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日本の進むべき道(1)─ 東日本大震災に学ぶ




千年に一度の巨大地震


この度の東日本大震災により、亡くなられた方々のご冥福をお祈りすると共に、被害を受けられた皆様、ご家族ならびに関係者の方々に、心からお見舞い申し上げます。

ご承知の通り、今年(平成23年)3月11日午後2時46分過ぎ、東北の三陸沖から関東沿岸部の広大な地域を震源域とする、マグニチュード9.0という、わが国観測史上最大規模の巨大地震が発生し、それによって引き起こされた大津波によって、太平洋沿岸部の市町村がほぼ壊滅し、数多くの犠牲者が出ました。

警察庁のまとめによれば、5月24日現在、死者が1万5202人、行方不明者が8718人、避難者10万8394人を数え、6,400人余りが犠牲となった阪神淡路大震災をはるかに上回る未曾有の大惨事となりました。

また今回の巨大地震による大津波の被害を受けた東京電力福島第一原子力発電所では、原子炉を冷却するための電源がすべて使えなくなり、大量の放射性物質が放出されるという深刻な事態に陥り、原発事故の深刻度をあらわす国際原子力事故評価尺度(INES)で最悪の「レベル7」と評価されるに至りました。

「レベル7」は、25年前の1986年に起きた旧ソビエト連邦のチェルノブイリ原発事故と同じ評価である事を考えると、今回の原発事故の深刻さが分かりますが、収束の目途が立たない状況は今なお続いており、今後も予断を許しません。

またこの原発事故によって、長期の避難を余儀なくされている原発周辺の住民の方々の苦難は、想像に余りあり、巨大地震、大津波に加えての原発事故の災禍は、まさに三重苦の苦しみと言っても過言ではありません。

原発事故による電力不足も深刻で、東京電力管内では、一時、計画停電を実施せざるを得ない事態に追い込まれましたが、今後も企業や一般家庭には節電努力が求められる状況にあり、当分の間は、電力不足による不便な暮らしが続くことは避けられそうにありません。


疫病神か福の神か


このように見てまいりますと、今回の東日本大震災は、私たちにとって招かざる客であり、ただ禍を運んできただけの疫病神としか映りませんが、果たして私たちに苦しみをもたらすただの疫病神なのでしょうか。

涅槃経というお経に、面白い話が説かれています。

或る日、一軒の家に、見目麗しい一人の女性が現われ、「私は吉祥天という福の神です。お宅に、福徳を授けにまいりました」と言って入って来られたので、家人は喜んで招き入れました。

すると、その後ろから、みすぼらしい格好をした女性がもう一人入って来たので、「あなたはどなたですか」と聞いたら、「私は黒闇天(こくあんてん)という貧乏神です」と名乗ったので、家人が「貧乏神には用がありませんから、どうか出て行って下さい」と言って追い返したところ、黒闇天は大笑いして、「先ほど家に入って行った吉祥天は、わたしの姉です。わたしたちは一心同体ですから、私が家を出てゆけば、姉も一緒に出て行かねばなりません」と言って、せっかく入ってこられた福の神も一緒に去って行かれたと言うのです。

この話に出てくる吉祥天と黒闇天が、私たちが分別している「幸と不幸」を象徴している事は言うまでもありませんが、この話は、幸も不幸も、苦も楽も、福も禍も一枚の紙の表裏のようなもので、決して別のものではなく、一つの出来事のどちら側を見てゆくか、どのような思い方をしてゆくかの違いに過ぎない事を教えています。

つまり、今回の大震災を表側から見れば、私たちに苦難をもたらす黒闇天(疫病神)の顔にしか見えませんが、大震災を裏側から見れば、私たちに幸せをもたらす吉祥天(福の神)の顔が隠されているかも知れないのです。

菩薩様は、御法歌の中で、
  悟りとは 表の教より裏の法
    見えぬ裏にぞ 悟りあるなり
 と詠っておられますが、幸せを運ぶ福の神の顔は、大震災の裏側に隠された天地(神仏)のみ心を悟らなければ見えてきません。


