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やる気が人生を変える(3)



のぼうの城


2003年、第29回城戸賞(注1)を受賞した和田竜氏の脚本「忍ぶの城」を元に、和田氏自ら書き下ろした小説『のぼうの城』を、犬童一心監督と樋口真嗣監督が共同でメガホンを取り、総勢二万の豊臣秀吉、石田三成軍に、たった五百名の兵で抗戦し、勝利した実在の武将・成田長親(なりたながちか)の姿を描いたのが、今年(2012年)11月2日に封切られた戦国エンタテインメント超大作映画『のぼうの城』です。

天下統一を目指す豊臣秀吉は、最後まで抵抗していた関東の雄、北条氏を攻め滅ぼさんと、大軍を投じて小田原攻めを開始しますが、北条方にあって最後まで落ちなかった支城が、周囲を湖に囲まれ、浮城とも呼ばれていた武州(現在の埼玉県行田市)の忍城(おしじょう)でした。

そこには、領民から、でくのぼうを揶揄した「のぼう様」と呼ばれる成田長親という城代がいました。

農作業が好きな長親は、生来の不器用者で、いつも領民の農作業を手伝おうとしては、迷惑ばかりかけていました。

家来たちは、「のぼう様」と呼ばれている長親の風貌や、特異な行動から、彼を大将の器ではない愚鈍な人物と見ていましたが、領民たちには、絶大な人気を誇っていました。領民たちは、長親のためなら命も惜しまないほど、彼を慕っていたのです。

そして、この智も仁も勇もない、文字通り、でくのぼうにしか見えない長親が、二万の軍勢を誇る豊臣軍に対し、僅か五百名の軍勢で迎え討つ決心をした時、長親と領民たちが起す奇跡の舞台が、幕を開けるのです。


予期せぬ不運


映画化実現まで7年の歳月と、15億円の巨費が投じられた『のぼうの城』は、2010年夏より製作が開始され、翌2011年秋に封切られる予定でしたが、2011年3月11日に、東日本大震災が発生したため、水攻めシーンが震災を連想させるという理由から、一年延期されるという不運に見舞われました。

一年間の延期は、興行的には大きな打撃で、不運と言わざるを得ませんが、私には、不運に見舞われた映画『のぼうの城』と、小田原の北条方について秀吉と敵対する事になった成田長親の不運な境遇が、何故か重なって見えて仕方ありません。

震災は誰にも予知できない不可抗力であり、映画関係者には何の責任もない不運な出来事であるだけに、水攻めシーンが大津波を連想させるからと、被災者の心情を察して延期を決めた関係者の英断には敬意を表しますが、だからこそ、押し寄せる豊臣方の大軍を、僅かの手勢で打ち負かした成田長親にあやかって、この映画にも、是非その不運を跳ね返して、成功して欲しいと願わずにはいられません。

しかし、『のぼうの城』に成功して欲しい理由は、それだけではありません。

と言うのも、私の眼には、忍城に押し寄せる二万人の豊臣軍が、東日本大震災の大津波に、また僅か五百名の手勢で豊臣軍を打ち破った成田長親の姿が、いま復興に向けて懸命に頑張っておられる東北の方々の姿と重なって見えるのです。

『のぼうの城』が、大震災による封切り延期という不運に見舞われた映画であり、主人公の長親が、僅か五百名の手勢で、押し寄せる二万の大軍に立向うという不運にも屈せず、戦い抜いて勝利した人物だからこそ、その成功が、震災で犠牲になられた多くの方々の供養になり、東北の方々への励ましになるのではないかと思うのです。

勿論、この映画は、東日本大震災が起こる前に計画、製作された映画であり、震災を念頭において作られた映画ではありません。

しかし、大震災に見舞われて避難を余儀なくされ、不自由な生活を強いられ、生まれ故郷を離れざるを得ない状況におかれながら、懸命に生きておられる東北の人々や、出口の見えない閉塞感に覆われて青息吐息の状況にある今の日本の姿と、二万の大軍に攻められ、奇跡でも起こらなければ到底勝てる見込みのない戦いに挑んでいった長親の境遇が、余りにもよく似ているため、「これは単なる偶然ではなく、この日の為に作られた映画ではないか」とさえ思えてくるのです。

