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やる気が人生を変える(2)



努力は報われるか?


平成24(2012)10月28日の読売新聞(日曜版)に、作詞家で、AKBの総合プロデューサーでもある『秋元康の一分後の昔話』というコラムが掲載されていました。

AKB48は、芸能界への高い進学率を誇る女子校のようなものだ。マネージャーは担任の先生であり、振り付け師やレコーディングディレクターやミュージックビデオの監督たちはそれぞれの専門教科の先生である。僕は校長先生ということだろう。

この女子校は、創立されてからまだ7年弱で、教職員一同が手探りで生徒たちの指導に当っている。夢に向かって努力する彼女たちの眼は、どれもキラキラ輝いていて、先生の一言一言を聞き漏らすまいと必死だ。人間、夢を持つと、それまで自分でも気づかなかったような集中力を発揮するものだ。

今の子どもたちに足りないのは、この”努力する理由”である。一生懸命に勉強をしたその先に何があるのか? 僕の甘い考えかもしれないが、みんなが夢を持っていれば、前を向くしか余裕がなくなり、人間関係で悩むことも、”いじめ”もなくなるのではないか? 多少、いざこざがあろうが、同じ場所に夢がある者たちは共通の苦難を助け合い、絆を深めて行く。運命共同体の中でいがみ合っててもしょうがない。

夢を推進力にした場合、一番の問題は「努力は報われるのか?」ということである。多くの夢は、努力によって近づくだろうし、叶うだろう。

しかし、イチローのような野球選手になりたい、村上龍のようなアーティストになりたい、安室奈美恵のような歌手になりたいという夢を持った人の努力は、必ず、報われるのだろうか? そこは、努力だけでは行けない領域。努力、才能、運が集まった場所なのだ。

では、努力は必ずしも報われないのか? そう考えてしまう人は、夢を叶えることはできないだろう。夢は、努力、才能、運が集まった場所にあるのだ。努力なしで、才能と運だけでは到達しない。

「あきらめるな」。大人たちは、簡単にそう叱咤激励するが、彼女たちはみんな不安になる。AKB48グループに臨床心理士やスクールカウンセラーが常駐するのは、その不安の声を聞くためである。選抜に入れないと努力をしていることが無意味に思えて来るのだ。

自分に才能があるのだろうか? AKB48のメンバーにそう聞かれる度に、僕はこう答えている。「必ず、何かの才能がある。それが何なのかを探す努力をしよう」。野球で言えば、ピッチャーを目指していた人間が、実は打撃の方が向いていたなんてことはよくあることだ。

若者よ、じたばたしなさい。もがきなさい。あきらめない努力をするうちに、自分の本当の才能が開花し、運も巡って来る。


イチロー選手は天才か?


このコラムを読んでいて思いだしたのは、イチロー選手の言葉です。

イチロー選手と言えば、メジャーリーグの年間安打記録(257本)を84年ぶりに更新する262安打を打ったり、日本プロ野球選手経験者として史上初となる日米通算3500安打を記録したり、大リーグ史上初となる10年連続200本安打の快挙を達成したり、タイ・カッブが持つ通算7回の210安打の記録を87年ぶりに更新する通算8回目の210本安打を記録したり、守備や走塁においても輝かしい成績を残すなど、まさに「走攻守三拍子」揃ったオールラウンドプレイヤーとして高い評価を受けていますが、これらの輝かしい成績が、イチロー選手の持って生まれた天賦の才能に負うものである事は言うまでもないでしょう。

しかし、秋元氏も書いておられるように、プロ野球の大記録を次々と塗り替えたイチロー選手と雖も、天賦の才能だけでは、ここまでの名選手にはなれなかったでしょう。それを物語っているのが、イチロー選手の次の言葉です。

努力せずに何かできるようになる人のことを天才というのなら、僕はそうじゃない。努力した結果、何かができるようになる人のことを天才というなら、僕はそうだと思う。

この言葉には、天賦の才能と言う原石を、そのまま埋もれさせる事なく、人より何倍も何倍も努力して輝かしい宝石にまで磨き上げた、イチロー選手の誇りと自信がにじみ出ていますが、イチロー選手と同じ事を言っている人がもう一人います。それは、世界の発明王と言われるトーマス・エジソンです。

