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神の祝福か?輪廻の業か?(4)

― 仏教徒から見たイスラム過激派の行動 ―



仇を拝んだ法然上人の父


同じ親から生まれた兄弟宗教とも言えるユダヤ教、キリスト教、イスラム教の間で、千年以上にわたって相続されてきた輪廻の業の連鎖が、この先いつまで続くのか、想像も出来ませんが、輪廻の業の連鎖に終止符を打つためには、お互いが背負っている因縁を解く以外に道はありません。

そして、お互いの因縁を解くには、お互いがお互いを許し合い、拝み合い、認め合うしかないのです。

勿論、過去の経緯から憎しみ合わなければならない者同士が、お互いの因縁を拝み合い、許し合い、認め合う事は、口で言うほど容易ではなく、そこには、深い信仰心と慈悲心(愛)と覚悟が求められます。

しかし、仏教徒の中には、仇となる因縁を在るがまま受け入れ、仇敵を拝んで因縁を解いたお方が、何人もおられます。

その内の一人は、浄土宗の開祖、法然上人の父で、美作国の押領使であった漆間時国(うるまのときくに)というお方です。

法然上人は、時国の長男として生まれ、幼名を勢至丸と言いましたが、9歳の時、以前から不仲だった稲岡荘の預所・明石定明の軍勢によって屋敷を夜襲され、時国は重症を負っていのちを落とします。

しかし、時国は、勢至丸を臨終の床に呼び、「私がこうしていのちを落とすのも、宿世の因縁である。お前が、相手への憎しみから私の仇を打てば、末代までも報復は繰り返され、子々孫々を苦しめることになる。もしお前が私の救いを願うのであれば、仇討ちを思い留まり、仏道に入って私の菩提を弔って欲しい」と遺言して亡くなります。

勢至丸は、父の遺言を守り、後に比叡山に上って、浄土宗の開祖、法然上人となり、苦しむ多くの人々を救済されたのです。

法然上人も偉大ですが、父の漆間時国が勢至丸を仏道に導き、因縁を解いたからこそ、後の法然上人が誕生したのです。

もしこの時、勢至丸が父の仇討ちをしていれば、仇を討たれた相手の子も、また同じように、勢至丸を父の仇として狙い、「目には目、歯には歯、仇には仇」という輪廻の業の連鎖が途絶えることなく、宿世の業となって、子々孫々を苦しめる事になるのです。

夜襲を受けて命を落とすのも、自らが作った輪廻の宿業であり、報復の連鎖を勢至丸に背負わせてはならないという時国の悟りが、勢至丸を救い、仇となる相手の子孫をも救ったのです。

表面的に見れば、時国は、犠牲です。しかし、時国の犠牲があったからこそ、輪廻の業の連鎖が解け、勢至丸も相手の子孫も救われたのです。

犠牲になった時国は、きっと、勢至丸を仏道に導き、因縁を解く為に、仮に父として生まれてきたみ仏の化身だったのでしょう。


大石順教尼の悟り


もう一人は、両腕のない尼層として有名な大石順教尼です。

今から100年余り前の明治38年(1905)6月21日、大阪堀江の遊郭「山海楼」の主人、中川万次郎が、後妻が男と駆け落ちした事に腹を立てて逆上し、逃げた後妻の母親、弟、妹の3人、そして養女にしていた芸妓3人に次々と斬りかかり、5人を惨殺するという痛ましい事件が起こりました。

「大阪堀江の六人斬り事件」と言われる事件ですが、この時、両腕を切断されながらも一命を取り留めた芸妓が、当時17歳の妻吉で、後の大石順教尼です。

一夜にして、この世の生き地獄に突き落とされた妻吉の人生は、苦難の連続でしたが、やがて「自分は両腕を斬りおとされなければならない因縁を背負っていたのだ。だから、私はいまこんな姿をしているのだ。怨むべきは、人でも社会でもみ仏でもなく、自分自身なのだ。私はいま、過去に作ってきた因縁を、この身に問われているのだ。だから、この因縁を在るがまま受け入れ、拝んでいこう」という悟りの境地に到達し、憎んでも憎みきれない中川万次郎の救いを祈るようになります。

