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しあわせさがしー青い鳥の行方(3)



大石順教尼の苦難の生涯


一人目は、両腕のない尼僧として有名な大石順教尼です。

明治38年(1905)6月21日、大阪堀江の遊郭「山海楼」の主人、中川万次郎が、お愛という後妻が万次郎の甥と駆け落ちした事に腹を立てて逆上し、逃げたお愛の母親のお駒、20歳になるお愛の弟の安次郎、14歳になる妹のおすみ、そして養女にしていた芸妓の梅吉、おきぬ、妻吉の6人に次々と斬りかかり、5人を惨殺するという痛ましい事件が起こりました。

「大阪堀江の六人斬り事件」と言われる事件ですが、この時、両腕を斬りおとされながらも、一命を取り留めた芸妓が、当時17歳の妻吉でした。

妻吉こと大石よねは、明治21年(1888)3月4日、大阪の道頓堀に生まれ、12歳で京舞の名取となり、その才能を見込まれて、15歳の時、中川万次郎の養女となりました。「妻吉」と名を改めて芸妓の道に精進していましたが、この事件に巻き込まれて両腕を失い、17歳の若さで、この世の生き地獄に突き落とされたのです。

事件を起した中川万次郎は、元は犬養欣也という、尾張徳川家のお殿様お気に入りの小姓でしたが、浮橋という10歳年上の奥女中と深い仲になり、その事がお殿様に発覚してお手打ちになるところを、お殿様の計らいで許され、おひまを出されます。

放浪の旅に出た二人は、やがて別れ、一人で大阪に出てきた欣也が堀江の山海楼で遊んでいるところを、山海楼の一人娘、お八重の眼にとまり、欣也にほれ込んだお八重のたっての願いで、二人は夫婦になります。

欣也は中川家の養子となり、この時から中川万次郎と名乗るのですが、浮橋の亡霊にでも取り付かれたかのように、八重がおかしくなってゆき、やがて万次郎は、おすえという後妻をもらいます。

平凡な夫婦生活が始まりますが、恋多き万次郎は、第三の妻となるお愛と恋愛関係になり、二人の間に女の子が生まれます。これを好機とばかり、お愛は自分を本妻にするよう万次郎に迫り、万次郎はやむなくおすえと別れ、お愛を本妻にするのですが、お愛は多情な女で、店に来る若い男と仲良くなり、武士上がりの万次郎は、嫉妬心に燃えるようになります。

やがてお愛は、万次郎の甥をそそのかし、二人で駆け落ちをしてしまいますが、武士上がりの万次郎は、自尊心を傷つけられた事がどうしても許せず、ついに6月21日未明、山海楼にいた6人に斬りかかり、5人を惨殺するという大事件を引き起こすのです。

こうして、突然の悲劇に見舞われながら、ただ一人生き残った妻吉の苦難の人生が始まったのですが、両腕を失った妻吉には、舞を踊る両手がありません。国による生活保障もない時代に、両手を失った17歳の少女が生きる道といえば、見世物芸人くらいしかありませんでした。そこで妻吉は、やむなく、三遊亭金馬の一座に入り、「松川屋妻吉」と名乗って、不具の身である自分の姿を見世物にしながら、寄席や地方巡業で生計を立てていたのです。

ところが、ある日、巡業先の仙台で、鳥篭の中のカナリヤが、口で雛に餌を運んでいる姿を見て心を打たれ、自らも筆を口にくわえて書画を書くようになります。
 (大石順教尼)
  くちに筆 とりて書けよと教えたる
    鳥こそわれの 師にてありけれ
  学ばざる 身なれど文字を書くという
    そのよろこびを くちに筆かむ

明治45年(1912)、日本画家、山口草平と結婚して一男一女の母となりますが、その後、協議離婚し、「堀江六人斬り事件」の犠牲者の冥福を祈るため仏道生活に入り、昭和8年、紀州高野山で出家得度して、名を「順教」と改め、自分と同じように身体に障害を持つ人々の救済に、その生涯を捧げました。
 (大石順教尼)
  つみふかく あわす手もなき身をもちて
    大師のみ子と なるぞ嬉しき

身体障害者の心の母となり、慈母観音と慕われた大石順教尼ですが、書画の道でも日展に入選するなど、その才能を発揮し、昭和37年(1962)には、日本人として初めて世界身体障害者芸術協会の会員に選ばれました。

