桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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地獄の中に仏あれば地獄なし(1)



命あるうち命あるうち


統計によれば、2008年度の日本人の平均寿命は男性が79.29歳で、アイスランド、香港、スイスに次いで世界第4位、女性は86・05歳で世界第1位だそうですから、平均寿命まで生きるとすれば、あと何年生きられるかが計算できますが、これはあくまでも仮定であって、人の寿命ほどあてにならないものはありません。

日本ではいま、29秒に一人が生まれ、28秒に一人が亡くなっていますが、いつ自分が28秒の中に入らないとも限りません。明日、ポックリ逝くかも知れませんし、数日後に事故で亡くなるかも分りません。年少者より年長者が先に逝くとも限っておりません。

御法歌に、

 昨日見た人 今日はなし
    残る桜も 散る桜
    待ったないのが 人生だ

と詠われているように、無常の風は、時を選びません。

「やり残した事があるから、もう少し後にして下さい」と言っても、寿命が来れば、否が応でも逝かなければならないのです。

「光陰矢のごとし」と言われる無常の世の中であるからこそ、末代までも後悔しないよう日々の生活を有意義に過ごし、生きている内に、自分が為すべき事をしておかなければいけないと思うのです。

 人の身は 咲いて散るこそ桜花
    いのちあるうち いのちあるうち


世界に誇りうるお彼岸の行事


日本では、古来、春分の日と秋分の日を中日として前後三日間を併せた一週間を、お彼岸と定め、ご先祖の供養をする慣わしになっていますが、芽の出る春と、散ってゆく秋にお彼岸の行事が設けられているのは、太陽が真東から昇って真西に沈み、昼と夜の時間が同じである事を通じて、仏教の中道(ちゅうどう)(注1)の精神を教えると共に、この世の真理である諸行無常、万物流転を悟らせたいが為であります。

その意味から言えば、仏教国にはみなお彼岸の行事があってもよさそうですが、お彼岸の行事があるのは、日本だけで、仏教発祥の地であるインドにも、中国にも、朝鮮にも、東南アジアのタイやスリランカ、ベトナムなどの南伝仏教(小乗仏教)の国々にも、お彼岸の行事はありません。

一説には聖徳太子が作られたとも言われておりますが、まさにお彼岸は、日本民族が世界に誇りうる仏教行事の一つと言っても過言ではないでしょう。

いずれにしましても、春と秋の二回、彼岸の行事を設けて下さった先人の叡智には、ただただ敬服する他はありません。


お彼岸の目的


お彼岸は、お墓参りをしたり、ご先祖の年忌法要を勤めたり、亡き人々を偲んで菩提を弔う日である事は言うまでもありませんが、それだけではなく、生きている私たち自身を供養する日でもある事を忘れてはならないでしょう。

古歌に、「今日彼岸 菩提の種を蒔く日かな」と詠われていますが、これは、「お彼岸を通じて、菩提心を供え合い、供養し合いましょう」という意味です。

供養とは、読んで字の如く「供え養う」、つまり養ってお供えする事を意味しますが、何を養いお供えするのかと言いますと、菩提心(仏性)を養ってお供えするのであります。

私共はみな、菩提心(仏性)という仏となる種を与えられてこの世へ生まれてきますが、その菩提心を知らずに生きている人々、仏性が眠ったまま生きている人々が大勢います。

「相互供養、相互礼拝」という言葉があるように、「菩提心(仏性)に目覚めて、お互いに拝み合いましょう。家族、夫婦、親子、兄弟、縁者同士が、菩提心を育てて供え合いましょう」と、生きている者同士が互いに拝み合い、助け合い、支え合う相互扶助の精神を養うのが、お彼岸の目的でもあるのです。


波羅蜜多とは


彼岸とは、「彼の岸」、つまり、川の向こう岸にある悟りの世界を現わします。そして、私達が生きている迷いの世界を、「此の岸」と書いて「此岸(しがん)」と言います。

此岸から彼岸へ渡る事を、インドの言葉(梵語)で「パラミタ」と言い、これを漢字に音写したものが、般若心経などに説かれている「波羅蜜多」で、これは、此岸から彼岸に到る(到彼岸)という意味です。

そして、迷いの世界である此岸と、悟りの世界である彼岸の間を流れる川が、所謂「三途(さんず)の川」で、幼い頃は、「亡くなったらみんな、三途の川を渡って、あの世へ行くのだよ。三途の川を渡るには六文銭が要るのだよ」と教えられ、子供心に「三途の川は、この世とあの世の間にある川なのだ。六文銭を持っていかないと川を渡してもらえないのだ。六文銭を持っていなかったらどうしよう」と、心配したりしたものです。

しかし、これは「到彼岸(とうひがん)」を分りやすく説明するための譬えであって、実際にそのような川が存在する訳ではありません。

「三途」とは「三悪道(三悪趣)」とも言われ、六つある迷いの世界(六道)の中の「地獄、餓鬼、畜生」の三つの世界を意味します。

地獄、餓鬼、畜生に代表される六つの迷いの世界(六道)を三途の川に喩え、その川を渡る船賃を六文銭に喩えたのは、六道(ろくどう)の人生を、六波羅蜜(注2)によって超えていくことを教えんが為です。

