桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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真の奇蹟とは(3)



Eさんのお役目


こうして一連のお計らいを見てきますと、そこには、Oさんを救わずにはおかないお大師様、菩薩様の深い慈悲心が注がれている事が分かりますが、菩薩様を信じ切って救われたお方が、もう一人おられます。

それが、和歌山県海南市からお参りしておられた今は亡きEさんです。

菩薩様は、『心に思いしこと』という文書の中で、

「みんな幸せになる。みんな私のところへ帰って来る事に決まっている」

とおっしゃっておられますが、その事を身を以て実証されたのが、Eさんです。

Eさんは、10年間、月参りを欠かされた事がないというほど、篤くお大師様、菩薩様をご信仰なさったお方で、救いを求め、仏法を求める事に関しては、誰にも負けない強い信仰心の持ち主だったと言ってもいいでしょう。

そのようなお方ですから、他の誰よりもご利益を頂かれて当然でございますが、Eさんは、晩年、癌の病を頂かれ、抗癌剤の治療も受けず、癌と共に生きながら、そのご生涯を閉じられました。

このような場合、世間の人々が言うご利益とは、不治の病である癌が奇蹟的に治る事を言うのでしょうが、この事実だけを見れば、Eさんには何のご利益もなかったかのように見えます。

しかし、大切な事は、癌が治ったか否かではなく、Eさんが救われていたか否かであります。

それは、肺結核に侵されていたルルドの聖女、ベルナデッタの病が治ったか否かよりも、救われていたか否かが大切であるのと同じ事で、ベルナデッタは、肺結核で三十五年間の短い生涯を閉じましたが、救われていなかったかと言えば、決してそうではありません。

それは、ヌヴェール愛徳修道会のサン・ジルダール修道院で、修道服に包まれて眠るベルナデッタの生きているかの如き美しい遺体を見れば、明らかでしょう。


Eさんが救われていた証


Eさんもまた肉体は癌に侵されていても、その魂は救われていたに違いありません。

或る時、Eさんのお知り合いの方が、お見舞いに行かれ、Eさんにこうおっしゃって、お見舞いを渡されたそうです。

「Eさん、今まで10年間月参りをして、一生懸命信仰してきたのに、こんな病気になってしまってなあ。これで何か美味しいものでも買って食べて」

その言葉を聞かれたEさんは、「あなた、まだそんなことを考えているの。悪いけど、そのお見舞い、持って帰って下さらない」と、厳しい口調でおっしゃったそうです。

そこでその方が、「悪かったわ。あなた、みんなの為にご苦労して下さっているのにね」と言って、Eさんにお詫びなさったところ、Eさんは、嬉しそうな表情で、「ありがとう。そのお見舞い、喜んでいただくわ」と、おっしゃったそうです。

Eさんがその方に厳しい口調でおっしゃったのは、きっとご縁の深いお方だから、一日も早く救われて欲しい、思い違いに気付いて欲しいと思われたからではないでしょうか。

「私は、ただ何の理由もなく、癌の病気を頂いているんじゃない。家族や親戚の人々を救うために、み仏様からこの大行を頂いているの。どうしてその事を分かってくれないの」

Eさんは、きっとそう言いたかったに違いありませんが、このお二人の遣り取りを見れば、Eさんが、すでに救われ、菩薩様と一体であったことがよく分ります。


Eさんをお加持する菩薩様


Eさんが亡くなられる二ヶ月ほど前の平成9年2月3日の夕方、大阪市の御同行Kさんが、千巻経(注1)をあげておられた時、不思議な夢をご覧になられました。

その日、Kさんはとても疲れておられ、千巻経を唱えながら、眠くなったという感覚が全然ないまま、ウトウトとなさったそうで、その間に、不思議な夢をご覧になられたのです。

お参りされたEさんがいつも座られる場所があり、そこで横になって休んでおられるEさんに向って、Kさんが一生懸命にお祈りしていると、小さな小さなみ仏様が、Eさんの足の方からすーっと入ってくるような感じがするそうです。

そして、Eさんの足の所は、すーっと通り抜けていくのですが、お腹の辺りになると、中々前へ進めないので、Kさんは、早く治って欲しいと祈りながら一心に般若心経を唱え、またその小さなみ仏様たちも、一生懸命Eさんの病を治そうとするのですが、どうしても、お腹から向こうへ越せません。

み仏様がお腹の辺りに大勢いらっしゃるのをご覧になったKさんは、「これはまだ私のお経が足りないからだ」と思われ、また一心に般若心経をお唱えされるのですが、どうしても先へ進めないそうです。