普通であれば、「何も悪いことをしていないのに、何故こんな酷い目に遇わなければいけないのか」と言って、相手を恨み、社会を恨み、神仏を恨むところですが、順教尼は、「私は両手を無くしたお陰で、本当に救われました」と、感謝の言葉を言えるまでの境地に到達されたのです。

これは、簡単に言える言葉ではありませんが、両手のない順教尼は、心の両手を合わせながら、仇となった中川万次郎の救いを、一心に祈られたのです。

順教尼が、中川万次郎を生涯恨み続ければ、その恨みは輪廻の業となって、必ず来世へと受け継がれてゆくでしょうが、順教尼は、中川万次郎という仇を拝み、因縁を拝んで、ついに輪廻の業の連鎖を断ち切られたのです。

紀州高野山へ行きますと、参道の途中に、「慈手観音」と名付けられた観音様がお祀りされ、その隣に「腕塚」と刻まれた墓標が建っています。

この腕塚には、中川万次郎に斬りおとされた大石順教尼の両腕が埋葬されていますが、斬りおとされたこの両腕こそ、順教尼が、輪廻の業の連鎖を断ち切る為には、どうしても切られなければならなかった両腕であり、自ら輪廻の業の連鎖を断ち切った勝利の勲章なのです。


日本を救った釈尊の教え


怨みは、怨みを以ってすれば、終に以って休息を得ず。忍を行ずれば、怨み息むことを得ん。此れを如来の法と名づく
 (人に対する怨みは、怨みによって解く事は出来ない。人を許す心によってのみ解く事が出来る。これは永遠に変る事のない真理である)

これは、『法句経(ダンマパダ)』(注1)の第5番の詩句ですが、怨みに怨みを返し、仇に仇を返すのではなく、仇となる因縁を拝み、仇を許してこそ、輪廻の業の連鎖に終止符が打たれるのです。

第二次世界大戦終結後の昭和26年(1951)9月6日、サンフランシスコにおいて、敗戦国日本の戦後処理をどのように勧めるべきかについて、関係国が集まって協議する「サンフランシスコ対日講和会議」が開催されました。

会議の席上、ソ連は、「アメリカ・ソ連・イギリス・中国」で日本を分割すべきであると強硬に主張し、敗戦国日本は、北海道・本州・四国・九州に分割されて、外国の支配下に置かれるかも知れないという岐路に立たされていました。

もしこのまま会議の流れが、ソ連の思惑通りに進んでいれば、北海道などは、北方領土と同じように、ソ連領に組み込まれていたかも知れませんが、その流れを覆したのは、スリランカ(当時はセイロン政府)(注2)代表のジャヤワルダナ財務大臣(後のスリランカ第2代大統領)の演説でした。

この演説の中で、ジャヤワルダナ財務大臣は、次のように述べて、満場から拍手喝采を浴びたのであります。

何故アジアの諸国民は、日本は自由であるべきだと切望するのでしょうか。

それは我々の日本との永年に亘るかかわり合いの故であり、又アジア諸国民が日本に対して持っていた高い尊敬の故であり、日本がアジア緒国民の中でただ一人強く自由であった時、我々は日本を保護者として又友人として仰いでいた時に、日本に対して抱いていた高い尊敬の為でもあります。

私は、この前の戦争の最中に起きたことですが、アジアの為の共存共栄のスローガンが今問題となっている諸国民にアピールし、ビルマ、インド、インドネシアの指導者の或人達がそうすることによって自分達が愛している国が開放されるという希望から日本の仲間入りをした、という出来事が思い出されます。