そして、昭和43年(1968)4月21日、障害者の救済道場として自らが開創した京都市山科の仏光院において、波乱に満ちた81年の生涯を閉じたのであります。
 (大石順教尼)
  何事も なせばなるちょう言の葉を
    胸にきざみて 生きて来し我れ


中村久子さんの無手無足の人生


二人目は、中村久子さんです。

中村久子さんは明治30(1897)年11月25日、畳職人の釜鳴栄太郎、あや夫妻の長女として飛騨の高山に生まれました。

大石順教尼は、両手を斬りおとされましたが、中村久子さんは、2歳の時に、足のしもやけがもとで突発性脱疽(とっぱつせいだっそ)という病気に侵され、両手両足を失くします。

突発性脱疽は、凍傷がもとで両手両足が壊死して腐っていく病気で、放置しておくと、どんどん広がってゆき、命を救うためには、切り落とすしか方法がありません。お医者さんから「両足とも切断手術をしなければなりません。しかし、幼い子供のことだから、生命の点は保証できません」と宣告されたご両親の悲嘆は、想像に余りあります。何度も親族会議を開いて相談はするものの、結婚して11年目に授かった可愛い娘の両手両足を切り落とす決断など出来る筈がありません。

しかし、そうこうする内にも病状は悪化の一途をたどり、足から手、手からまた足へと感染していく余りの速さに、お医者さんも手の施しようがありませんでした。

ある日、けたたましく泣き叫ぶ久子さんの声に驚いた母が台所から駆けつけると、左手首が包帯ごと、もげ落ちていました。そして、その月のうちに、右手は手首から、左足は膝とかかとの中間から、右足はかかとから、切断されてしまったのです。

こうして、久子さんは、命こそ助かったものの、3歳にして、両手両足を失うという、絶句するようなこの世の生き地獄に突き落とされたのです。しかし、久子さんの本当の試練は、ここから始まったと言ってもいいでしょう。

7歳の夏には、それまで人一倍可愛がってくれていた父が39歳の若さで急死した為、8歳の秋、母あやは再婚を決意します。病気治療の為に出来た多くの借金と、手足の無い久子さん、そしてまだ幼い弟の栄三を抱えての生活は、女手ひとつでは不可能だったのです。

相手は、亡き夫と同じ畳職人の藤田という人でしたが、藤田家にも、先妻の残した二人の子供がいたため、5歳下の弟は、亡き夫の生家(畦畑家)に預けられ、母は久子さんだけを連れて嫁がざるを得ませんでした。

しかし、障害者に対する偏見の強い時代ですから、再婚先からは温かく迎えてもらえず、久子さんは、肩身の狭い思いをして暮らさなければなりませんでした。

一番辛かったのは、一人でお便所に行けない事で、母が来るまで3時間でも5時間でも辛抱して待っていなければなりませんでした。晩年、久子さんは、「あの時のおかげで、今日旅先で、何時間でもトイレを辛抱することができるようになりました」と述懐しておられますが、8歳そこそこの年齢でよく辛抱されたと、頭が下がる思いです。

9歳の時には一時失明し、眼の見えない久子さんをかかえて困窮した上に、弟の世話をしてくれていた亡き夫の生家(畦畑家)の叔母が3人の子を残して亡くなったため、弟の栄三はやむなく岐阜加納育児院へ引き取られる事になり、ただ一人の弟とも生き別れしなければなりませんでした。

そんな中、祖父母ゆきと母あやは、手足のない久子さんを、何としても一人で生きていける子に育てなければいけないと、心を鬼にして、厳しい躾をするようになります。

 その厳しい躾のお陰で、久子さんは食事、トイレ、風呂といった身の回りの事は勿論、裁縫や編み物、炊事、洗濯といった事まで自分で出来るようになりました。

その当時(大正初期)でも、生活困窮者や肢体不自由者には国から最低生活が保障されていましたが、久子さんは、何年このような支給を受ければ自活できるかの目途もたたない上に、世の中のために何一つ役に立っていない自分が、お国のお金を頂くのは申し訳ない、手足がなくても生きている以上は、自分で働いて生き抜こう、と決心され、保障を受けませんでした。

久子さんは「運命はみずから開拓す」という言葉を心に刻み、たとえ手足がなくても、人間としてのいのちを頂いたからには、どんなに世間が冷たくても、頂いたいのちを生き抜く事を、自らに誓っていたのです。

その後、見世物小屋で働き始めた時も、「恩恵にすがって生きれば甘えから抜け出せない。一人で生きてゆこう」と、国の障害者制度による保障を受けようとはせず、自分で出来る事は自分でしなければいけないというその自立精神は、生涯を貫いて変わることはありませんでした。

