桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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世界同時不況に思う(3)



無いものを有ると思うが妄想なり


菩薩様は、その著書『涙の渇くひまもなし』の中で、「人間は本来無一物であり、裸の雪ダルマであります」と書いておられますが、まさにその通りでありまして、この世の中に自分の物と言えるものなど何一つありません。

この肉体も勿論自分のものではなく、天地神仏から、一時的にお預かりしているだけであります。

肉体だけではなく、わが親だ、わが子供だ、わが家屋敷だ、わが財産だと思っているものも、全て借り物なのです。自分のものだと思うのは、大いなる錯覚であり、妄想に過ぎません。

もし、この肉体が自分のものであれば、自分の思い通りになる筈ですから、病気をしなくてもいいし、老いてゆかなくても、死んでゆかなくてもいいのです。

この肉体が病む事も、老いていく事も、死にゆく事も止められないのは、この肉体がただお預かりしているだけの借り物に過ぎず、自分のものではない証拠です。


竹取物語


お預かりしているという事は、いつかお返ししなければならないという事であり、その時まで大切にお預かりしなければいけない責任があるという事です。

わが国が打ち上げた月面探査衛星「かぐや」から送られて来る月面の美しいハイビジョン映像を見て、感動されたお方も大勢おられると思いますが、「かぐや」という名前は、言うまでもなく、竹取物語の「かぐや姫」から付けられた名前です。

竹取物語(注1)は、ご存知のように、竹取の翁が竹やぶの中で見つけた可愛い赤ん坊を、お婆さんと二人で育てる物語ですが、この物語のクライマックスは何と言っても、かぐや姫が、迎えにきた使者と共に月へ帰っていく場面でしょう。

物語は、竹取の翁が、竹林で光り輝く一本の竹の中から、可愛い赤ん坊を発見する所から始まります。やがてこの子はかぐや姫と名付けられ、都でもうわさになるほど美しい娘に成長していきます。

うわさを聞いた大勢の公達(きんだち)が、かぐや姫を一目見ようと押しかけ、その中の五人から求婚されるのですが、かぐや姫は頑として首を縦に振りません。

それでも諦めないと知ったかぐや姫は、「これから私が言う物を見つけてきた人と結婚します」と言って、五人の内の石作皇子(いしつくりのみこ)には「仏の御石の鉢」、車持皇子(くらもちのみこ)には「蓬莱の玉の枝」、右大臣阿倍御主人(うだいじん・あべのみうし)には「火鼠(ひねずみ)の裘(かわごろも)」、大納言大伴御行(だいなごん・おおとものみゆき)には「龍の首の珠」、中納言石上麻呂(ちゅうなごん・いそのかみのまろ)には「燕(つばめ)の子安貝」を持って来るよう条件を出すのですが、どれも話にしか聞かない珍しい宝物ばかりで、誰も手に入れる事が出来ませんでした。

そのうわさは帝の耳にも達するようになり、一目遇いたいとかぐや姫を尋ねてくるのですが、姿を見られたかぐや姫が、一瞬の内に姿を消すのを見た帝は、かぐや姫がこの世のものではない事を悟り、求婚するのを諦めます。

やがて、かぐや姫が夜空を見上げながら物悲しい表情で泣く日々が続くようになり、心配した老夫婦が、その理由を尋ねると、「八月の満月の夜に、月から迎えの者が来て、帰らなければならないのです」と打ち明けるのです。

そこで、かぐや姫に求婚した五人の公達をはじめ、帝に遣える大勢の武者達が、様々な手立てを講じて、何とか引き止めようとするのですが、何をしてもその効なく、やがてかぐや姫は、迎えの使者たちと共に月へ帰っていくのです。

別れる時、かぐや姫は、不死の薬と天の羽衣、そして、帝を慕う心をしたためた文を残していくのですが、帝は「かぐや姫の居ないこの世で不老不死を得ても意味がない」と言って、それらを駿河国の日本で一番高い山で焼くように命じられ、それ以来、その山は「不死の山」(富士山)と呼ばれるようになったと言うのです。


月とはみ仏の浄土なり


この竹取物語に出て来る月と言うのは、勿論、月面探査衛星「かぐや」が映し出した天体の月ではありません。

月とは、み仏がおられる仏国土(浄土)の事であり、かぐや姫が月へ帰るとは、生まれ故郷であるみ仏の国に帰っていく事を意味しています。

月は、古来み仏を象徴するものとして、数多くの歌にも詠まれてきました。

例えば、お大師様は、御入定なさってから八十七年後の延喜二十一年、醍醐天皇の夢枕に立たれて、次のような歌を詠まれたと伝えられています。

 高野山 結ぶ庵に袖朽ちて
    苔の下にぞ 有明の月

醍醐天皇は、苦しむ人々を救わんが為、お衣の袖がボロボロに朽ちるまでご苦労していて下さるお大師様の慈悲心の深さに心を打たれ、早速、勅使を高野山に遣わされて、「弘法大師」の諡号(おくりな)と、新しい法衣(おころも)を御下賜されたのであります。