セイロンに於ける我々は、幸い侵略を受けませんでしたが、空襲により引き起された損害、東南アジア司令部に属する大軍の駐屯による損害、並びに我国が連合国に供出する自然ゴムの唯一の生産国であった時に於ける、我国の主要産物のひとつであるゴムの枯渇的樹液採取によって生じた損害は、損害賠償を要求する資格を我国に与えるものであります。

我国はそうしようとは思いません。何故なら我々は大師(注3)の言葉を信じていますから。

大師のメッセージ、「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」はアジアの数え切れないほどの人々の生涯(生活)を高尚にしました。

仏陀、大師、仏教の元祖のメッセージこそが、人道の波を、南アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、シャム、インドネシアそれからセイロンに伝え、そして又北方へはヒマラヤを通ってチベットへ、支那へそして最後には日本へ伝えました。

これが我々を数百年もの間、共通の文化と伝統でお互いに結びつけたのであります。

この共通文化は未だに在続しています。それを私は先週、この会議に出席する途中日本を訪問した際に見付けました。又日本の指導者達から、大臣の方々からも、市井の人々からも、寺院の僧侶からも、日本の普通の人々は今も尚、平和の大師の影の影響のもとにあり、それに従って行こうと願っているのを見いだしました。

我々は日本人に機会を与えて上げねばなりません。

そうであるから我々は、ソ連代表の云っている、日本の自由は制限されるべきであるという見解には賛同出来ないのです。
                             (演説の一部を抜粋)

ジャヤワルダナ財務大臣は、「欧米列強国からの独立を望むアジアの人々が、日本の掲げた理想に共感したことを忘れないで欲しい」と述べ、『法句経』第5番を引用した上で、日本に対する賠償要求を放棄する事を宣言し、日本が再び国際社会に復帰する道すじを作ってくれたのです。

この事実を知っている日本人がいまどれほど居るのか知りませんが、ジャヤワルダナ財務大臣の演説がなければ、戦後の日本は、全く違った形で再出発を余儀なくされていたかも知れないだけに、私たちは、この時スリランカから受けた御恩を決して忘れてはならず、末代までも子々孫々に伝えてゆく責務があります。

そして、わが国を救ってくれた釈尊の教え、「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」という『法句経』第5番目の詩句も、決して忘れてはならないと思います。


真の勝利者、真の勇者とは


宗教に携わる者にとって真の勝利とは何でしょうか?

かつての十字軍遠征や、パレスチナ問題、繰り返される無差別テロ事件などを見ていると、一神教徒にとっての宗教的勝利とは、他教徒との宗教戦争に勝利する事であるかのようにも思えますが、少なくとも仏教徒にとっての宗教的勝利とは、他教徒に勝利する事ではありません。

何故なら、仏教徒には、自分以外に勝利しなければならない相手などいないからです。

つまり、自らが背負う因縁を解き、果てしない輪廻の業の連鎖に終止符を打つ者こそ、真の勝利者であり、仏教徒として最も尊敬に値する人物なのです。何故なら、自己の因縁を解く事は、取りも直さず、他の人々の因縁を解く事に他ならないからです。

その意味で、法然上人の父、漆間時国や大石順教尼は、誰からも尊敬されるに値する真の勝利者と言えましょう。

また、釈尊の教えによって敗戦国日本を救ってくれたスリランカは、怨みに打ち勝った真の仏教国として賞賛されるべきであると共に、我々が最も大切にしなければならない真の友好国と言っていいでしょう。

漆間時国や大石順教尼やスリランカが、真の勝利者となり得たのは、被害者でありながら、憎むべき加害者に、限りない慈悲(愛)の心をそそぎ、「仇を許し、因縁を拝む」という釈尊の教えを行動で示した真の勇者だからです。

勿論、一神教徒であっても、漆間時国や大石順教尼のような真の勝利者、真の勇者となり得る事は間違いありませんが、その為には、法句経に説く「仇を許し、因縁を拝む」という教えを実践出来るか否かにかかっています。