しかし、そうは言っても、無手無足の久子さんが、誰にも頼らずに一人で生きていけるほど、世間は甘くありません。亡き父の友人の助言もあり、久子さんは悩みぬいた末に、見世物芸人として生きる決心をするのです。

当時、見世物芸人の世界は、生まれつき体に障害を持った人や、社会から受け入れられなかった人の集まりで、白い眼で見られていた時代ですから、相当な覚悟がいったでしょうが、久子さんには、この道しか生きる道はなかったのです。

大正5年11月16日、久子さんは、見世物芸人になるため、高山をあとにし、大正5年12月1日、「だるま娘」の看板で、名古屋大須の見せ物小屋で働くようになります。両手のない体で、口に針をくわえて裁縫や編み物をしたり、筆をくわえて字を書いたりする芸を披露して、忽ち人気者になっていきました。

ある日のこと、久子さんが舞台に上がっていると、客席から、「これを書いて下さい」という声がかかり、見ると、二十歳前後の青年が「精神一到何事不成」(注1)と書いた紙を持っていました。その青年こそ、後に書道の大家といわれる沖六鳳(おきろっぽう)の若き日の姿で、翌日から、この青年が久子さんに書の手ほどきをしてくれる事になりました。

この時、若き日の沖六鳳がいった「見世物小屋の芸人であっても、人生の泥沼に染まってはいけません。人間としての自分を磨き、”泥中の蓮”にならなければいけません」という言葉は、のちの久子さんに大きな影響を与え、苦難にあうたびに、心を慰められ、励ましてくれたのであります。沖六鳳との交流は、その後も途絶えることなく、久子さんが亡くなるまで続けられました。

こうして、人気者となった久子さんは、全国各地を巡業してあるくようになりますが、巡業先は、日本国内にとどまらず、遠く朝鮮、台湾、満州にまでも及びました。

しかし、いくら人気を博しても、不具の体を人前に晒して糧を得る生き方に変わりはなく、自立する事は出来ても、彼女にとって、決して生きがいのある人生ではありませんでした。

そんな久子さんに追い討ちをかけるかのように、過酷な試練は容赦なく襲いかかり、大正9年5月には弟の栄三(19歳)を、8月には母あやを相次いで亡くします。

大正10年、中谷雄三(なかたにゆうぞう)氏と結婚し、翌年長女・美智子さんが産まれますが、大正12年9月には祖母ゆきが、そして9月25日には夫の雄三が30歳の若さで相次いで亡くなります。

しかし、残された娘を育ててゆかねばならない無手無足の久子さんには、悲しんでいる暇などありません。障害を持った女性が生きる道は、見世物芸人しかなく、興行先との掛け合いから小屋掛けに至るまで、男手がなければ何も出来ない久子さんは、大正12年11月、周囲の勧めもあり二人目の夫となる進士由太(しんしよした)氏との再婚を決意します。

翌年8月、次女富子さんが生まれますが、ようやく軌道に乗りかけたと思ったのも束の間、2年後の大正14年10月24日、再婚した夫が急性脳膜炎で35歳の若さで急死するのです。五体満足の人でも、二人の幼児を抱えた女性が生きていくのは大変な時代に、無手無足の久子さんは、頼りとしていた夫の突然の死という試練に再び直面したのです。

いつまでも浮き草のような芸人生活をしていては子供達の将来によくないと考えた久子さんは、定住するために職を求めて歩き回りましたが、手足の無い、子供をかかえた女性が働くところなどあろう筈がありません。重い障害を持った者には、働く場所を確保することさえ難しい時代だったのです。

やはり、久子さんが生きる道は、見世物芸人しかなく、再び巡業の旅に出ますが、久子さんに同行してくれたのは、定兼俊夫(さだかねとしお)という人でした。

ところが、定兼の妻が、巡業中に二人の子を残して急死したため、妻を亡くした男と、夫を亡くした久子さんは、いつしか心を寄せ合うようになります。二人の夫を見送った久子さんは、再婚をためらいますが、見世物芸人として生きていくためには男手が欠かせす、久子さんは悩んだ末に、大正15年、三人目の夫となる定兼俊夫氏と再婚します。