よくお墓の入り口に、六地蔵と呼ばれる六体のお地蔵様がお祀りされていますが、これも同じ意味で、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六つの迷いの世界をさまよいながら苦しむ人々を、お地蔵様が六つのお姿に身を変えて、お救い下さる事を教えているのです。


幸不幸は見方の違い─福の神と貧乏神


では、誰もが往きたいと願う悟りの世界、彼岸とは、どこにあるのでしょうか。その事について、涅槃経というお経に、面白い話が説かれています。

或る日、一軒の家に、見目麗しい一人の女性が入って来られました。

そして「私は吉祥天という福の神です。お宅に、福徳を授けにまいりました」と言ったので、家人は喜んで招き入れました。

すると、その後ろから、みすぼらしい格好をした女性がもう一人入って来たので、「あなたはどなたですか」と聞いたら、「私は黒闇天(こくあんてん)という貧乏神です」と名乗ったので、家人が「貧乏神には用がありませんから、どうか出て行って下さい」と言うと、黒闇天は大笑いして、「先ほどお宅に入って行った吉祥天は、わたしの姉です。わたしたちは一心同体ですから、私が家を出てゆけば、姉も一緒に出て行きますよ」と言って、追い出した黒闇天と一緒に、せっかく入ってこられた福の神も出て行かれたと言うのです。

この話に出てくる吉祥天と黒闇天は、「極楽と地獄」、「幸と不幸」を現わしており、この涅槃経のお話は、極楽も地獄も、幸も不幸も一枚の紙の表裏のようなもので、決して別のものではない事を教えています。

私達は、地獄と極楽、幸と不幸は全く別のものであり、この世に地獄があるなら、あの世に往かなければ極楽はないだろうと考えますが、涅槃経は、この世に地獄があるなら、極楽もこの世にあり、あの世に極楽があるなら、あの世に地獄もある事を教えているのです。

つまり、この世であろうが、あの世であろうが、極楽のあるところには必ず地獄があり、地獄があるところには必ず極楽があるという事です。

私はまだ一度も死んだ事がないので、果たしてあの世があるのか否か、またあの世に極楽や地獄があるのか否か存じませんが、お釈迦様が四苦八苦と説いておられるように、この世が苦しみ多き六道の世界である事は間違いありません。

六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という迷いの世界の事ですが、この六つの世界を果てしなくさまよい続ける事を、鼠が丸い輪の中を果てしなく廻り続ける有様に喩えて、六道輪廻(ろくどうりんね)と言います。

ご承知のように、今、日本では、12年間続けて自殺者が3万人を超えています。12年前までは自殺する人が2万人台で推移していましたが、12年前から3万人を超え、いまも3万人台で推移しているのです。

平成21年度の自殺者は、3万2753人(男性2万3406人、女性9347人)を数えていますが、このような現実を見ると、この世は苦しみばかりの世界だと思われるかも知れませんが、苦しみの世界があるという事は、必ず苦しみのない世界もあるという事です。

この世は苦しみばかりの世界だから、あの世に行かなければ極楽はないのかと言えば、そうではありません。この世に地獄があるとすれば、極楽も必ずこの世にあるのです。

吉祥天と黒闇天が一心同体であるように、苦があれば楽あり、楽あれば苦ありで、幸せだけがあって苦しみがない世界も、苦しみだけがあって幸せがない世界もないのです。


どこにもないし、どこにでもある世界


では何故、私達は、地獄を見たり、極楽を見たりするのでしょうか。

それは私達自身が、自らの心で地獄や極楽を作っているからです。

つまり、仏教で言われる地獄も極楽も、苦しみの世界も幸せの世界も、実はすべて私達自身が心で作っている世界なのです。

ですから、彼岸極楽はどこにあるのかと言えば、「どこにもないし、どこにでもある」という事になります。

「どこにもない」という意味は、もし自分の心を別にして、何かそういう理想郷を想像しているのであれば、そんな世界はどこにもないという意味です。

しかし、心を開きさえすれば、極楽は、あなたのすぐ足下に見えてきます。これが「どこにでもある」という意味です。

但し、その世界は、自分自身が心を開いて悟っていかなければ見えてきません。肉眼では見えないのです。心の眼を開き悟ってみて、初めてその世界は顔を見せてくれるのです。

恐らく世間の大部分の人々は、幸不幸を別のものとして捉え、例えば、健康で長生き出来る人は幸せで、病弱で短命な人は不幸だと考えているのではないかと思いますが、健康な人が幸せで、病弱な人が不幸だとは限っていません。

その証拠に、世の中には、病気をしていても、幸せな方はたくさんおられますし、健康でも不幸のどん底で泣いている人は大勢います。

昔から「一病息災」という言葉があるように、病気ばかりしている人の方が、かえって長生きしたりするものです。健康な人ほど逆にポックリ死んだりするという話も、よく耳にします。