と言うより、この精神が実践出来なければ、いま世界各地で起こっているテロ事件や宗教戦争、更には、難民問題や様々な民族紛争、貧困層の救済や教育環境の整備など、山積する困難な問題の解決は、不可能と言っていいでしょう。


復讐してはならない


旧約聖書にある「目には目、歯には歯」の一節を見ると、一神教徒が「仇を拝み、因縁を拝む」という教えを実践する事は、ほぼ不可能に近いのではないかとさえ思えてきますが、一縷の希望がない訳ではありません。

何故なら、旧約聖書や新約聖書にも、仏教と相通じる教えが説かれているからです。

ユダヤ教の聖典であると同時に、キリスト教、イスラム教の聖典でもある旧約聖書には、次のように説かれています。

復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。
 不正な裁判をしてはならない。 弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。

またイエス・キリストと弟子達の言葉を集めたとされる新約聖書にも、同じような一節があります。

「目には目で、歯には歯で」と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。 悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。

「目には目で、歯には歯で」という言葉の意味を、「目には目で復讐し、歯には歯で復讐してもよい」という意味だと誤解していた人々を、イエスは、正しい意味はそうではないと諭され、「復讐してはいけない。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」と教えているのです。

一方では、復讐を容認する「目には目、歯には歯」の一節があり、もう一方では、復讐をしてはいけないと説く一節がある旧約聖書と新約聖書ですが、果たしてどちらが神の本心なのでしょうか?

一見矛盾するかのように見えるこの教えを、一神教徒がどのように理解しているのかは知りませんが、キリスト教徒がいうように、もしイエスが「神の子」であるなら、イエスがおっしゃった言葉こそ神の言葉でなければなりません。

そして、イエスは「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」と言っているのですから、復讐してはならないという一節こそが神の本心と解釈しなければなりません。

ただ、ユダヤ教徒やイスラム教徒は、「イエスは、神の子ではなく、預言者の一人に過ぎない」としていますから、イエスの言葉を神の本心とは認めないでしょうが、少なくとも彼らが聖典とする旧約聖書には、「復讐してはならない」と説かれていますから、この言葉を神の本心と解釈しても間違いではないでしょう。

復讐を禁じたこの一節が神の本心なら、これは、一神教徒にとって、命を賭けてでも守らなければならない神聖なる言葉であり、この言葉に背く事は、神を冒涜するに等しい事になります。


神の本心とかけ離れた現実


しかし、現実は、口でいうほど簡単ではありません。

復讐を戒めたこの一節が神の本心であるとしても、これで報復の連鎖が止み、問題が解決するのであれば、十字軍遠征も、パレスチナ問題も、無差別テロ事件も、起こってはいなかったでしょう。

神の本心(聖典の一節)と一神教徒の行動が、常に一致するとは限らないのが、悲しい現実なのです。

いくら「復讐してはならない」という一節が神の本心であったとしても、そして、神の意志に絶対服従する事が一神教徒の信仰であったとしても、一神教徒の行動を決定するのは、神ではありません。

最後に服従するか否かを決めるのは、信仰する一人一人の人間なのです。

しかも、その鍵を握っている人間は、自分にとって都合の良い方向にしか進まないという習性を持っています。

神の意志に絶対服従する事が一神教徒の信仰であり、「復讐してはならない」という一節が神の本心であるというのは、あくまで建前に過ぎません。

幾ら「神は偉大なり」と叫んでみたところで、いざ復讐しない事が自分にとって不都合になってきたら、都合の良いように幾らでも聖典の解釈を変え、復讐する自分の行動を正当化するのが、人間の本性であり、本音なのです。

しかも、政教一致の国々では、常に宗教が政治、経済を動かし、政治、経済を巡る様々な利害関係が宗教にも及んできますから、「復讐してはならない」という一節を実践する事は、一層難しくなります。

