桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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菩提心に目覚めよ(1)



縁起と運命の違い


お釈迦様が悟られた仏教の根本思想である縁起無常の真理(注1)とは、「私たちの人生は、そうなると決まっているのではなく、刻一刻と変化している。それ故、自分の思い方、生き方を変えれば、人生は幾らでも変えていける」と説く変化論と言えましょう。

これに対し、自分とは関係のないところで、そうなる事が決まっているのだから、自分の未来を変える事は出来ないと説くのが運命論で、悪い星の下に生まれた人は、生涯、悪い星の下で生きていかなければならず、そうなる事が運命として決まっているのだから、自分の力で運命を変える事は出来ないという事になります。

同じ桜でも、成長の早い桜もあれば、遅い桜もあります。同じ時期に植え、同じように肥料をやり、同じように育てているのに、成長の早い桜と遅い桜があるのです。

運命論に従えば、「成長の遅い桜は、生涯、成長の遅い桜として生きていかなければいけない。そうなる事が生まれた時から決まっているのだから、それが運命だと思って諦めなければいけない」と言う事になるでしょうが、縁起無常の真理に従えば、たとえ成長の遅い桜であっても、生涯、遅い桜として生きていかなければならないのではなく、やがて早咲きの桜にも負けない大きな桜に成長する事も出来るのです。

これは、桜や紅葉に限った事ではなく、私たち人間もみな、運命論者がいうような決まった人生を生きている訳でも、生きていかなければいけない訳でもなく、これから幾らでも自分の人生を変えていけるのです。


本当の幸せとは凡夫から抜けること


しかし、人生を変えていけるという事は、幸せな人生にも変えていける代わりに、不幸な人生にも変わっていく事を意味します。

勿論、世の中には、自分の人生を不幸にしたいと願っている人など一人もいません。誰もがみな、幸せな人生に変えていきたいと願っているのですが、では、どうしたら幸せな人生に変えていけるのでしょうか。

菩薩様が京都の貴船でお会いになった脇坂リヨ様は、次のように仰っておられます。

「本当の幸せとは、凡夫から抜けなあかしませんのや。凡夫から抜けると言う事は、悟るという事どすさかい、悟らなあかしませんのや。悟ったら、体が光で守られますさかいなあ。自分の事は考えんでもよろしいのどす。自分の事を考えると、間違いをおかしますのどすわ」

人はみな、幸せになりたいと思ったら、まず自分の事を考えますが、脇坂リヨ様は、自分の事を考えると幸せになれないと仰っておられるのです。

それどころか、「自分の事は考えんでもよろしいのどす。自分の事を考えると、間違いをおかしますのどすわ」とまで仰っておられます。

自分の事を真っ先に考えるのが、普通の人間(凡夫)ですが、幸せになりたければ、そのような凡夫の考え方から抜け出す事が大切であり、凡夫から抜け出す為には、様々なお計らいを悟らなければいけないと仰っておられるのです。

自分の事よりも先ず他人の事を考える心を、仏教で「菩提心」と言いますが、この菩提心をおこせるか否かが、人生を幸せに変えていけるか否かの別れ道と言っても過言ではないでしょう。


一切の罪穢れを清める菩提心


何故、菩提心をおこす事がそれほど大切なのかと言いますと、この菩提心が、一切の罪穢れを清めてくれるからです。

徳川家康公は「人生は、重き荷を背負うて遠き道を行くが如し」と仰っておられますが、私たちは、何時とは分らぬ永遠の過去世から、様々な罪を重ね、その重き罪を背負って輪廻転生(注2)してきたのです。

長年に渡って積み重ねてきた罪業の垢は、中々拭い切れるものではありませんが、その罪垢を清めてくれるのが、この菩提心なのです。

脇坂リヨ様が、「自分の事は考えんでもよろしいのどす。自分の事を考えると、間違いをおかしますのどすわ」と仰っておられるのは、その為であり、お大師様、菩薩様が、様々なお計らいを通して、私たちの菩提心を問いかけておられるのも、同じ理由からです。