しかし、定兼は、お酒と勝負事と女遊びが三度の飯より好きな人で、昭和2年4月、興行先の台湾で三女の妙子さんが生まれますが、夫の遊興癖は一向に治まりませんでした。

翌年、まだ1歳にもならない妙子さんが、はしかに罹って急死するという悲しみに遭遇し、二人の夫の死につぐ可愛い娘の死に、久子さんは大きな悲しみとショックを受けます。

昭和4年夏、子供の将来を考えて定住する事を決意し、仕立物をしながら姫路市の借家に住んでいた久子さんは、『キング』という雑誌に載っている記事に釘付けになりました。

そこには、重度の障害で寝たきり状態でありながら、神戸女学院の購買部を立派にきりもりして自立している座古愛子さん(注2)の事が紹介されていました。久子さんは、その時受けた感銘を、『こころの手足』の中で、次のように書いています。

結婚されず、もちろんお子様もない。ほんとうの一人ぼっち。それなのにあの神々しいまでのお顔は一体どうされたことだろう。どこから何を得られたのだろう。お別れする時、私のためにお祈りして下さった、泣きながら真心こめて……。

座古さんと私とどちらが不幸なのだろう? 結婚生活は決して仕合せではなかった。しかし夫が居る。子等も二人ある。不自由な体とはいえ行きたい所へ行くこともできる。一体自分は何が不足なのか? 手足は無くとも、どうにか一人の女として育てて下さった親があったお陰ではないか。一寸も自分で動けぬお体であっても、親に一言の御不平もおっしゃらず、他人の幸福を神様に祈って下さるそのことを思ったら、私は何という罰当りではないだろうか?

それまでの久子さんは、無手無足のわが身を見る度に、両親を恨み、わが身を呪い、世を呪って生きていました。しかし、自分よりも大きなハンディを背負いながら、自分を産み、生かし、育てて下さった両親や、神と周囲の人々への感謝の気持ちをもって生きている座古愛子さんの神々しい姿に触れ、どちらが本当に不幸なのだろうと、自問自答され、それまで抱いていた母親への間違った思いを懺悔し、悔い改められたのです。久子さん、33歳での大きな転機となった出会いでした。

手足のないわたしが、今日まで生きられたのは、母のお陰です。生きて来たのではない、生かされて来たのだと、ただただ合掌あるのみです。

この言葉は、自分よりも不幸な身にありながら両親への感謝を忘れない座古愛子さんとの出会いによって、心の眼を覚醒させられた久子さんの嘘偽りのない心が、そのまま表現された言葉ではないでしょうか。

しかし、再婚した夫の不身持ちが一向におさまる気配がないため、久子さんは、昭和8年秋、やむなく7年間暮らしを共にした夫との離婚を決意します。そして、昭和9年、四人目となる9歳年下の中村敏男氏と再婚し、ようやく安住の地を見出されたのでした。

二人の子供の行く末を案じた久子さんは、再び見世物芸人の生活に終止符を打とうと決心し、親子四人つつましく暮らしていましたが、そんな時、出会ったのが、無我愛の提唱者、伊藤証信師とあきこ夫人でした。

ご夫妻の尽力で久子さんの後援会が作られ、生活は決して楽ではありませんでしたが、後援会から毎月送られてくる援助金の助けもあって、何とか食いつないでいました。

しかし、それまで自分の力で働き自立して生きてきた久子さんにとって、自分の為に作って頂いた後援会とはいえ、人様の恵みを頂いて生きる事は心苦しいものでした。

久子さんは、悩みぬいた末、「どんなに逃げても、やらなければならないご縁のある内はやめることはできない。やめろと仏様がおっしゃるまでお任せすればよい。もしその日がこなければ、いつまでも芸人をやればよい。すべて仏様にお任せしよう」という心境に到達され、後援会を解散して頂いたあと、再び見世物芸人の道に戻る決心をするのです。

昭和12年の四月、東京日比谷公会堂において、来日したヘレンケラー女史(注3)と出会い、自ら口を使って作った日本人形を贈りますが、ヘレンは、久子さんの全身を指先で触れていき、久子さんの足に付けられた冷たい義足に触れた瞬間、久子さんの足元に崩れ落ち、涙を流しながら彼女を抱きしめ、「私を世界の人たちは奇跡の人と言うけれど、あなたこそ、真の奇跡の人です」「私よりも不幸な人。そして私より偉大な人」と言って賞賛しました。その後、ヘレンケラー女史は二度来日しますが、久子さんはその都度ヘレンケラーと再会され、自ら作った日本人形を贈られました。