このような状況では、山積する諸問題を解決する事など、夢のまた夢と言わざるを得ませんが、一つの条件さえクリア出来れば、決して難しい事ではないと思います。

その条件とは、「復讐してはならない」という神の本心に、一神教徒が絶対服従し、行動に移す事です。

しかし、この一点こそが、まさに至難の業であり、一神教徒としての信仰心が本物か否かが問われる試金石でもあるのです。

残念ながら、パレスチナ問題一つを取って見ても、「復讐してはならない」という神の言葉を実践する事がいかに難しいかが分かります。

ユダヤ教徒とイスラム教徒が互いに対立したまま、睨み合い、教えとは相反する行動しかとれないのは、いくら聖典に「復讐してはならない」と書かれていても、現実にそれを実践するのが難しいからです。

「復讐してはならない」という一節を神の言葉と信じ切れていれば、それが神の本心である以上、一神教徒なら、その命令に絶対服従し、そのように行動しなければならない筈なのですが、そこには、理想(建前)と現実(本音)の大きなギャップが横たわっているのです。


人類救済のための犠牲


この理想と現実のギャップを埋めることは可能でしょうか?

ここで思い出して頂きたいのは、先にお話した法然上人の父、漆間時国です。

漆間時国は、復讐をしてはならないと遺言して、勢至丸(後の法然上人)を諌め、自ら犠牲になったのですが、旧約聖書、新約聖書にある「復讐をしてはならない」というこの一節を行動に移し、理想と現実のギャップを埋める為には、どうしても乗り越えなければならない壁があります。

それが、犠牲です。

つまり、誰かが犠牲になって、初めて輪廻の業の連鎖に終止符が打たれ、因縁を背負う者凡てが救われるのです。

漆間時国が犠牲になったお陰で、法然も時国を襲った相手の子孫も、みな救われたのですが、一神教の中にも、漆間時国と同様、犠牲になられたお方がいます。

そのお方は、言うまでもなく、イエス・キリストです。

イエス・キリストは、人類の罪(十字架)を背負って処刑され、犠牲となって、人類の救世主となられました。

イエスが犠牲になったのは、人類を救済する為ですが、その犠牲は、宗教的始祖であるアブラハムから生まれた兄弟宗教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教の間で繰り返されてきた千年以上にも及ぶ、骨肉の争いに終止符を打つ為の犠牲でもあります。

キリスト教では、イエスは神の意志によって、人類の罪を背負わされたと言われていますが、人類の罪も然ることながら、兄弟でありながら傷つけあわなければ生きてゆけない罪深きわが末裔たちを憐れんだ神(ヤハウェ)が、イエスを犠牲にして救おうとされたのです。

仏教的に表現すれば、輪廻の業の連鎖(宗教戦争)を断ち切る為に、神はイエスを犠牲にされたのです。

そして、三大宗教を開かれた三人(モーゼ、イエス・キリスト、ムハンマド)の中で、人類の犠牲となったのが、イエス・キリストだけである事を考えると、いま世界中で起きている無差別テロ事件や、複雑化しているパレスチナ問題などを解決する鍵を握っているのは、キリスト教徒(キリスト教国を代表するアメリカ合衆国)をおいて他にはありません。

何故なら、犠牲となったイエス・キリストを信じるキリスト教徒にしか、犠牲の意味を理解し、イエスと同じ行動を起せる者はいないからです。

イエスは、いま全世界のキリスト教徒に問いかけておられるのではないでしょうか。

「私は、みんなに手本を示したのだ。本当に私を神の子と信じるなら、貴方達も、憎しみ合っている兄弟たちを和解させるため、行動を起しなさい。それが、私を神の子と信じる貴方達が、人類を救うために出来る最善の行動です」

全世界のキリスト教徒が、イエスの犠牲を、どのように受け止めているのか、私には分かりませんが、イエスはいま、「貴方たちも私と同じように、人類を救うため犠牲になる覚悟がありますか」と、問いかけておられるのではないでしょうか。