『のぼうの城』が、千年に一度と言われる東日本大震災に合わせたかのようなこの時期に作られた事自体、奇跡を起した長親と領民たちの奇跡を再現しようとする天地の計らいのように思えて仕方ありません。

このような考えは、余りにも奇想天外で飛躍した考えかも知れませんが、そんな考えにとりつかれるのも、奇想天外な策で、忍城や領民を守り抜いた「のぼう様」の一念が、この映画を通して、私に乗り移っているからかも知れません。

勿論、東日本大震災によって、二万人近い人々の命と、数え切れない方々の生活基盤が失われ、耐え難い苦しみが多くの人々にもたらされた事実は、私達の記憶から消しようがありません。

しかし、「日本の進むべき道ー東日本大震災に学ぶ(1)(2)」でも述べたように、大震災は、ただ禍を運んできただけの疫病神ではないと思います。

天地は、私たちを目覚めさせんがため、一方で厳しい鞭を打たれ、もう一方で救いの御手を差し延べて、東北の復興をはじめ、美しき日本の再生と、先祖から連綿と受け継がれてきた日本人の崇高な精神性を蘇らせる手がかりを用意してくれているのではないでしょうか。

私達が、震災から学ばなければならない事は多々ありますが、もし『のぼうの城』にも、天地の御心が注がれているとすれば、私たちが学ばなければならない天地からのメッセージが、その中に隠されているに違いありません。


やる気を起した人間の底力


最初に述べたように、『のぼうの城』は、和田竜氏の脚本「忍ぶの城」を元に、和田氏自ら書き下ろした小説『のぼうの城』を映画化したものであり、実在の人物が描かれているとはいえ、そこには、物語を盛り上げる為の作者(脚本家)や監督による様々な脚色が為されている事は、言うまでもありません。

しかし、だからと言って、その内容がすべて、私達にとって何の意味も持たない架空の作り話に過ぎないという事にはなりません。

むしろ、そこには、東日本大震災によって大きな被害をこうむった人々を励まし、勇気付け、美しき日本の再生に向けた天地からのメッセージが隠されているのではないでしょうか。

では、私たちが『のぼうの城』から学ばねばならない、天地からのメッセージとは、何か?

この映画の最大の魅力は、何と言っても、「のぼう様」と呼ばれる成田長親のキャラクターの面白さにありますが、その面白さの秘密は、長親が、わずか五百名の手勢で、二万の大軍に立ち向かう決心をし、豊臣軍を打ち負かした事と、無関係ではありません。私たちが、この映画から学ばなければならない事があるとすれば、まさにこの一点にあると言ってもいいでしょう。

農作業が好きな長親は、田圃に出て、農作業を手伝おうとしますが、不器用なため仕事がはかどらず、領民に迷惑ばかりかけている、はた迷惑なお殿様でした。

だからこそ、領民たちは、馬鹿にしたような「のぼう様」の名で長親を呼んでいるのですが、長親は、そんな事を全く気にする様子もなく、むしろ、自分に親しみを持ってくれる領民たちから、そう呼ばれる事を、喜んでいるかのように振舞っています。

領民たちも、そんな長親が大好きで、迷惑をかけられても、まるで駄々っ子を見守る親のような眼差しで、長親のしたいようにさせてくれているのです。

それが、また長親には心地よいのか、領民の迷惑も考えず、農作業を手伝おうとするのですが、領民たちが、長親の好きなようにさせてくれているのは、「あのお方が為さる事だから仕方ないわ」と、領民たちを納得させてしまう不思議な魅力が、長親にあるからなのです。