そのみ仏様たちが、今度は頭の方からEさんの体に入ってゆき、健康なところは、手も胸も、すーっと通るのですが、お腹のところまで来ると、やはりどうしても先へ進めないので、Kさんは、「まだ私のお祈りが足りないのだ。もっと祈らなければいけない」と思い、懸命に数珠を繰りながら祈っていると、そこへ大きな龍が舞い降りて来たのであります。

Kさんは「龍だ!」と思われたのですが、その時は、まだその龍が菩薩様である事に気付いておられません。

しかし、よく見ると、その龍が、菩薩様の御遺告の巻物を口にくわえていたので、その時初めてその龍が菩薩様である事に気付かれたKさんは、涙ながらに「有り難い。菩薩様、どうかEさんを助けて下さい」と祈りつつ、かすかに目を開けると、その龍が三本の爪(注2)で巻物をしっかり握り、そこに寝ているEさんに寄り添うようにして、Eさんのお腹を一生懸命にお加持しているそうです。

一心に祈っておられたKさんが、またかすかに目を開けると、その龍が、いつの間にか灰色の作務衣(さむえ)を着た菩薩様に姿を変え、Eさんのお腹を一生懸命にお加持しておられたそうです。

すると、いつの間にか、Eさんの体が真っ直ぐになり、お腹もぺちゃんこになったので、「あー、よかった。よかった。菩薩様、有り難うございます」と言いながら、涙を流しているところで目覚められたそうです。


龍に生れ変ったEさん


Eさんは、それから2ヶ月余り後の平成9年3月末に亡くなられましたが、Kさんは、Eさんが亡くなる3日前の3月25日にも、不思議な夢をご覧になられました。

小さな龍が、右の方から左の方へ大空高く昇っていくのを見たKさんは、「龍が北の方角に向かって翔んでいく」と思われたそうです。

そして、龍のお腹を見ると柿色をしていたので、「あの龍は女の龍だわ」と思われたのですが、その夢をご覧になった三日後に、Eさんが亡くなられ、その事をKさんにお伝えしたところ、Kさんはすぐに、「三日前に夢に見たあの女の龍は、Eさんだったのだ」と直感されたのであります。

昔から、人の魂は亡くなる三日ほど前に肉体から離れると言われていますが、夢にご覧になったのが、Eさんが亡くなられるちょうど三日前だったので、Kさんは、北の方角へ飛んでいった女の龍はEさんに間違いないと直感されたのであります。

問題は、女の龍が飛んでいったところは何処かという事です。

Kさんは、その龍が右の方から左の方へ大空高く昇っていくので、北の方角に向かって翔んでいくと思われたのですが、Eさんが住んでおられた海南市は大阪の南に位置しており、大阪に住んでおられるKさんから南方にある海南市を見て、龍が翔んでいった右の方から左の方角で、北の方角と言えば、中部・関東地方であり、菩薩様に御縁のあったEさんが向かった所は、菩薩様が御入定なさった山梨県の法徳寺開創の聖地以外には考えられません。

Eさんが龍の身に生まれ変わられたという事自体、菩薩様と一体になられた何よりの証であり、この事実から考えても、龍に生まれ変わられたEさんが、菩薩様が御入定しておられる高野山法徳寺開創の聖地へ翔んでいかれた事は間違いないでしょう。


Eさんが頂かれた真の救い


菩薩様が残された三千首余りの御法歌(道歌)の中に、通力について詠った歌が、一首だけあります。

 息吹龍 虚空を翔けて昇り龍
    天眼天耳 示現自在通

「双龍示現曼荼羅」と名づけられたこの御法歌に詠われている息吹龍、昇り龍とは、勿論、生き仏となられた菩薩様の事ですが、Eさんが、菩薩様と同じ龍の身に生れ変られたという事実から分る事は、Eさんが、生き仏様と一体の身に生れ変るという、この上もなく尊い果報を頂かれたという事です。

外見だけを見れば、Eさんはただ癌で亡くなられただけのように見えます。世間には、癌で亡くなられる方が大勢おられますが、外見は、その方たちと何ら変わりありません。

ですから、Eさんのお知り合いの方のように、「10年間毎月、法を求めてお参りしたのに、不治の病に侵されて、これでは信仰した甲斐がないではないか」と思われる方がいても不思議ではありません。真相を知らない人は、みな同じような思いを抱かれるでしょう。

しかし、Eさんは、お大師様、菩薩様を信じ切って、癌と共に生き続けられ、真の救いとは何かを身を以て私たちに示して下さったのです。その救われた証が、龍の身に生れ変って、お大師様、菩薩様の元へ帰っていかれたという事実です。