新しい芽の出る辛卯の年


今年は、干支で言いますと、辛卯(かのとう)の年になりますが、十干の「辛」には、「新」、つまり、「新しい」という意味と、「つらい」「からい」という意味があり、辛の年は、社会の様々な矛盾やそれに伴う犠牲が顕在化する年と言われています。

「辛」はまた鋭い刃物を現し、辛年は、成長を阻むものを切捨てて除去しようとする働きが生まれる年であるとも言われています。

過去に例をとれば、1991年の辛年には、ソビエト連邦が崩壊し、また2001年の辛年9月11日には、アメリカの同時多発テロが起き、多くの犠牲者が出ました。

また十二支の「卯」には、兎(うさぎ)という字が充てられていますが、本来は「茂(ぼう)」で、「覆う」「茂る」という意味があります。卯の文字は、門の両扉が開いた形をしており、大きな力が働いて、開かずの扉が押し開かれる様を現しています。

卯年は、今までの閉塞感を打ち破るような大きな動きが始まる年と言ってもいいでしょう。

それを物語るかのように、卯年に始まった行事がたくさんあります。

例えば、20世紀に入った最初の卯年の1903年(明治36年)には、自転車競技の「ツール・ド・フランス」が始まり、また第一回の「早慶戦」も卯年に始まっています。「日比谷公園」が開園したのも、アメリカの「フォード・モーター」が設立されたのも、日本で最初の地下鉄が開通したのも、高速道路が開通したのも、NHK紅白歌合戦の第一回が開かれたのも、卯年です。

このように辛卯の年は、大きな変革が始まる激動の年であり、新しい芽が出る年である事が過去の事例を見ても分かりますが、大きな変革が始まる激動の年と言われる辛卯の年に、わが国観測史上最大規模と言われる巨大地震が起こったことを、ただの偶然と見過ごす訳にはいきません。

天地(神仏)は、何の意味も目的もなしに、このような未曾有の巨大地震を起こされる筈がなく、もしそこに天地(神仏)のみ心が働いているとすれば、必ずそこには起こるべき理由が隠されている筈だからです。

原発事故を引き起こした東京電力は、いま非難の矢面に立たされていますが、深刻な原発事故を起す引き金となった巨大地震と大津波が想定外の規模だったとは言え、その責任は重大と言わねばなりません。

しかし、今回の大震災による原発事故を、ただ東京電力の責任として片付けてしまっていいのでしょうか。今回の大震災から、私たち日本人が悟らなければならない事はないのでしょうか。

大きな動きが始まる激動の年と言われる辛卯年に、何故私たち日本人が、これほどの試練を頂かなければいけないのか、その真相を、一人一人が自分の身に置き換えて悟っていかなければ、二万人を遥かに超える方々の犠牲に報いることは出来ないでしょう。


読売新聞のコラム


私たちが、この大震災から悟らなければいけない事は何かを考える上で、先ずご紹介したい記事があります。今年3月28日(金)の読売新聞の朝刊に掲載された「経点観測」というコラムです。

東日本巨大地震に沈む日本経済は復活できるのだろうか。原発事故は予断を許さず、計画停電などもあって、不安は募る。
 首都圏の店ではミネラルウオーターや即席めんが消え、ガソリンスタンドに行列ができた。買い占めに走れば、被災地に必要な物資がいっそう届きにくくなってしまうことがわかっていても。
 同時に、日本全体に自粛ムードが広がる。歓送迎会や旅行などは中止が相次ぎ、消費低迷が避けられそうにない。だれしも被災者の苦難を考えずにはいられないのだろう。
 しかし、モノが売れなくなれば、それをつくる会社の経営は厳しくなり、雇用・所得環境の悪化につながる。第一生命経済研究所の熊野英生氏は「過度な節約志向が広がると経済活動を下押しする。こういう時代だからこそ、普段通りの消費活動をしていくことが大事」と強調する。
 読売新聞社が避難所にいる被災者100人に聞いたところ48人が「町は復興できる」と答えた。被害はあまりにも甚大だが、希望は消えていない。
 確かにエネルギー供給や食の安全など難題も多い。それでも、日本経済が停滞していては被災地の復興はさらに難しくなる。経済活動を正常化させていくためには、普通の暮らしを心がけることが必要になりそうだ。