昭和17年1月、45歳になった久子さんは、26年間も続いた見せ物芸人の生活に終止符を打たれ、72歳で亡くなる直前まで、夫と次女の富子さんと共に、全国各地で講演活動を続けながら、自らの数奇な人生を語り続け、多くの人々の心に生きる勇気と感動の火を灯し続けました。

講演では、自分の体について恨み言は一言も言わず、「無手無足は、み仏より賜った身体、生かされている喜びと尊さを感じます」と語り、障害のおかげで強く生きられる機会を貰った事への感謝の言葉を連ね、「人間は肉体のみで生きるのではなく、心で生きるのです」と語り、多くの人々に感銘を与えました。

そして、72歳になった1968年(昭和43年)3月19日、脳溢血により高山市の自宅で、波乱に満ちた生涯に幕を閉じられたのであります。

 さきの世に いかなる罪を犯せしや
    拝む手のなき 我は悲しき
  手はなくも 足はなくともみ仏の
    慈悲にくるまる 身は安きかな

悲劇(否定)から救い(肯定)へ


三人目は、義手の詩人、画家として活躍しておられる大野勝彦氏です。

大野氏は、高校卒業後、家業のハウス園芸を営んでいましたが、平成元年(1989年)7月22日、45歳の時に、トラクターを掃除中に右手を巻き込まれ、それを取ろうとした左手も巻き込まれて、両手とも切断するという悲劇に見舞われます。

失意のどん底に突き落とされ、事故の直後は、「もう生きていてもしょうがない」と自暴自棄になったり、「もしも機械を動かしていなければ」「もしも、手などいれていなければ」と後悔の念にさいなまれましたが、体の一部となる義手と出会い、不屈の精神と、ご家族や友人や多くの人々に支えられて、越えがたき試練を乗り越え、詩人、画家としての才能を開花させ、ついに自分の美術館(風の丘 阿蘇大野勝彦美術館)を作る夢まで叶えられました。

以前、中日新聞の「ぺーぱーナイフ」というコラムに、次のような一文が、掲載されていました。

「両手を奪われて失ったものよりも、得たもののほうがはるかに大きくて、重い」

五百人のひとみが、壇上の大野勝彦さんに吸い寄せられた。重苦しい雰囲気はこれっぽっちもない。むしろ、さわやかな明るい空気に満ちていた。

大野さんは熊本県菊陽町在住。十年前に、誤って両腕を農作業機に巻き込んだ。それも、両親の目の前で。絶望はしたが、それを乗り越えた。

否定から肯定に。手を失ったことを、素直に受け入れることで人生が変わった。今では「手がなくて不自由した覚えは、まったくない」と、こともなげに言ってのける。

あるがままをすべて受け入れることは、簡単なようでものすごく難しい。つらいことから目を背け、気にくわないことは受け入れたくないというのが、人間というもの。

でもそこで踏みとどまって、発想を転換する。それを「すごい」と思わせないさりげなさが“すてきな生き方”につながる。

幸せになりたい。だれもが望むところだ。大野さんの秘けつは「前を向いていると、すてきなことがどんどん舞い込んでくる」。こちらはというと、小さな失敗にくよくよし、小さな成功にほくそ笑む。

幸せって、もっと単純で簡単に手の届くところにあるのかもしれない。大野さんは、こう締めくくった。

「幸せは、気付いたときから始まる。本当の幸せは、さよならのあとに気付くもの…」

視線の向こうで、大野さんが笑っていた。

今では「手を切ってよかったと思っています」と、行く先々の講演会場で話しておられる大野氏ですが、そう言い切れるのは、「両腕を失ったのは、不幸のどん底に突き落とすためではなく、真の幸せとは何かを教え、その真相を一人でも多くの人々に伝えさせるためだ」という、自らの使命に目覚められたからではないでしょうか。


自分ほど幸せな人間はいない


この他にも、頚椎損傷によって手足の自由を失いながら、口で筆をとって詩を書き、絵を描いて、多くの人々に感動を与えておられる星野富広氏や、交通事故によって頚椎を損傷し半身不随となりながらも自立し、頚椎損傷者や多くの障害者の支援に生涯を捧げられた向坊弘道氏(平成18年5月14日死去)のような方々が大勢おられますが、生き地獄のような逆境に突き落とされたこれらの方々に共通している点が一つあります。

それは、「自分ほど幸せな人間はいない。障害を負ってよかった」と言い切っておられる事です。

五体満足な人間が、「私は幸せです」と言うのであれば分りますが、両手や両足を失い、体の自由を失って、この世の生き地獄に突き落とされた方々の口から、「私は幸せです」という言葉が出てきたのです。