龍の身に生れ変り、菩薩様と一体となられたEさんは、これから菩薩様と共に、多くの人々から拝まれていかれるに違いありません。

何が有り難いと申しましても、悩み苦しみから救われた多くの人々から、生き仏様と共に拝まれる以上の幸せは他にございません。

世間の人々が願う現世利益と、Eさんのように、お大師様、菩薩様に見込まれて使命をまっとうされたお方が頂かれるご利益(救い)とは、根本的に違う事を、Eさんは身を以て教えてくれたのです。

菩薩様は、「みんな幸せになる。みんな私のところへ帰って来ることに決まっている」というお言葉を残されましたが、Eさんは、そのお言葉に間違いのない事を、身を以て証明して下さったのであります。


私は弘法大師と一体です


ご主人を交通事故で失くしながら、加害者の青年を真心で包まれたOさん、そして癌と共に生きて生涯をまっとうされ龍の身に生まれ変わって菩薩様の下へ帰られたEさん、このお二人が身を以て示して下さったのは、菩薩様を、お大師様と不二一体の生き仏様と信じ切るところに救いの原点があるという事であります。

私は、今まで、様々な機会を通して、菩薩様がお大師様と不二一体である証を、皆さんにお伝えして来ました。

例えば、菩薩様が四国二十一番札所・太龍寺で、旅の御僧(お大師様の変化身)から「普門法舟」の名前を授けられた事、法徳寺に「高野山」という山号を付けていかれた事、お大師様より「入定せよ」との示現を頂かれて御入定なさった事、「汗露水」をお授け下さった事など、菩薩様がお大師様と不二一体である証は、枚挙にいとまもありません。

しかし、改めて考えてみますと、菩薩様がお大師様と不二一体の生き仏であると信じ切る上において、これらの様々な事例や証は、本来必要ないものとも言えましょう。

何故なら、すでに菩薩様自ら、何度も、「私は弘法大師と一体ですよ」とおっしゃっておられるからです。

 空海の 心の内に咲く花は
    弥陀よりほかに 知る人ぞなし

私たちは今まで、「この歌が私の全てです」という菩薩様のお言葉を、何度お聞きしたか分りません。「この歌が私の全てです」というこのお言葉は、私たちが生き仏と信じ仰ぐ菩薩様がおっしゃったお言葉なのです。

だとすれば、菩薩様が、お大師様と不二一体の生き仏であると信じ切る上で、この言葉以上に信じ得る証など他にあろう筈がありません。このお言葉だけで十分とも言えましょう。

生き仏と成られた菩薩様のお言葉ですから、これはもうお経そのものです。お釈迦様のお言葉を集めたものが、所謂仏教経典ですが、菩薩様が残していかれたお言葉もお経です。御法歌もお経であり、「みんな幸せになる。私の元へ帰って来る事に決まっている」という言葉もお経であり、「私は弘法大師と一体ですよ」という言葉もお経です。

今もお話したように、菩薩様自ら、「私は弘法大師と一体です」とおっしゃっておられるのですから、その言葉に間違いのあろう筈がありませんし、これ以上に信じられる証など他にありません。菩薩様のお言葉が信じられなくて、他のどのような証が信じられるのでしょうか。

つまり、菩薩様の救いを信じ切る上においては、菩薩様のお言葉だけで充分であり、そのお言葉以上に信じられるものなど、何もないのです。


真実か偽りか


ですから、私が、いくら数多の証を挙げて、菩薩様がお大師様と一体である事をお伝えしたところで、それによって、菩薩様がお大師様と一体である事の信憑性が増す訳ではありませんし、証が無いから、それだけ信憑性が疑われる訳でもありません。

つまり、信じ切る心を成就する上においては、証しの有無は、必ずしも必要不可欠なものではないという事です。

それは神仏が現わされる奇蹟と同じで、奇蹟の有無によって神仏の実在性が左右されるようなら、それこそ、神仏の実在性は疑わしいと言わなければならないでしょう。

にも拘らず、私が、今まで様々な証を挙げてきたのは、それを糧として、一刻も早く信じ切る心を成就して欲しいと願う老婆心からに過ぎません。

神仏が、様々な奇蹟(不可思議)を現わされるのも同じで、神仏を信じ切る上で、奇蹟があるか否かは、必ずしも必要不可欠な事ではなく、奇蹟を見せた方が、信じ易いから、奇蹟を現わされるだけであって、その為の方便に過ぎないのです。