元の木阿弥にしてはならない


過度な節約はかえって逆効果になるという内容ですが、このコラムを読まれた皆さんは、恐らく一人の例外もなく、「その通りだ」と、うなづかれたのではないでしょうか。

いま関東地方や東北地方をはじめ、全国各地で、節電、節約の呼びかけが行われており、被災地の皆さんや、関係者の方々が置かれている今の状況を考えれば、節電、節水、節約に努めるのは当然であり、国民の責務と言っても過言ではありません。

しかし、他方で誰もが過度の節約に走り、物を買わなくなれば、企業業績が悪化し、それだけ経済が冷え込み、被災地の復興もままならなくなることも事実です。

企業が儲からなくなれば、そこで働く人々の仕事がなくなり、更に物が売れなくなるという悪循環に陥るのは必至で、こうした悪循環を断ち切るためにも、震災前の元の生活に戻ることが何より大切である事は、誰の眼にも明らかでしょう。

しかし、私が疑問に思うのは、ただ震災前の元の暮らしに戻る事が、いまの私たちにとって必要であるなら、何故天地(神仏)は、わざわざ日本経済が冷え込むような未曾有の大震災を起されたのかという事です。

もう一度、震災前の普通の生活に戻った方がいいのであれば、日本経済が回復傾向を示していた今の時期に、わざわざ日本経済を下押しするような大地震を起こさなくてもいい筈です。

この大震災によって、せっかく上昇しかけていた経済が再びダウンしてしまった訳ですが、大震災が起こったら、こうなる事くらい、天地(神仏)は先刻ご承知の筈です。

その事が分かっていながら、あえて、大きな動きが始まる激動の年と言われる辛卯年にこのような大震災をもたらされたとすれば、そこには必ず天地(神仏)の深いみ心が隠されているに違いありません。

その深い天地のみ心を悟らなければ、何のためにこのような試練が与えられたのかという真相も見えてきませんし、二万人以上もの方々の犠牲も活かされずに終わってしまうでしょう。

二万人をはるかに超える方々の命が犠牲になっているのに何も変らず、ただ震災前の元の生活に戻るだけなら、今回の犠牲は何のためだったのかと言う事になり、それこそ元の木阿弥ではないでしょうか。

「この大震災が起こったお陰で日本はこんなに変わったのだ。日本人はこう変わったのだ」と、胸を張って言える日を迎えない事には、何のためにこのような試練を受けなければいけなかったのか、その理由を、犠牲になられた方々にご報告出来ないではありませんか。


便利で快適なだけに過ぎない生活


読売新聞のコラムに書かれていた「震災前の普通の生活」とはどのような生活を指しているのか分かりませんが、文面から見る限り、節約をしないで、今まで通り、どんどん買って、どんどん消費して、どんどん使い捨てていく生活を指しているのではないかと思います。

確かに、被災者の方々の苦難を思えば、一日も早く震災前の平常な暮らしが出来るよう、最優先して取り組まなければならない課題である事は言うまでもなく、国民の一人として、その日が一日も早く戻ってくる事を願わずにはいられません。

しかし、その一方で、このまま今回の大震災から何も学ぶことなく、ただ震災前の暮らしに戻っていいのだろうかという思いが、心の片隅にくすぶっているのも事実なのです。

と言いますのも、某テレビ局で、ある被災地に水道が復旧した時の映像が映し出されていましたが、それまで被災者の方々の口から漏れていた言葉は、例外なく、「電気や水道がないと何も出来ません。電気や水道のある生活がこんなに有り難いとは思いませんでした」という言葉でした。

ところが、テレビに映し出されていた水道復旧時の映像は、水道の蛇口を一杯に開け、ジャージャー流しっ放しにしながら、水を飲んだり食器を洗ったりしている光景でした。

今まで使えなかった水道が使えるようになった喜びが、そのような行動となって現れたのかも知れませんが、その映像を見て改めて、私たちも今まで同じようなことを、日常生活の中で当たり前のように繰り返していた事に気付かされたのです。