実は、この方々と同じ事を仰ったお方が、もう一人おられます。それは、菩薩様です。菩薩様も、この世の生き地獄のような代受苦行の真っ只中で、「有り難い」と仰ったのです。

ふつう「有り難い」とか「幸せ」という言葉は、すべて自分の思い通りになっている時に出てくる言葉です。ところが、菩薩様は、人生で最も苦しい状況に置かれている中で、「有り難い」「幸せだ」と仰ったのです。

菩薩様の言葉や、これらの方々の体験談を聞いていますと、一つの真理が見えてきます。それは、心が変われば人生が変わり、生き地獄が極楽に変わるという事です。

両手両足を失い、寝たきりの状態になりながら、「自分ほど幸せな人間はいない」と言い切れる心は、まさに奇蹟と言ってもいいでしょうが、一体どんな心になれば、そんな事が言えるのでしょうか。

大石順教尼も中村久子さんも大野勝彦氏も、星野富弘氏も向坊弘道氏も、そして菩薩様も、生き地獄のような状況に背を向けることなく、在るがままを受け入れ、すべてを拝まれました。

つまり、自分の不幸な境遇や、自分が置かれている苦しい現実から逃避せず、すべてを在るがまま受け入れ、その苦難の現実を拝む心になった時、人生が180度変わり、自分のいる場所がそのまま極楽となり、永遠に滅びない幸せの蕾が花開いたのです。


因縁に対する目覚め


京仏師の松久朋琳師は、

全てを受け入れる事によって、み仏はその心を開いて下さる。

と仰っておられますが、すべてを在るがまま受け入れるという事は、すべての不都合な現実、すべての不都合な結果、すべての不都合な因縁を在るがまま受け入れるという事です。

大石順教尼も、中村久子さんも、大野勝彦氏も、無手無足のわが身を顧みて、何故自分はこんな目に遇わなければいけないのかと思い悩み、幾度となく眠れぬ夜を過ごされたに違いありません。

しかし、やがて、「自分は両腕を斬りおとされなければならない因縁を作ってきたのだ。だから、私はいまこんな姿をしているのだ。怨むべきは、人でも社会でもみ仏でもなく、自分自身なのだ。私はいま、過去に作ってきた因縁を、この身に問われているのだ。だから、この因縁を在るがまま受け入れ、拝んでいこう」という悟りの境地に到達されたのです。

ある時、順教尼は、「両手を斬り落されて、口も耳まで斬りさかれる。血は流れ出る。誰も来てくれないまま五時間も経つ。それで生き残られたということは、まったく不思議としか思えません。どうして助けられたのでしょうか」との問いに対し、次のように答えています。(『無手の法悦』より)

私は世の中に不思議ということはないと思います。当然のことが当然に現われて来る、現われてきたものに当然でないものは一つもない、と私は思っています。
 不思議という言葉は、物事をよく見きわめないで、自分を都合よくごまかして、不思議だとうなずいているのでしょうね。
 人間が神様のように、何でもわかるのであったら、この世の中の出来事は、全部当然だとしか思えないはずです。
 不思議という事は何一つありません。生も死も、傷つくのも助かるのも、みな当然のあらわれなのです。

自分が両腕のない不具の身になったのは、運が悪かったからでも、誰かのせいでもなく、自分が作った因縁でそうなるようになっていたからだ、両腕を斬りおとされながら一命をとりとめたのも、両腕のない身で生きなければならなかったのも、そういう因縁があったからだ、と言うのです。

「両腕を失くさなければ、まだ自分が背負っている因縁の深さを知らないまま、更に罪を重ねながら生きていたかも知れない。両腕を失くしたお陰で、自分が作ってきた因縁の深さに目覚める事が出来た。それもこれもすべて、両腕を失くしたお陰だ」と、順教尼は、斬りおとされた両腕に感謝し、無手のわが身を拝まれたのです。

中村久子さんも、『こころの手足』の中で、

業がすなわち私自身なのです。
 業のある間、何十年でも見世物芸人でいいではないか。やめろと、仏様がおっしゃるときが来たら、やめさせてもらえばよい。来なかったら業の尽きるまで芸人でいよう。こうした決心がついたら、煮えたぎっていた”るつぼ”が”るつぼ”でなくなりました