そして、この不思議な魅力を持つ長親と領民たちとの絆が、いかに深いものであるかを、やがて二万人の豊臣軍が思い知らされる事になるのです。

豊臣軍と対峙し、水攻めの攻撃を受けて、絶体絶命の窮地に立たされようとしている時、物語は、最大の山場を迎えます。

窮地に立たされ、もうこれまでかと、忍城の誰もが思った瞬間、長親は、命がけの奇策に出ます。彼は、水攻めによってすっかり水没してしまった忍城下に小舟を浮かべ、その舟上で、田楽踊り(注2)を始めるのです。

それを見た総大将石田光成は、狙撃兵に、長親めがけて発砲するよう命じます。長親は、九死に一生を得るほどの大怪我をしますが、この策が、長親のためなら命も厭わない家来や領民たちの闘争心に火をつけ、五百名の心は、やる気の塊と化すのです。長親は、誰もが想像さえしなかった奇策によって、家来や領民たちの心を一つにしたのです。

いくら豊臣軍が、連戦連勝の兵揃いと言っても、長親のためなら命も厭わぬ一心で結ばれた長親軍に比べれば、名利出世欲で繋がったただの烏合の衆に過ぎません。

数の上では圧倒的に有利な豊臣軍ですが、本気でやる気に燃え、闘争心の塊となった五百名の長親軍に勝てるほど甘いものではありません。

こうして、わずか五百名の手勢で、二万人の豊臣軍を打ち負かすという奇跡が、起こるべくして起こったのです。

豊臣軍は、やる気の塊と化した人間の底力がいかに凄まじいものであるかを、完膚なきまでに思い知らされるのですが、長親の偉大さは、領民たちのやる気を引き出し、心を一つに束ねる、生まれながらの才能を持っていた事です。

否、もしかすると、それは、才能と言うより、赤子のように、自分のすべてをさらけ出してはばからない長親の人間性そのものに起因するのかも知れませんが、「のぼう様」と呼ばれていた長親の将器を見抜いた者は、それまで家来の中にも領民の中にもいませんでした。

何故なら、忍城がこれほどの苦境に立たされた事は、それまで一度もなかったからです。長親の大将たる器量は、平時には不要のものだったのです。

長親は、有事の時に目覚めてこその将器である事を、この戦を通じて、人々に知らしめたのですが、事ここに至り、長親が、稀に見る将器である事を見抜いた人物が一人いました。それは、豊臣軍の総大将、石田三成と共に派遣された大谷吉継です。

「みろ、兵どもをみろ。敵も味方もあの者に魅せられておる。明らかに将器じゃ。下手に手を出せば、窮地に立たされるは我らの方じゃぞ」

吉継は、こう言って三成を制したものの、三成は、舟上で田楽踊りを舞う長親を撃ち取るよう命じるのです。その時の三成は、この狙撃が、奇跡を起す端緒となろうとは知る由もありません。

やがて、忍城を水攻めする為に作らせた人口堤が破られ、忍城を水没させていた大量の水は、大洪水となって、豊臣軍に襲い掛かり、兵舎を次々となぎ倒していったのです。緒戦の敗戦に続く水攻めでも豊臣軍は敗れ、忍城は、北条方の支城で、唯一落ちない城となったのです。


命懸けの求道者たち


長親と領民たちは、人間が本気でやる気を起した時、人知をはるかに超える奇跡が起きる事を後世に示しましたが、『のぼうの城』を読んで思い出すのは、唐の高僧・鑑真大和尚です。

天平14年(西暦742年)10月、日本から栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)の二人の僧が、揚州の大明寺にいた鑑真和尚のもとを訪れ、弟子を派遣して、日本に正式な戒律を伝えてほしいと懇願します。

