空会社ですら見捨てた215名の日本人を救出するため、最大限の敬意をもって立ち上がったのがトルコだったのです。

何故彼らは、自国民よりも日本人を優先して救出するという、日本はおろか、どこの国にも出来なかった大きな英断を下してくれたのでしょうか?

その背景には、この救出劇より95年も前に起きた或る事件で結ばれた強い絆がありました。その事件とは、「エルトゥールル号遭難事件」で、トルコの人々は、その時受けた恩を今も忘れていなかったのです。


エルトゥールル号遭難事件


明治23年(1890)9月16日夜半、台風の荒れ狂う和歌山県串本沖で、オスマン帝国(オスマン・トルコ)の軍艦エルトゥールル号が遭難しました。

600名余の乗組員のうち、司令官オスマン・パシャはじめ500名以上が死亡または行方不明になるという大惨事でした。

彼らは、明治20年(1886)に日本の小松宮彰仁親王がトルコのイスタンブールを訪問したことへの答礼使節でした。

11カ月以上もかけて、全長76mの木造製軍艦「エルトゥールル号」が国際親善の為はるばる日本にやってきたのです。

東京で明治天皇に拝謁したり、様々な歓迎行事に参列したりしながら、3か月滞在した後、9月14日、横浜から帰国の途に着いたのですが、9月16日夜半、紀伊半島沖で台風の直撃を受けたのです。

船は難破し、パシャ提督を始めとする656名の乗組員が遭難しますが、遭難現場の串本の沖合に浮かぶ紀伊大島の人々が、危険を冒しながら69名を救出したのです。

大島の人々の暮らしは決して裕福なものではありませんでしたが、なけなしの食料や衣類を惜しげもなく提供し、普段は正月にしか食べない白米を炊き出したり、時を知らせる鶏をつぶして振る舞うなど、全力で遭難者の救助にあたったのです。

明治天皇も知らせを受けるや、政府を挙げての救援を命じ、トルコ人の生存者たちは手厚い看護を受けた後、日本海軍の二隻の軍艦「金剛」「比叡」で、翌年1月2日にイスタンブールに帰還しました。

またこの事件が報道されると、日本全国でトルコへの義援金を募る動きが沸き起こり、現在の貨幣価値で1億円ともいわれる金額がトルコへ届けられました。

この日本人の真摯な気持ちが、トルコの人々に伝わり、トルコで親日感情が大きく高まり、これが後の、イラン・イラク戦争での日本への好意的な対応などの動きにつながっていったのです。

紀伊大島の樫野崎(かしのざき)には、現在「トルコ軍艦遭難慰霊碑」が建っていますが、これは、事故後すぐに日本人が慰霊碑を建ててトルコ将兵を追悼していることを知って感激したトルコ共和国初代大統領のケマル・アタテュルクが、トルコの国費を投じて昭和12年(1937)に新たに建立したものです。

この慰霊碑を紀伊大島の人々や大島の小学生が今も清掃し、大切に追悼し続けており、それに対する感謝が、今もトルコの人々から寄せられているのです。

しかし、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏が、
エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。
 日本では何故なのか理解できませんが、今の日本人が知らないだけです。だからこそあの時は、テヘランで困っている日本に今こそ恩返しをしようと、トルコ航空機は飛んだのです

 と語っているように、日本とトルコが時代を越えて結んできた友好の絆が、日本では余り知られていませんし、私も学校で教えられた記憶がありません。

今の子供達は教えられているのでしょうか?もし教えられていないとすれば、これは非常に残念なことで、「何故なのか?」と疑問を抱かざるを得ません。

実際にその通りの事があったのかどうかも分からない出来事を、隣国の顔色をうかがいながら子供たちに教え、自国に対する誇りと愛情を踏みにじる自虐教育は行われていても、スリランカやトルコとの深い友好の絆については何も教えられていないとすれば、教育の在り方そのものに疑問を感じる日本人は決して少なくないでしょう。

「国造りは人造り」と言われるように、誇りと愛情と尊厳を持って生きる人間を育ててこそ、初めて国の明るい未来は開けるのです。

それに逆行するかのような教育がなされているとすれば、それは国家そのものの存亡に関わる大問題であり、教育の在り方そのものを根底から見直し、是正していかなければならないでしょう。

合掌

後世に伝えたいこと(1)
後世に伝えたいこと(2)
後世に伝えたいこと(3)
後世に伝えたいこと(4)
法話の小部屋Top


サイト内検索 help
 


法徳寺の草花と自然

ソメイヨシノ

紫陽花
(花言葉 忍耐強い愛)

 


法話の小部屋Topへ


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(ジャヤワルダナ財務大臣)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注1)2013年(平成25年)9月7日(日本時間8日早朝)、国際オリンピック委員会(IOC)の総会が、アルゼンチンのブエノスアイレスで開催され、投票の結果、東京が、2020年夏季オリンピック、パラリンピックの開催地に選出された。
1回目の投票では、東京42票、イスタンブール26票、マドリード26票で、東京がトップだったが過半数には達せず、トルコのイスタンブールとスペインのマドリードが同数だったので、最下位決定の決選投票が行われ、イスタンブール49票、マドリード45票となり、マドリードが除外された。
2回目の決選投票では、東京60票、イスタンブール36票となり、東京が開催地に決まった。(2013/9/8)

 

 

東京の招致ロゴマーク

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

樫野崎のトルコ軍艦遭難慰霊碑

 

 

 

 


高野山法徳寺(たかのやまほうとくじ) TEL:0551-20-6250 Mailはこちらから
〒408-0112 山梨県北杜市須玉町若神子4495-309 FAX:0551-20-6251 お問合せフォーム