ルルドの聖女、ベルナデッタが、肺結核に侵されながら、奇蹟の水を飲まなかったのは、その事を伝えたかったからではないでしょうか。

ですから、私が様々な証を示して説明したから、それによって菩薩様の言葉の信憑性が証明されたり、示さないから疑わしくなる訳ではなく、証があろうが無かろうが、真実は真実、偽りは偽りなのです。

要するに、菩薩様のお言葉は、真実か偽りか、白か黒か、そのいずれかであります。

そして、菩薩様がすでにご自身の口からそうおっしゃっておられるのですから、これ以上確かな証はございません。菩薩様が、「私は弘法大師と一体ですよ」とおっしゃっておられるのですから、その事に間違いはないという事です。

そして、「みんな私のところへ帰って来る事に決まっている」とおっしゃっておられるのですから、必ずそうなるという事です。

あとは、そのお言葉を信じ切れるか否か、それだけであります。


奇蹟は救いではない


世間には、何かが邪魔をしているから救われないとか、救われないのはこの世に神も仏もいないからだとおっしゃるお方が時々おられますが、救われないのは、神仏がいないからでも、他に原因があるからでもなく、まだ神仏を信じ切れていないからです。

しかし、中々神仏を信じ切れない人々がいる事も事実であり、だからこそ、神仏は、様々な奇蹟や霊験や不可思議を現わされて、神仏が実在する事を人々に知らしめ、「神仏を信じ切ってすべてをゆだねなさい」と、救いのみ手を差し伸べておられるのです

世の中には、救いと奇蹟を同一視して、奇蹟が起きなければ神仏を信じないと、自らの信心をも省みず、奇蹟が起きる事ばかり願っている人々がおられますが、奇蹟が起きなければ救われないのであれば、この世で救われる人は一人もいないでしょう。

奇蹟が救いなのではありません。

救いは、神仏を信じ切れるか否かで決まる天地の理(ことわり)であり、そうなると決まっている約束事です。

奇蹟が救いであれば、救いは私たちの手の届かない神仏の手の内にある事になりますが、奇蹟が救いではありませんから、救いは私たちの手の届くところ、即ちわが心の内にある事になります。


ベルナデッタが求めたもの


大切な事は、奇蹟が起きるか否かではなく、神仏を信じ切る心を成就出来るか否かであります。

そして、その事を身を以て示してくれたのが、ルルドの聖女、ベルナデッタであり、ご同行のOさんやEさんであります。

ベルナデッタが、病の床にありながら、周囲が勧めるルルドの水を飲まなかったのは、前にもお話したように、ベルナデッタにとって、病が治るか治らないかは、救われる上において、そう重要な事ではなかったからです。

もし勧められるままにルルドの水を飲んでいれば、奇蹟が起って病が癒されたかも知れませんし、奇蹟など何も起らず、病は癒されなかったかも知れません。

いずれにせよ、それは、ベルナデッタにとってどちらでもよい事だったのです。

何故なら、彼女にとって大切な事は、奇蹟が起きるか否かではなく、救われるか否かであり、その為に神を信じ切る事が出来るか否かだったからです。

彼女が求めていたものは、病気を治してくれる奇蹟の水ではなく、魂の救いだったのです。敢えて「あの水は私のためではない」と言い切ったのは、その為です。

彼女が求めた真の救いは、奇蹟によってではなく、神を信じ切る心によってしか得られない事を、彼女は悟っていたのかも知れません。

彼女にとって奇蹟は、神を信じ切る上において、何の意味も持たなかったのです。

ベルナデッタが、聖女と呼ばれるに相応しい女性だった事は、間違いありませんが、それは、奇蹟の水を授けられた女性だからではなく、神への絶対的な信心を成就した女性だからであります。

救われる上において必要なものは、奇蹟の水ではなく、信じ切る心である事を、自ら身を以て示したからです。


ベルナデッタの使命


彼女は、聖母マリアが預言した通り、救われました。

しかし、もたらされたのは救いだけではありませんでした。聖母マリアは彼女に、奇蹟をも、もたらされたのであります。

その奇蹟とは、言うまでもなく、ヌヴェール愛徳修道会のサン・ジルダール修道院に今も眠る清らかな遺体であります。と言うより、今も生き続ける彼女の美しい聖なる姿であります。

勿論、この美しい聖なる姿は、彼女が求めたものではなく、聖母マリアが与えられたものですが、聖母マリアがベルナデッタに与えられたのは、ただ生きているかの如き美しい姿だけではありませんでした。

表面的に見れば、ベルナデッタの深き信心に応えて、聖母マリアが美しい姿を与えられたように見えますが、聖母マリアが彼女に与えられたものは、その美しい姿を通して、未だ神を信じ切れない人々を目覚めさせ、神の世界へ誘う使命だったのです。