 とおっしゃっておられますが、これは、無手無足の体で、自らの業の深さを嫌と言うほど味わってきた久子さんだからこそ、言えた言葉ではないでしょうか。

また、大野勝彦氏は、詩画集『はい、わかりました』の中で、

私のような人間は、きっと手を切らなければわからないことばかりだったのでしょう。神様が「まだわからんか。このバカタレが!」とわたしから両の手を取ってしまわれたのでしょう。
 でも、おかげさまで、たくさんの人たちによろこんでいただける毎日です。気がつくと、両親や妻、子どもたちも「ニコッ」としてくれています。ありがたいことです。
 「おれは、この道でまちがいなかった」
 両手はなくなっているけれど、生き方がそう思っています。この道でよかった、と。

人生に起きるすべてにむだはないと、私は思っています。いい悪いは、こちらが勝手に判断しているだけのこと。ぜんぶが必要あって起きています。

と書いておられますが、この文章を読めば、大野氏も、因縁に対する目覚めの境地に到達しておられる事が分かります。

本の題名にもなっている「はい、わかりました」という言葉は、きっと、両腕を切られた真相がよくわかりましたという、因縁に対する目覚めと、生き甲斐を見出せた喜びを、ありのままに表現された言葉に違いありません。


体の障害と心の障害


大石順教尼は、その徳を慕って集まる障害者にこうも言っています。

身体の不自由、これはね、そういう因縁なのだから仕方がないが、私達は心の障害者になってはいけないのだよ。

心の障害者、そんな障害があるのですか?

あんたね、片足が悪いだけでよく転ぶでしょう。どうしてか分りますか。

わかりませんが、悲しいです。

転ばなくても歩ける方法を教えてあげよう。それはね、悪い足をかくさないことだよ。心の障害というのはそれをいうのだよ。忘れなさいという事は無理かもしれないが、片足が悪いくらいのことに心をうばわれてはいけないのだよ。

どうしたら、その心の障害を取り除く事が出来るのですか?

自分のことは自分で出来るようにする、それだけの小さな生き方でなしに、世の中のために感謝と奉仕の心をもって、心の働きを生かすのだよ。たとえ、何にも出来ずにベッドにふせっていても、微笑みひとつでも、やさしい言葉ひとつでも、周囲の人々に捧げる事が出来たら、その人は社会の一隅を明るくすることが出来るのだよ。
 私はね、障害というのは、身体の自由、不自由とは別ではないかと思う事さえあるのだよ。
 たとえ健全な肢体に恵まれていても、それを人のために生かす心を持たず、五欲のほしいままに、お互いが傷つけあうことしか知らないとしたら、大変な心の障害者ではないかと思うのだよ。
 此の頃、私は、両手を無くしたこと、何も知らない無学なものであったこと、そして、お金にたよらずに貧乏してきた事が、本当に私の眼に見えない大きな財産なのではないかと、しみじみとその幸せを味わっているのだよ。

先生、もう少しわかりやすく教えて下さい。

そうね、生きてゆくための、幸福になるための、条件とか資格とかいうものは、何一つないのだ、とでも言ったら分るかい。禍も福もほんとうは一つなのだよ。

中村久子さんも、同じような事をおっしゃっておられます。

私自身に最も深く思わせられたことは、障害をむしばむものは障害ではなく、自らの精神によるものであるということです。

こんな手や足で電車や自動車の通るこんなこわい所が歩かれるだろうか、などと不安の念がちょっとでも頭に浮かんだらもうおしまいです。足も体もすくんでしまって、一歩たりとも前進はできません。障害が難物というよりは、心の障害が一番の難物なのであります。

私たちは、つい健康と病気、成功と失敗、富裕と貧困というように、幸不幸を相対する別物のように考えますが、実は、ものの見方の違いに過ぎません。ものの見方を変える事によって、幸福が不幸になったり、不幸が幸福になったりするのです。何故か。幸不幸は、決して固定的なものではないからです。

結局、幸不幸は、自分が決めるものであって、自分以外の誰かが決めるものでも、決められるものでもないという事です。

中村久子さんは、次のような言葉も残しておられます。

人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ。

勿論、思い方は人それぞれですから、両手両足を失くした事、不慮の事故によって、体の自由を失った事を、不幸と考える人も、世の中にはいるでしょう。

しかし、大野氏が「両手を奪われて失ったものよりも、得たもののほうがはるかに大きくて、重い」とおっしゃっておられるように、両手を失くしたからこそ、得られたもの、見えてきたものがある事も間違いありません。