それまで「電気や水道のない生活がこんなに有り難いとは思いませんでした」と言っていた人々が、その有り難い筈の水を「復旧したのだから、使いたいだけ使えばいいのだ」と言わんばかりに、ジャージャー流しっ放しにしながら使っている光景を見て、ふと思ったのは、電気や水道がある普通の生活とは、「有り難い」のではなく、ただ「便利で快適なだけに過ぎないのだ」という事です。

そのテレビ映像は、被災者の方々の姿を通して、いつでも電気や水道が使える事への感謝の心を忘れてしまっている現在の私たちの姿を、ありのままに映し出していましたが、それはまるで、「これでいいのかね」と、私たちに問いかける天地(神仏)の嘆きのようでもありました。


何を当たり前と考えるのか


東京電力管内では、震災直後から実施された計画停電によって、多くの人々が不便を強いられました。今まで10あったものが7や5になって、今までのように使えなくなったのですから、不便と感じるのは当然でしょう。

被災した方々の不便さを考えれば、これでも有り難いほどですが、10あったものが7になったら生活してゆけないのかと言えば、勿論そんなことはありません。

何故なら、10あれば10のような暮らしをし、7になれば7に見合った生活をするのが、人間だからです。

要は、「もう今までのように10の生活は出来ません」と言われれば、7の生活に見合った生活をしてゆけるよう知恵を出し、節約の工夫をしてゆけばよいだけの話です。

と言うより、そうしていかなければいけない時代が来ているのにも拘らず、私たちはまだその事に気付いていないのではないでしょうか。

私たちの体内には、浪費と贅沢が当たり前となっていたかつての高度成長期の生活習慣が、今なお病巣のようにはびこり、大自然の摂理に適った感謝と知足の生き方を阻害しているように思えてなりません。

世の中には、月に30万円あっても生活が苦しいという人もいれば、月に15万円もあれば十分だという人もいます。前者の考え方に立てば、30万円の生活が当たり前で15万円の生活など考えられないでしょうが、後者の考え方に立てば、考えられない15万円の生活が当たり前なのであって、30万円の生活が贅沢なのです。

「どちらを当たり前と考えるのかね。震災前の10の生活があなたたちにとって当たり前の生活なのだから、これからも10の生活をしてゆくべきなのか。それとも震災によって節電、節水、節約を余儀なくされている7の生活を、これからの当たり前の生活と考えるべきなのか。これからあなたたちが進むべき道はどちらなのかね」

今回の大震災を通して、天地(神仏)が私たちにそう問いかけているような気がしてなりません。

もし、今までのように使いたいだけ使っていた浪費と贅沢が当たり前の10の暮らしが、日本経済を悪化させないために戻らなければならない普通の生活だとすれば、今回の大震災で亡くなられた二万人以上もの方々の犠牲や、生活基盤のすべてを奪われた十数万人もの人々の苦難や、震災に伴って強いられている不便な生活体験は、一体何の為かという事になりましょう。

社会全体が節電や節水や節約に走る事は、一日も早い復興を願う方々の眼には、まるで復興を阻害する疫病神のように映るかも知れませんが、節水とは、ただ今まで蛇口を一杯に開けて、流しっ放しにしながら使っていたのを、蛇口を少し絞り、出来るだけ無駄な水を使わないように、ほんの少しだけ心がけようという、無駄をなくすための知恵であり、節電とは、無駄な照明を出来るだけ使わないようにしようという、贅沢や浪費を減らす工夫であり、節約とは、大自然の摂理に適った感謝と知足の生活に戻ろうとする取り組みなのです。

もしそれによって経済がおかしくなるのであれば、節約に舵を切ろうとする社会や、節約の大切さに気付いた人々が悪いのではなく、節約によっておかしくなる経済の仕組みそのものが間違っているのであり、浪費や贅沢によって成り立っている経済の仕組みそのものを根本から見直さなければならない時期に来ているという事なのです。

合掌

平成23年5月25日

日本の進むべき道(1)─東日本大震災に学ぶ
日本の進むべき道(2)─東日本大震災に学ぶ
日本の進むべき道(3)─紙幣の顔
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