和尚は、弟子達に、日本へ戒律を伝えたい者はいないかと問いかけますが、危険を冒してまで行こうとする弟子は一人もいませんでした。

と言うのも、当時の航海術は、今から見れば非常に幼稚で、何度も難破して大勢の人が亡くなるなど、命がけの渡航だったからです。

そこで、和尚自ら海を渡る決意をされ、和尚の決意を聞いた弟子たち21人も随行する事になりました。

しかし、和尚の身を案じる弟子達の妨害もあって、5度の渡航を試みましたが、悉く失敗するのです。

5回目の渡航の際には、極度の疲労から両眼を失明するという、和尚の決意を妨げる最大の試練に見舞われますが、それほどの試練に遭っても、和尚の決意は揺るぎませんでした。

そして、齢68才、6度目の挑戦で、ついに渡航に成功するのですが、57歳で挑戦を始めてから、実に11年目の快挙でした。

まさにやる気の塊、使命感の塊と化した鑑真和尚の偉大さを見る思いがしますが、普通の精神の持ち主なら、恐らく1回の失敗で諦めていたでしょう。どんなに意志の強い人でも、両眼を失明した時点で、間違いなく諦めていたに違いありません。

唐にいれば、高僧として多くの弟子から敬われ、安泰な人生を過ごせた筈のお方であり、失明するほどの苦労をしなくてもいいお方なのですが、鑑真和尚は、何としても戒律を日本に伝えたいと、度重なる試練にも決して屈する事なく、11年の歳月をかけて、見事その一念を成就されたのです。

いかなる試練であっても、本気でやる気を起した人間の一念を打ち砕く事は出来ない事を、鑑真和尚は、身を以て示されましたが、和尚を見ていると、財政危機に陥った米沢藩を立て直した上杉鷹山の歌が浮かんできます。

 為せば成る 為さねば成らぬ何事も
    成らぬは人の 為さぬなりけり

アリスの谷村新司さん作詞・作曲のヒット曲「昴ーすばるー」は、鑑真和尚の苦難の旅をイメージして作られた曲であると聞きましたが、この歌詞を見ると、いつも和尚のご苦労が偲ばれて、目頭が熱くなります。

 目を閉じて何も見えず 哀しくて目を開ければ
  荒野に向かう道より 他(ほか)に見えるものはなし
  嗚呼(ああ)砕け散る 運命(さだめ)の星たちよ
  せめて密(ひそ)やかに この身を照らせよ
  我は行く 蒼白き頬のままで
  我は行く さらば昴よ

 呼吸(いき)をすれば胸の中 凩(こがらし)は吠(な)き続ける
  されど我が胸は熱く 夢を追い続けるなり
  嗚呼さんざめく 名もなき星たちよ
  せめて鮮やかに その身を終われよ
  我も行く 心の命ずるままに
  我も行く さらば昴よ

 嗚呼いつの日か 誰かがこの道を
  嗚呼いつの日か 誰かがこの道を
  我は行く 蒼白き頬のままで
  我は行く さらば昴よ
  我は行く さらば昴よ


やる気に満ち満ちている「法舟桜」


法徳寺の客殿(昇龍閣)の大玄関正面に、法徳寺を施工して下さった奈良県の建設会社会長の奥様が描いて下さった日本画「法舟桜」があります。

この絵を描くため、奥様は、モデルとなる桜を探して、各地を回られました。

山梨県北杜市武川町には、国の天然記念物に指定されている日本最古の桜「神代桜(じんだいざくら)」や、桜並木通りのソメイヨシノがあり、また奈良県吉野町には、有名な千本桜がありますが、どの桜も奥様のイメージには合わなかったそうです。

「法徳寺は、これからどんどん伸びていくお寺ですから、もっと勢いのある桜を描きたいのです。武川町の神代桜も、桜並木通りの桜も、吉野の千本桜も勢いがありません。そんな桜を描いては申し訳ないので、私のイメージで描かせて頂きました」