お大師様、菩薩様のお計らいは、煎じ詰めれば、すべてこの菩提心の覚醒を促す為と言っても過言ではありません。

人生という小船の舵を極楽に向けるには、菩提心に目覚める事が、何よりも大切なのです。


Kさんへのお計らい


以前、この菩提心について、お大師様、菩薩様からお計らいを頂かれたお方がおられます。

御同行のKさんですが、今から7年ほど前の平成14年6月、Kさんの義理のお兄さんが亡くなられました。

お体が少し不自由だったので、Kさんが、お兄さんの身の回りのお世話をして来られたのですが、「病む人より病まれる人が、病む人のお世話をさせて頂く中で、罪業の果たしをしなければいけない」という菩薩様の教えに従えば、Kさんは、お兄さんのお世話をさせて頂く事によって、自らの罪業の果たしをして来られた事になります。

そのお兄さんが亡くなられたという事は、Kさんの罪業の果たしが終った事を意味します。

そこで私は、「今までは、お兄さんのお世話を通して、自分の為の行をして来られました。これからは、自分の為の行ではなく、人様の為の行、衆生済度のお手伝いをする行が始まりますよ」というお話しを、Kさんにさせて頂いたのです。


中陰中は神様参りをしてはいけない?


お話をさせて頂いた翌月(7月)、Kさんから、「うっかりしていて、神棚の榊を替えてしまったのですが、どうしたらいいでしょうか」というお電話を頂いたのですが、何故Kさんが、そのようなお電話をして来られたのかと言いますと、Kさんのお家は、その時ちょうど、亡くなられた義理のお兄さんの中陰供養の期間に入っていたのです。

仏教では、私達が生きている世界を本有、死んでから次の世界へ生まれ変わるまでの中間的な世界を中有(中陰)、生まれ変わる次の世界を当有と言い、これを総称して三有(注3)と言いますが、この中有(中陰)の四十九日間の供養(修行)如何によって、生まれ変わる次の世界(当有)が決まると言われています。

Kさんのお宅も、ちょうどその時、お兄さんの大切な中陰供養の期間に入っていたのですが、ご存知のように昔から世間では、「亡くなった人の家族や身内の者は、中陰の期間中、神社や神様にお参りしてはいけないし、お家にある神棚にも触ってはいけない」と言われているのです。

お家によっては、神棚の前に半紙をかぶせ、神棚そのものが見えないようにしているお家もあるほどで、神棚に触れたり、神様にお参りしたりする事は慎まなければいけないとされている訳ですが、Kさんは、うっかりして、神棚におまつりしてある榊が枯れていたので、その榊を新しい榊に替えられたのです。

それをご覧になった近所の方から、「中陰が明けるまでは神棚に触ってはいけないよ」と言われたので、Kさんは、「何か障りがあるのではないか。祟りがあるのではないか」と不安になり、お電話をして来られたのですが、私は、そのお話をお聞きし、改めて菩薩様の間髪入れぬお計らいに感服したのであります。

何故なら、私はその前月、Kさんに、「もうこれで、自分の罪業の果たしは終わりましたよ。これからは、人様の為の行、衆生済度のお手伝いをする為の行が始まりますよ」というお話をしたばかりだったからです。

そこで私は、「菩薩様が、Kさんにその事の念押しをなさったに違いない」と確信したのであります。


死は穢れたものか


何故、残された家族は、中陰(四十九日間)が明けるまでは、神社へお参りしたり、神棚に触ったりしてはいけないと言われているのでしょうか。

正直に申しまして、私にはその理由がよく分かりません。

敢えて推測するならば、恐らく、死は穢れたものであり、穢れを忌み嫌う神様へのお参りは慎むべきだという理由からではないでしょうか。

会葬者に塩を配ったり、斎場の入口に置塩をして清めたりするのも、多分、死を穢れたものと見る考え方から来ているのではないかと思いますが、果たして、死は、本当に穢れたものとして忌み嫌わねばならないものなのでしょうか。