「あなたにいつまでも朽ち果てる事のない美しい姿を与えましょう。それによって、神を信じ切れない人々を導いてあげて下さい」

聖母マリアは、きっとそうベルナデッタに告げておられるに違いありません。


真の奇蹟を起こすのは誰か


ベルナデッタの美しい姿を見た時、人々は否が応でも神の存在を認めざるを得ないでしょう。このような奇蹟を現わせるお方は、神以外にはおられないのですから。人々は、彼女の美しい姿に、神の奇蹟と神の実在を実感する事でしょう。

しかし、百年以上経っても朽ち果てる事のない美しい遺体を神の奇蹟と呼ぶなら、その奇蹟をもたらした彼女の神への絶対的な信心こそ、真の奇蹟と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか。

そして、神仏への絶対的な信心を真の奇蹟と呼ぶなら、真の奇蹟を起こせる者は、神でも仏でもなく、私たち一人一人なのであります。

「誰でも奇蹟を起こせるのですよ。奇蹟はあなたたちの手の届くところにあるのですよ。ベルナデッタを御覧なさい。彼女がその証人ですよ。私は、みんなが奇蹟を起こす日を待っているのですよ」

聖母マリアは、全人類にそう告げておられるのではないでしょうか。


神仏の願いとは


「信じる者は救われる」

これが、古今東西の聖者が、一人の例外もなく指し示しておられる永遠の真理であります。

そしてそれは、聖母マリアが美しいベルナデッタの遺体を通して教えようとしておられる真理でもあり、またベルナデッタがルルドの奇蹟を否定してまでも伝えたかった真実ではないでしょうか。

またそれは、菩薩様が、OさんやEさんを通して私たちに教えておられる真理でもあります。

御法歌『頼め彼岸へ法のふね』の中に─

 目には見えねど 神仏
    案じ疑い するけれど
    信じることこそ 救いなり

という一首がありますが、すべての宗教は、この一首に尽きると言っても過言ではありません。

そして、すべての人々が、信じ切る心を成就して、神仏の下へ帰って来る日を一日千秋の思いで待っていて下さるのが、聖母マリアであり、お大師様、菩薩様であり、一切の神仏なのです。

菩薩様は、「Oさんが真心(信心)を成就し、救われて私の下へ帰ってくる日を待っていますよ」との願いを込めて

 春待つ日 室戸の香りそのままに
    大師に捧ぐ 真心の水仙(はな)

という法歌を贈られましたが、この願いは、Oさんだけではなく、すべての悩み苦しむ人々への願いでもあるのです。

しかし、その願いとは裏腹に、いつの時代にも、奇蹟が起きなければ神仏を信じる事の出来ない人々、否、奇蹟が起きていてさえ神仏を信じ切れない人々のいかに多い事でしょうか。

聖母マリアが、ベルナデッタやディエゴやルシアを通して、何が真の奇蹟かを示され、またお大師様、菩薩様が、OさんやEさんを通して、何が真の救いかを教えようとしておられるのは、決して理由なき事ではないのです。

 み仏の 法の縁にあうときは
    信じることこそ 心安けれ

 如何ほどに 奇蹟霊験あったとて
    信心ひとつが 救いとなるなり

合掌

真の奇蹟とは(1)
真の奇蹟とは(2)
真の奇蹟とは(3)
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(注1)般若心経を千巻お唱えする修行。1人でお唱えするなら1人で千巻、10人でお唱えするなら1人百巻、20人でお唱えするなら1人50巻ずつお唱えする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注2)龍は中国の伝説上の神獣、霊獣で、中国皇帝のシンポルとされてきた。また水の神でもある龍は、雷雲を自由に繰って雨を降らすと信じられ、干ばつの時などは、龍神を祀って雨乞いが行われた。お大師様が京都の神泉苑で雨乞いをされ、善女竜王を呼び出して雨を降らせ、干ばつに苦しむ人々を救った逸話は有名である。龍は、爪の本数によって、五爪の龍、四爪の龍、三爪の龍に分れるが、五爪の龍は、中国においては皇帝しか使う事を許されず、従って中国で描かれた龍は、すべて五爪の龍である。そして朝鮮や琉球に渡って五爪の龍が四爪の龍に姿を変え、更に日本へ渡って三爪の龍になったと言われている。それ故、爪の本数を見れば、どの国で描かれた龍であるかが分るが、いずれにせよ、菩薩様の御遺告の巻物を握っていた龍が、三本爪であった事から、この龍が日本で生まれた龍、つまり、菩薩様の化身である事は間違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

菩薩様御自筆の
「双龍示現曼荼羅」の掛け軸

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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