こうして「法舟桜」は、奥様のイメージで描いて下さった、どこにもない桜絵となりましたが、この絵には、六色の岩絵の具が使われています。

「何故六色なのですか?」とお聞きしたら、「法徳寺のご家族の皆様六人が菩薩様をお守りしている姿を描きたかったので、六色で描きました」と言われたのが、今も深く印象に残っていますが、私は、咲いている無数の花びらや蕾には、私たち家族だけではなく、法徳寺をやる気で支えて下さった皆様一人一人の姿が投影されていると思っています。

奥様を指導しておられる絵の先生が、「プロの眼から見れば、決して上手な絵ではないが、こんな元気な桜の絵は、プロでも描けない。こんな元気な桜は、今まで見たことがない。とくかく元気を貰える桜や。桜の匂いで、虫や蝶が飛んできそうや。みんな、この絵の前で花見がしたいやろうなあ」とおっしゃったそうですが、見ていると、本当に元気が貰えるような気がいたします。

その元気の源は何か言えば、やはり多くの皆様のやる気と、決して諦めない心です。

「法舟桜」は、菩薩様を中心として、その周囲を私たち家族と多くの皆様が取り囲み、菩薩様をお守りしている法徳寺の姿そのものであり、やる気と、決して諦めない心が花開いている姿と言っていいでしょう。

客殿でお勤めをする時、私達は必ず「法舟桜」の前で合掌してから、客殿へ行くのが慣わしですが、毎日この絵を拝まずにいられないのは、この絵が、やる気と諦めない心で法徳寺開創を支え、菩薩様を支えて下さっている皆様を象徴しているからです。

奥様は今まで数多くの日本画を描かれ、その絵は、病院のロビーや会社の応接室など、ご縁ある場所に飾られているそうですが、その中で拝まれている絵は、恐らく「法舟桜」だけではないでしょうか。

拝む絵、拝まれる絵と言えば、すぐに脳裏に浮かぶのは仏画ですが、「法舟桜」は、勿論、桜を描いた絵であり、仏様を描いた仏画ではありません。にも拘らず、「法舟桜」の前で合掌せずにいられないのは、御法歌『無常教える花仏』に、

いのち短き 桜の花も
 可愛い笑顔に 薄化粧
   晴れの振袖 人世に見せて
   咲けと教える 花仏 花仏

と詠われているように、法徳寺を支えて下さった皆様一人一人が、花仏として描かれているからです。

 お金や物を無くす事は、小さく無くす事であり
  信用を無くす事は、大きく無くす事であり
  やる気を無くす事は、すべてを無くす事である。

これは、私がいつも胸に刻んでいる言葉ですが、菩薩様が高野山法徳寺の開創をご計画なさったのは、言うまでもなく、法徳寺の開創を通して一人でも多くの皆様に、やる気を起して頂き、超えた世界を見て頂きたいからです。

そして、ご計画通り高野山法徳寺の開創が実現出来たのは、法縁の皆様一人一人が菩薩様の願いに応えて、やる気を起し、必ず開創出来るという強い信念と、決して諦めない心を持ち続けたからに他なりません。

合掌

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(注1)昭和49年12月1日の『映画の日』に、映画製作者として永年に亘り、わが国映画界の興隆に寄与し、数多くの映画芸術家、技術家等の育成に努めた故城戸四郎氏の「これからの日本映画の振興には、脚本の受けもつ責任が極めて大きい」との持論に基づき、新しい人材を発掘し、その創作活動を奨励することを目的として設立された賞。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注2)平安時代中期に成立した日本の伝統芸能。当時の農村では、田植えや祭りなどのときに田んぼで太鼓に合わせて踊る風習があり、やがてこの舞いを職業とする人々が表われる。
その人々の多くが僧形であったため、彼らは田楽法師と呼ばれたが、白い袴をはき、その上に色のついた上着をはおった田楽法師は、ただ踊るだけではなく、一本の棒にのってピョンピョンはねたり、踊ったりする曲芸を得意とする者もいたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(武川町・神代桜)

 

 

 

 

 

(武川町・桜並木通り)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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