思うに、死は、オギャーと生まれた時からの約束事であり、命に付随しているものですから、もし死が穢れているのなら、オギャーと生まれてきた事も、穢れていると考えなければなりません。

仏教に、「生死一如」(注4)という言葉があるように、生と死は別のものではなく、表裏一体をなしているものです。

生きるという事は、同時に死にゆく事でもあるのです。その表裏一体である生死を二つに分け、死だけを穢れたものと見るのは、どう考えても道理に適いません。

大自然の中に生きる草花はみな、春にオギャーと芽を出し、夏を盛りと生き、秋に実りをもたらし、冬に散ってゆきますが、その中で、オギャーと生まれた春の花だけが清らかで、枯れて死んでゆく冬の花は汚れたものなのでしょうか。

花には、その時々の美しさがあります。綺麗に咲いている春の花だけが美しいのではなく、枯れていこうとしている冬の花にも、枯れていこうとしている花の美しさがあるのです。


生花と造花


以前、或るお寺へお参りした時、御本尊様の両側にお祀りされているお花が、とても艶やかだったので、しばらく見とれていたのですが、花の色が、余りにも原色に近く、妙にけばけばしかったので、「外国産の花でも活けておられるのだろうか」と思いながら、近づいてよく見ると、造花だったのです。

造花と言いましても、最近は生花と見間違えるほど精巧に造られていますので、遠くからでは見分けが付きません。造花は、夏でも枯れないという事で、最近は造花を本堂にお祀りしている寺院もあるようですが、幾ら精巧に造られていても、やはり造花は造花です。

パッと見た目には綺麗なのですが、その綺麗さが妙に不自然なのは、人工的に作られた美しさだからだと思いますが、不自然に感じるもう一つの理由は、造花には命がないことです。

命がないから、変化がありません。変化がないという事は、死んでいるという事です。と言うより、初めから命がないのです。命がないから、死ぬ事もありません。

それに比べ、生花は、刻一刻と変化していきます。そして、やがて枯れてゆきます。枯れるのは、生きている証拠であり、生きているから、枯れるのです。

御本尊様は、命があるから必ず枯れていく生花と、命がないから枯れる事のない造花と、どちらの花を喜ばれるのでしょうか。

言うまでもなく、生花をお供えされた方が嬉しいに決まっています。幾ら精巧に造られた造花をお祀りされても、嬉しい筈がありません。

何故なら、供養とは、文字通り「養い供える」事、つまり、生きている心、生きている花、生きているものを養い、御本尊様にお供えする事だからです。

しかし、生きているものは変化しますから、必ず死があります。死のない生など、この世には存在しません。生きているという事は、必ずそこに死を伴っているという事です。

造花が枯れないのは、最初から命がないからですが、ここで忘れてはならない事は、御本尊様は、穢れたものを決して喜ばれないという事です。

その御本尊様に、やがて死んでいく生花をお供えするという事は、どういう事でしょうか。

もし死が穢れたものであれば、やがて死んでゆく生花をお供えする事を、御本尊様が喜ばれる筈がありません。

しかし、今もお話したように、ご本尊様が、命のない造花より、命のある生花の方を喜ばれる事は、明らかです。

この事実から分る事は、ご本尊様が、やがて生花に訪れるであろう死を、決して穢れたものとは見ておられないという事であります。


釈迦涅槃図が教える真理


お釈迦様がご入滅される最後の場面を描いた釈迦涅槃図を、ご覧になった皆さんもおられると思いますが、亡くなられたお釈迦様のご遺体の周りで、十大弟子(注5)をはじめ、大勢の諸仏諸菩薩や阿羅漢、更にはお釈迦様に救われた多くの生類が集まって、悲嘆に泣き崩れている情景が描かれています。