天才とは、1パーセントのひらめきと、99パーセントの汗(努力)である。

エジソンが言った「1パーセントのひらめきと、99パーセントの汗(努力)」とは、天才的な1パーセントのひらめきが先にあり、そのひらめきを形にする為に99パーセントの努力が必要だという意味ではなく、「99パーセントの努力をした結果、そこに天才的な1パーセントのひらめきが生まれるのだ。努力なくして、天才的なひらめきは生まれない」という意味だと、私は思います。

つまり、いかなる天賦の才能に恵まれていても、そこに、人の何倍もの努力を積み重ねなければ、才能は花開かないのです。

しかも、秋元氏がおっしゃっておられるように、その努力が必ずしも報われるとは限りません。そこは、もはや努力だけでは到達できない領域であり、才能や運と言った努力以外の様々な条件がものをいう世界なのかも知れません。

勿論、才能も努力の内であり、運を引き寄せるのも努力であるとすれば、才能も運も、努力なくしては開かないでしょうが、問題は、努力しても報われない場合です。

このような場合、大多数の人々は、夢を諦めたり、人生に絶望したり、悲観したりするのでしょうが、イチロー選手は、次のように述べています。

結果が出ないとき、どういう自分でいられるか。決してあきらめない姿勢が、何かを生み出すきっかけをつくる。

私達は、努力すれば必ず結果が付いて来ると思い勝ちですが、必ずしもそうとは限りません。いくら努力しても、良い成績が残せない時もあれば、報われない時もあるのです。スポーツ選手の誰もが経験するスランプもその一つでしょうが、これは何も、スポーツ選手に限らず、私達の人生という大舞台においても、必ずスランプという大波が押し寄せてきます。

その時、どういう自分でいられるか。努力しても結果が出ない時、報われない時、どういう自分でいられるか。そこで諦めてしまうか。それとも踏ん張って乗り越えるか。

もし、そこで何かを生み出せる力があるとすれば、それは才能でも運でもないと私は思います。そこでものを言うのは、やはり諦めない心であり、いかなる試練にも負けないやる気なのです。

懸命に努力しているのに、自分の思う様な結果が出ないと、誰でも不安になったり、投げやりになったりします。しかし、そこで諦めるか、踏ん張るか、まだ努力が足りないんだと自らに言い聞かせて鼓舞するか。勝者と敗者を分けるのは、まさにその瞬間ではないでしょうか。

そこで挫折するのではなく、更に努力を重ねて試練を乗り越えて行けば、必ずその先に光が見えてきます。光が見えてこなければ、まだ努力が足りないと自らを鼓舞し、更に努力を重ねてゆけばいいのです。

と言うより、光が見えてくるまで、努力を怠ってはいけないのです。何故なら、その試練は、イチロー選手が言っているように、あなたを飛躍させる為に与えられた試練に違いないからです。

苦悩というのは、前進したいという思いがあって、それを乗り越えられる可能性のある人にしか訪れない。だから苦悩とは飛躍なんです。(イチロー選手)


やる気を問われた托鉢


以前、四国八十八ヶ所霊場へお遍路修行に行った時の拙い体験をお話しましょう。

四国へ渡る前、お大師様に、二つのお誓いをしていきました。一つは、歩いて四国をお遍路すること、もう一つは、托鉢しながらお遍路することです。

托鉢とは、ご存知のように、門にたってお経を唱えながら、家々を廻る修行ですが、目的は、布施を頂くことではありません。それは、乞食であって、托鉢ではありません。托鉢の目的は、そのお家の方に、布施行を通して、功徳を積んで頂くことです。

意気揚々と四国に渡った私でしたが、それまで托鉢した経験が二度ありました。紀州高野山の専修学院で修行している時、集団托鉢と言って、学院生が4、5人のグループに分かれて、高野山の麓にある九度山(くどやま)という所で托鉢をするのです。

しかし、これは、毎年恒例の行事で、地元の皆さんも、私達が来ることをご存知なので、お布施を用意して待っていて下さるのです。つまり、托鉢と言っても、決められた所へ行って、決められた通りのことをするだけの、名ばかりの托鉢に過ぎません。