三大宗教を三兄弟とすれば、キリスト教徒は次男です。対立している長男のユダヤ教徒と、三男のイスラム教徒の仲裁が出来るのは、次男のキリスト教徒をおいて他にはいません。

勿論、仏教徒にも出来る事は多々あるでしょうが、兄弟同士の対立は、やはり兄弟で解決しなければ、真の解決とはなりません。と言うより、それが実現できなければ、兄弟対立は永遠に続いてゆく事になります。

武器を手にして解決を計るのが、独裁者であるとすれば、武器を捨て、智恵を以て解決を計るのが、真の宗教者と言えましょうが、和解する為には、まず仲裁者となるキリスト教徒(アメリカ)が犠牲になる覚悟を示し、双方に歩み寄らなければなりません。


イエス・キリストが復活する日


新約聖書には、イエス・キリストが処刑された三日後の早朝、女達がイエスの墓をたずねると、すでに墓は空になっていて、大天使ガブリエルがキリストの復活を告げたと書かれていますが、この時に起こったイエス・キリストの復活を、どう捉えればよいのかについて、様々な意見があります。

イエスの犠牲が犠牲のままでは終わらず、人類救済という形で実を結ぶ事を預言したところに、イエス復活の意味があるとするならば、この時のイエスの復活は、謂わば仮の復活に過ぎません。

イエスが真に復活したのであれば、三兄弟の間で繰り返されている骨肉の争いに終止符が打たれ、全人類はすでに救われていなければならないからです。

では、イエスが真に復活されるのはいつなのでしょうか?

それは、全キリスト教徒が、自らイエスと同じ犠牲を甘んじて受け入れる覚悟をした時ではないでしょうか。

つまり、全キリスト教徒が、ユダヤ教徒やイスラム教徒と宗教的和解をする為に、犠牲になる覚悟を示した時、イエス・キリストは、全キリスト教徒の内に、全キリスト教徒と共に復活するのです。

ここにいう犠牲とは、イエス・キリストが背負った十字架を、全キリスト教徒が背負う事では勿論ありません。

キリスト教徒が背負う十字架とは、新約聖書に説かれたイエス・キリストの次の言葉を行動で示す事です。これは全キリスト教徒の使命と言っていいでしょう。

「目には目で、歯には歯で」と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。 悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。

この言葉が行動で示される時、イエス・キリストが、全キリスト教徒の内に復活し、人類救済への扉が大きく開かれるに違いありません。

そして、これこそ、処刑三日後に、イエス・キリストが復活という形で示した人類救済のシナリオなのではないでしょうか。

その日がいつかは知る由もなく、まさに神のみぞ知るところと言えましょう。

しかし、その日が、イエス・キリストの言葉を行動によって示す時であるならば、その日を決めるのは神ではなく、キリスト教徒自身であり、人類の恒久平和を願う私達自身なのです。

合掌

神の祝福か?輪廻の業か?(1)
神の祝福か?輪廻の業か?(2)
神の祝福か?輪廻の業か?(3)
神の祝福か?輪廻の業か?(4)
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(注1)423の詩句からなる経典。「ダンマ」とは、「法、真理」、「パダ」とは、「道、足跡」の事で、直訳すれば「真理の足跡」という意味であるが、中国で「法句経」と漢訳された。

 

 

 

 

 

(注2)スリランカは通称で、正式名称は、「スリランカ民主社会主義共和国」。1948年にイギリス連邦内の自治領として独立し、セイロンを国名としていたが、1972年に国名をスリランカに改めた。スリランカは、正確にはシュリー・ランカーで「聖なる」「光輝く」という意味である。仏教徒が国民の7割を占める仏教国でもある。

 

 

(演説するジャヤワルダナ氏)

 

 

(注3)釈尊のこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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