この涅槃図の中で特に印象的なのは、涅槃に入られたお釈迦様の表情がとても安らかであるのに対し、その周囲に集まった諸仏諸菩薩や弟子たちの嘆き悲しむ表情が余りにも対照的だという事です。

何故、お釈迦様と弟子たちの表情が、これほど違うのでしょうか。

ご存知のように、お釈迦様は、縁起無常の真理を悟られて仏陀となられましたが、縁起無常の真理とは、生まれた者は必ず死ぬという、永遠に変る事のないこの大宇宙の法則です。

お釈迦さまが、あのような安らかなお顔をしておられるのは、縁起無常の真理である死を、在るがまま受け入れておられるからではないかと思います。

それに対して、お釈迦様の周りを取り囲んでいるお釈迦様の十大弟子をはじめ、様々な生類たちが慟哭の表情をしているのは、お釈迦様の死を受け入れる事が出来ず、無常の真理に対して抵抗しようとしているからです。

死を受け入れておられるお釈迦様と、お釈迦様の死を受け入れる事の出来ない弟子達の心の姿が、対照的な違いとして描かれているのが涅槃図ですが、お釈迦様が死を受け入れておられるという事は何を意味するかと言いますと、死を穢れたもの、忌み嫌うべきものとは見ておられないという事です。

つまり、死は、生まれた者が必ず受け入れなければならないこの世の決まりであり、自然現象の一つに過ぎません。

その事を、お釈迦様は、自ら身を以て示しておられるのが、まさに涅槃図であり、この釈迦涅槃図を見れば、お釈迦様が、決して死を穢れたもの、忌み嫌うべきものとは見ておられない事が、よく分かります。

合掌

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(注1)縁起とは、「因縁生起」の略で、すべてのものが因(原因)と縁(条件)によって生じるという真理。例えば、一粒の米(原因)があっても、それだけでは米は実らず、そこに土、水、太陽、肥料などの様々な縁(条件)が加わって、初めて米という結果が生じる事をいう。
無常とは、すべてのものが変化し続け、永遠に変らないものは一つもないという真理。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注2)輪廻転生(りんねてんしょう)とは、ねずみが回転車の中をいつまでも廻り続けているように、迷える人々が、罪をつくりながら六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の世界をさまよい、果てしなく生死を繰り返している有様の事をいう。この果てしない輪廻の人生から抜け出すことを解脱といい、その為に最も大切なものの一つが、菩提心と言われている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注3)現在の生である本有、次の世の生である当有、死んでから次の生を得るまでの期間である中有を、三有と言う。
また、 一つのいのちがたどる四つの段階を、四有(しう)と言う。誕生する瞬間を生有(しょうう)、生まれてから死ぬまでの生を本有(ほんぬ)、死ぬ瞬間を死有、そして死んでから次の生を得て生まれ変るまでの生を中有(中陰)と言い、49日間の中陰供養によって、次の世界が決まると言われている。そこで、7日毎の忌日に、守護仏(十三仏)をお祀りして、亡者の霊を供養し、併せてそのご守護を祈念するのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注4)生死一如(しょうじいちにょ)とは、生と死は別のものではなく、一体であり、切り離す事は出来ないという意味。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注5)お釈迦様の弟子の中で特にすぐれた才能を持った十人の弟子で、智慧第一と言われた舎利弗(しゃりほつ)、神通第一と言われた目蓮(もくれん)、頭陀第一と言われた摩訶迦葉(まかかしょう)、天眼第一と言われた阿那律(あなりつ)、解空第一と言われた須菩提(すぼだい)、説法第一と言われた富楼那(ふるな)、論議第一と言われた摩訶迦旃延(まかかせんねん)、持律第一と言われた優婆離(うぱり)、密行第一と言われた羅睺羅(らごら)、多聞第一と言われた阿難陀(あなんだ)を指す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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