ですから、一人で門に立つ托鉢は、四国霊場が初めてだった訳ですが、九度山での体験がありましたので、簡単に出来るだろうと高をくくっていたのです。

ところが、いざ托鉢しようとすると、人の家の前に立つ事に凄く抵抗感があり、中々立てないのです。自分でも以外でした。「こんな筈ではなかったのに!」と思いなおし、立とうとするのですが、やはり立てないのです。

4、5人の学院生と一緒に行った九度山の托鉢とは、明らかに違っていました。要するに、色々な思いが次から次へと湧き起こり、どうしても立てないのです。

托鉢しようと思い、家の前までいくと、中から、人が出てくる気配がします。そうすると、「恥ずかしい。格好悪いなあ…」等々、様々な思いが次々と湧き起こり、もう托鉢どころではありません。

思いなおして、次の家に行き、立とうとするのですが、前方から誰かが歩いてくる人影が見えると、「あの人は、私の姿を見てどう思うだろう」とか、有ること無いことを次々に考え始めるのです。

そうすると、誰も見ていないのに、誰かに見られているような気持ちになってくるから、人間の心とは、本当に不思議なものです。

しかし、お大師様にお誓いしてきた以上、このまま、すごすごと帰る訳にはいきません。「勇気を奮い起こさなければ駄目だ。恥も外聞も世間体も名誉も、何もかも捨てなければ駄目だ」と言い聞かせて、門に立とうとするのですが、いざ立とうとすると、やはり色々な思いが湧いてきて、どうしても立てないのです。

そんな事を何度繰り返したでしょうか。時間だけがどんどん経過していき、私はもう、くたくたに疲れ果ててしまいました。

ところが、ある瞬間から、今までどうしても出来なかった托鉢が、いとも簡単に出来るようになったのです。「地位も名誉も、恥も外聞も世間体も、何もかも捨てなければ駄目だ」と、何度言い聞かせても、出来なかった托鉢が、いとも簡単に出来るようになったのです。

自分でも不思議でしたが、私は、大道の真ん中に立って、大勢の人が見ている前で、平然と托鉢していたのです。


「よし、やろう」ー 捨てたものが何もない?


一体、私の身に何が起こったのか? いままで出来なかった托鉢が、何故いとも簡単に出来るようになったのか?

皆さんは、「きっと勇気を振り絞ったのだろう」「使命に目覚めたのだろう」「何か衝撃的な出来事が起こったに違いない」…とお考えになるかも知れませんが、残念ながら、勇気が湧いてきた訳でも、使命感に目覚めた訳でも、衝撃的な出来事が起こった訳でもありません。

それまでの私は、「恥も外聞も世間体も地位も名誉も何もかも捨てなければ托鉢できない」と考え、それらを捨てようと必死にもがいていたのですが、どうしても捨てる事が出来ませんでした。

ところが、ある瞬間から、いとも簡単に托鉢出来るようになったのです。皆さんは、何が私の身に起こったと思われますか?

何も起こりません。ただ、ある思いが湧いてきたのです。

「よし、やろう」

それだけです。たったそれだけの思いで、いとも簡単に托鉢が出来たのです。不思議でした。夢でも見ているのではないか? 狐に摘まれているのではないか? そんな不思議な感覚でしたが、それだけの思いで、托鉢出来てしまったのです。

これをご覧の皆さんも、狐に摘まれたような錯覚を覚えておられるんじゃないかと思いますが、お疑いなら、是非一度やってみて下さい。「よし、やろう」と思うだけで出来ますから(笑)。

そして、いざ門に立ってみると、不思議な事に気付いたのです。

今まで捨てなければいけないと考えていた、地位も名誉も世間体も恥も外聞も、何も捨てていないのに、托鉢が出来ていたのです。

恥ずかしいとか、格好悪いとか、様々な思いが邪魔をして托鉢出来なかったのですが、いざ托鉢してみると、恥ずかしいという思いも、格好悪いという思いも、様々な思いも、何も捨てていないのです。にも拘らず、托鉢出来ていたのです。

最初は、不思議だな〜と思いました。しかし、よくよく考えてみれば、不思議でも何でもなかったのです。

要するに、恥ずかしいとか、格好悪いとか、地位や名誉、世間体、恥、外聞などというものは、元々どこにも存在しなかったのです。つまり私は、元々ありもしないものを勝手に心で思い描き、妄想して、その妄想にがんじがらめに縛られて、自らの手で、身動きできない状態にしていただけだったのです。