そして、そこで得られたもの、見えてきたものこそ、失った両手が与えてくれた本当の幸せであり、両手を失くしていなければ、得る事も見る事もできなかった、輝ける人間の在るべき姿なのではないでしょうか。

中村久子さんの次の言葉が、その事を雄弁に物語っています。

良き師、良き友に導かれ、かけがえのない人生を送らせて頂きました。今思えば、私にとって一番の良き師、良き友は、両手両足のないこの体でした。


青い鳥の答え


むのたけじ氏の詞集『たいまつ』の中に、

扉がどんなに大きくても、鍵穴は小さい。そして、鍵は鍵穴よりも小さい。

という言葉がありますが、目指す幸せの扉がいかに巨大であっても、その扉の鍵穴は小さく、そしてその鍵穴に入る鍵は、もっと小さいのです。

勿論、鍵がいくら小さくても、ただ小さいだけでは、幸せの扉は開きません。その鍵穴にぴったり合った鍵によってのみ、扉は開くのです。

仏性という鍵は、形がありませんから、どのような形にも姿を変える事が出来、丸い鍵穴でも、四角い鍵穴でも、三角の鍵穴でも、どんな形の鍵穴であっても、ぴったり入る万能鍵と言えましょう。

勿論、万能鍵と言っても、ただ鍵穴に鍵を入れただけでは、幸せの扉はびくともしません。扉を開けるためには、鍵を回さなければなりませんが、その鍵をどのように回せばいいのかを教えてくれているのが、菩薩様であり、大石順教尼、中村久子女史、大野勝彦氏、星野富弘氏、向坊弘道氏の方々ではないでしょうか。

ここでもう一度、チルチルが最後に言った言葉を思い出して下さい。チルチルは、こう問いかけました。

「どなたかあの鳥を見つけた方はどうぞ僕たちに返して下さい。僕たちが幸福に暮らすために、いつかきっとあの鳥が必要になるでしょうから」

チルチルは、青い鳥を見つけたら返して欲しいと問いかけていますが、こう問いかけたらどうだったでしょうか。

「どなたかあの鳥が飛んでいった理由を知っている方は、どうぞ僕たちに教えて下さい。僕たちが幸福に暮らすために、いつかきっとその理由が必要になるでしょうから。」

そうすればきっと、青い鳥から、こんな答えが返ってきたのではないでしょうか。

「僕は、大切な事を伝えるために、君たちのところへやってきたんだよ。君たちには、それを伝える事ができたけど、まだ伝えなければいけない人が大勢いるんだ。だから、いつまでも君たちの側にはいられないんだ。僕を探さなくてもいい人ばかりの世の中になれば、僕はすぐに君たちのところへ戻ってくるよ。だから、君たちも、僕が伝えた事を、みんなに伝えて欲しいんだ。そうすれば、少しでも早く戻ってこれるからね」

合掌

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『無手の法悦』
著者:大石順教
春秋社; 新装版 (2008/07)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(1)中国の書物『朱子語類』に出てくる言葉で、「精神一到何事か成らざらん」とは、いかに困難な事であっても、精神を集中して努力すれば、成し遂げられないことはないという意味。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注2)明治11年12月31日、兵庫県神戸市に生まれる。16歳の時、リュウマチを発病し、それがもとで亡くなるまでの約50年間を、ベッドの上で寝たきりの状態にありながら、神戸女学院の購買部を切り盛りし、更に熱心なクリスチャンで、絶え難き苦難のすべてを神の恩寵と受け止めて、神の愛を多くの人々に説き、多くの人々に生きる勇気と希望を与えられた。昭和20年3月10日入寂。

 

『こころの手足』
著者:中村久子
春秋社:普及版 (1999/11/20)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注3)1880年6月27日、アメリカ合衆国のアラバマ州にあるタスカンビアという町で生まれる。生まれて1歳8ヶ月の時、急性の発熱により、聴力、視力、言葉を失い話す事も出来ない三重苦の障害を背負う。ヘレンの6歳の時、家庭教師としてやってきた21歳のアニー・サリバンとの出会いにより、三重苦を見事に克服し、「20世紀の奇蹟の人」と言われるようになる。初来日の直前、約50年に渡ってヘレンを支えてきたアン・サリバン死去。来日は三度にも及び、その都度、中村久子女史と再会する。1968年6月1日、ウェスポートの自宅で死去。享年87歳。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『はい、わかりました』
著者:大野勝彦
サンマーク (2007/7/10)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『詞集 たいまつT』
著者:むのたけじ
評論社 (1976/03)

 

 

 


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