私のよく知っているお婆さんは、お嫁に来た時はとても病弱で、近所から、「あのお嫁さんは、長生き出来ないわ」と言われていたそうですが、そのお方が、何と九十九才まで長生きされたのです。そうかと思えば、大きな地主のご主人ですが、病気などした事がなかったのに、五十才の若さでポックリ亡くなられました。

ですから、健康だから幸せで長生きが出来、病弱だから不幸で短命だとは決まっていないのです。


誰が幸不幸を決めるのか


大切な事は、誰がその人の幸不幸を決めるのかという事です。

その人の幸不幸を決めるのは、言うまでもなくその人自身であって、他人ではありません。

他人が「あの人は不幸な人だ」と言ったから、その人が不幸になるのではありません。人が不幸と言おうが何と言おうが、自分がそれを不幸と思うか否か、それによってその人が不幸か否かが決まるのです。

要は、自分が心を開いて、そこに極楽を見ていくかどうかにかかっているという事です。

極楽がどこかに存在しているのではありません。自分自身が極楽を作るのです。

苦しみが有って、自分を苦しめるのではありません。自分自身が苦しみを作るのです。

長い人生の中で、思い通りに行かない事は幾らでもあります。事故に遭遇する事や、災難に遇う事もあります。それは、表面的に見れば、不幸な事かも知れませんし、他人は、それを見て、不幸な人だと言うかも知れません。

しかし、それを自分自身が不幸と受け止めるか否か、その出来事をこれからの人生の中で、どのように受け止め、どのように生かしていくか、それによって、幾らでも幸せな人生が開けてゆくのです。

辛い事、悲しい事、不都合な事を、ただ表面的に見て不幸だと嘆くのは、余りにも短絡的であり、愚かな事ではないでしょうか。

たとえ苦しい事であっても、それをみ仏のお計らいと受け止め、その裏に隠されたみ仏の御心を悟らせて頂く事によって、人生は幾らでも開けてゆくのです。

もうお気づきだと思いますが、福の神も疫病神も、実はどこにも存在しません。吉祥天も黒闇天もすべて、自分の心が作っているのです。

しかも、この二つは一体で、紙の裏表ですから、表から見れば疫病神に見えても、裏から見れば福の神の顔がそこに隠れています。

そのどちら側を自分が見ていくか、それによって人生はどんどん悪くもなれば、どんどん良くもなっていきます。誰も悪くありません。結局は自分自身が幸不幸を作っているのです。

菩薩様のお歌に、

 悟りとは 表の教より裏の法
    見えぬ裏にぞ 悟りあるなり

という歌がありますが、表面だけを見て、不幸だ、災難だと言って嘆いているだけでは、人生は好転してゆきません。ただ辛い、苦しいだけで、一生を流されていくだけです。

不幸だ、災難だ、辛い、苦しいと嘆く前に、その中に隠されている幸せの種を見つけ、その種を自ら育てていく努力をしない限り、幾ら待っていても、幸せの花は咲かないのです。

合掌

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地獄の中に仏あれば地獄なし(3)
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(注1)中道とは、一般的には、苦行主義と快楽主義のどちらにも偏らない、中間的立場を意味する言葉と解釈されていますが、例えば、進むべき道が二つに分れ、左が苦行主義、右が快楽主義だと仮定して、相反するこの両者の違いを解消する中間的立場(中道)とは、何を意味するのでしょうか。
思うに、中道とは、左右いずれの道でもない、第3の道と言ってもいいでしょうが、この例の場合、大切な事は、左右どちらの道を選ぶかではありません。何故なら、左右どちらの道を選んでも、自分が背負っている因縁は、どこまでも自分の行く方へ一緒に付いてくるからです。
 浪の音 嫌じゃと思うて山ごもり
   声色変えて 松風ぞ吹く
と、古歌にも詠われているように、苦しみの因縁を解かない限り、どちらの道を選んでも、結果は同じなのです。進むべき道は、二つあるように見えますが、悟りの眼で見れば、進むべき道は左右どちらでもなく、まず自らの因縁を解く事が先決なのです。そして、自分が背負っている苦しみの因縁さえ解ければ、相反するように見えた二つの道の違いは解消され、一つになるのです。但し、二つ道が一つ道になるのは、いずれか一方を選んだからではありません。因縁さえ解ければ、どちらの道を選んでも、同じ事であり、二つ道の違いがすでに解消されているからです。これが、お釈迦様の説かれた、相反する二者のいずれにも偏らず、二者の違いを解消する中間的立場である第3の道、中道の考え方です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注2)六波羅蜜とは、菩薩となるために修めなければならない六つの実践徳目で、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つを指します。布施とは、他に与えること、持戒とは、戒律を保つこと、忍辱とは、耐え忍ぶこと、精進とは、努力すること、禅定とは、いかなる場面に遭遇しても動揺しない心を養うこと、智慧とは、真理を悟るための悟りの智慧をみがくことです。

 

 

 

 

 

 

吉祥天女画像(薬師寺)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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