一方で妄想を作り、もう一方で、その妄想を捨てようとしていた訳ですから、捨てられる筈がありません。捨てるのではなく、ただ、妄想を作りさえしなければ、よかったのです。

「よし、やろう」と思った瞬間、托鉢が出来たのは、今まで自分を縛っていた妄想がすっかり消えて、何ものにも縛られない本来の自分に戻れたからではないでしょうか。

「よし、やろう」

たったそれだけの思いに過ぎませんが、「よし、やろう」というやる気を起すことがいかに大切かを、身を以て痛感した遍路修行でした。


自分を救うものは自分しかいない


やる気を起すことの大切さは、勿論、托鉢に限ったことではありません。

アメリカの「鋼鉄王」と呼ばれたアンドリュー・カーネギーが、

自らを助けない者を救おうとしても、無駄である。ハシゴを自分で登る意志のないものを他人が押し上げることはできない。

と言っていますが、カーネギーの言葉は、人生をいかに生きるか、生きるべきかを考える上で、人生百般に通じる真理ではないかと思います。勿論、信仰の世界においても、この真理は、まったく変わりません。

信仰の世界で「やる気」と言えば、「救われたいと強く願う心」ですが、幾らその人を救おうとしても、その人自身が、救われたいという心を強く持たなければ、救う事は難しいのです。

お釈迦様は、「縁なき衆生は度し難し」とおっしゃっておられますが、せっかく尊い仏縁を頂いても、救われたいと強く願う心を起し、その思いを保ち続けなければ、残念ながら、縁なき衆生の一人に入ってしまうのです。

世間にはよく「信仰しているのに、少しも救われない。神も仏もないのか」とおっしゃる方がいますが、そうではないと思います。

やはりその人の救いを求める心が、まだ神仏に届いていないのです。ただ、形だけの信仰をしているだけで、やる気が伴っていないのです。


やる気の本気度


山梨へ来る以前、奈良県桜井市にある寺院の住職をしていた私は、同じ市内にある某寺院の副住職に、「お父さんが色々教えて下さるから、よろしいですね?」とお聞きしたことがあります。

すると、「いいえ、父からは何も教えてくれないのです。私が聞いたことには、ちゃんと答えてくれるのですが、聞かなければ、何も教えてくれません」という答えが返ってきて、「なるほど」と感心したことがあります。

何故なら、菩薩様も彼の父親と同じだったからです。私が聞けば何でも教えてくれましたが、菩薩様の方から、手取り足取り教えて下さった事は一度もありませんでした。

やる気を起していない者に、いくら法を伝えようとしても、反発するだけで、法は入りません。そんな人間に、いくら手取り足取り教えても、身に付かないことを菩薩様は、分っていたのです。

結局、人間は、やる気を起して取り組んだもの以外は、身に付かないし、実現出来ないのです。いくら夢を思い描いても、思い描いているだけでは、前に進めません。

自分が、「よし、やろう」という気持ちを起こし、気合を入れてエンジンをかけなければ、自動車は、夢に向かってスタートしてくれないのです。夢を実現しようと思えば、「よし、やろう」と、エンジンキーを回し、エンジンを始動させなければなりません。

しかし、一つだけ忘れてはならないことがあります。それは、いくらやる気を起しても、そのやる気が遊び半分であったり、中途半端であったりすれは、自分が思うような成果は得られないということです。

大切なのは、やる気の本気度です。人生が開けるか否かは、やる気の本気度次第と言っても過言ではないでしょう。

先ほど、「よし、やろう」と思っただけで、いとも簡単に托鉢出来るようになったというお話をしましたが、勿論、その言葉に嘘偽りはありません。

しかし、大切なのは、「よし、やろう」というやる気の中味です。私が托鉢出来たのは、ただ何となく「よし、やろう」と思ったからではありません。真剣に「よし、やろう」と思ったからであり、「よし、やろう」という思いが本気だったから、托鉢出来たのです。

もし「よし、やろう」という思いが本気でなければ、多分托鉢出来ていなかっただろうと、今でも思います。心の底から本気で「よし、やろう」と思えば、叶わない事など何もないのです。

合掌

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