それ以来、紀州高野山では、千年以上に渡って、お衣替えの儀式が続けられているのですが、この歌に詠まれた「有明の月」とは、生き仏となられたお大師様の事です。

また、法然上人が詠まれた

 月影の いたらぬ里はなけれども
    ながむる人の 心にぞ住む

という歌に出てくる「月影」も、蓮如上人が詠まれた

 阿弥陀には へだつ心はなけれども
    蓋ある水に 月は宿らじ

に出て来る「月」も、全てみ仏を現しています。

御法歌「大師のすくい」の中にある

 忘るなよ 高野の山に照る月は
    衆生を照らす 光なりけり

という歌詞の「高野の山に照る月」も、お大師様の事であり、お大師様の救いのみ光が、衆生を普く照らしていて下さるという意味であります。

このように、月は昔から、み仏、或いはみ仏の浄土を現わすものとされており、かぐや姫が帰っていった月も、み仏のおられる浄土を意味している事は言うまでもないでしょう。


何故月に帰らなければならないのか


竹取物語は、一見すると、竹取の翁が竹やぶの中で可愛い赤ん坊を見つけ、神仏から授けて頂いた子供だと喜んで、お婆さんと二人で立派に育てたのも束の間、やがて月へ帰っていくかぐや姫と別れなければならない非常に哀しい物語のように見えますが、一体作者は、この物語を通して何を教えようとしているのでしょうか。

私は、「一切無一物」の真理、つまり、この世の中には、自分のものなど何一つ存在せず、わがものと思っているものは全て、神仏から一時的にお預かりしている借り物に過ぎないという真理を教えようとしているのではないかと思います。

竹取の翁は、「この子は、私達夫婦に授けて下さった子供に違いない」と言って、喜び勇んで帰って来るのですが、もし授けられた子供なら、わが子になった訳ですから、手放す必要はありませんし、月へ帰っていくのを止める事も出来る筈です。

しかし、何をしても引き止められなかったのは、かぐや姫が、神仏から授けて頂いた子でも、自分の子でもなく、お預かりした神仏の子だからであり、月からかぐや姫を迎えに来たのは、本来の親であるみ仏にお返しする時が来たからであります。

まさに竹取物語は、み仏の子であるかぐや姫が、再び生まれ故郷であるみ仏の国へ帰っていく、里帰りの物語と言ってもいいでしょうが、竹取物語のクライマックスと言ってもよいこの場面を読むと、いつも、その時が来れば、どんな事をしても引き止める事が出来ない「一切無一物」の真理を、叙情豊かに語る作者の情熱が伝わってくるような気がします。

借り物と言えば、私達が住んでおりますこの法徳寺も、借り物に過ぎません。私達は、菩薩様からお預かりして、住まわせて頂いているだけであります。

皆さんはどうでしょうか。皆さんが住んでおられる家屋敷や土地、財産、或いはご家族や皆さんの肉体は、皆さん自身のものでしょうか。

実はそれらもまた、知ると知らざるとに拘らず、み仏から一時的にお預かりしているだけの借り物に過ぎないのです。ですから、遅かれ早かれ、お返ししなければならない時が必ず来ます。

それがいつかは誰にも分りませんが、その時が来る事だけは間違いありません。それはオギャーと生まれた時からの約束事であり、すでに決まっている事です。ですから、誰にも止める事は出来ません。月へ帰るかぐや姫を引き止められなかったように。

 わがものと 思う心はうたかたの
    夢と思えよ 宿仮りの身は


人間の根源的妄想


私達はみな等しく、幸せを願っています。この世の中で、幸せになりたくないと願っている人は一人もいないと思います。

しかし、その願いとは裏腹に、世間には、悩み苦しみ、傷付いている人々があふれています。

世界同時不況で職場を追われ、路頭に迷っている人々を見ていると、まさにこの世は、お釈迦様が説かれた四苦八苦(注2)の世界そのものだと頷かざるを得ません。一部の国々では、内乱やテロが繰り返され、尊い多くの人命が犠牲になっています。

万人が万人とも幸せを願い、心豊かに生きたいと願いながら、何故そのようにはならないのでしょうか。

何故人々は殺し合い、傷付け合わねばならないのでしょうか。

それは、人間が、根源的な過ちを犯しているからです。

根源的過ちとは、自分の肉体だ、自分の財産だ、自分の土地だ、自分の家屋敷だ、自分の領土だ、自分の国だという自我我執(じががしゅう)の妄想であります。

本来無一物でありながら、われ、わが物という自我我執の妄想に取り付かれ、妄想を妄想と気付いていない事が、苦しみや争いの最大の原因なのです。

妄想から目覚めてみれば、自分のものなど何も無い事は一目瞭然です。

月面探査衛星「かぐや」から送られてきた地球の映像のどこに、国境線が見えたでしょうか。

見えたのは、漆黒の中に青く光り輝く地球と言う、私達の命を育んでくれている惑星だけです。

しかし、その光り輝く生命体の中で、ここからここは私の土地だ、ここからここは私の領土だ、私の国だと言って、醜い境界争い、国境争いをしているのが、妄想から抜け出せない人々の愚かな姿なのです。

神仏の目から見たら、誰のものでもなく、全ては神仏の掌の中にあるにも拘らず、そんな簡単な真理が分らないのです。

それは何故かと言えば、われ、わが物という妄想に取り付かれているからです。

そして、その妄想から、様々な貪りの心が芽生え、終わることの無い苦しみの底なし沼へと、人々を引きずりこんでいるのです。


有っても苦しみ、無くても苦しみ


この貪りという貪欲の周りに出来る世界が、仏教で説かれる六道(ろくどう)であります。

お釈迦様は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六つの世界(六道)を作って四苦八苦している人間の姿を、ねずみが回転車の中を果てしなく廻り続けている有様に譬えて、六道輪廻(ろくどうりんね)とおっしゃいましたが、この六道輪廻の世界から抜け出すには、われ、わが物という妄想から目覚める以外に道はありません。

世の中には、欲しい物を手に入れる事が幸せの条件だと思っている人々が大勢いますが、実はこれこそが、妄想に執われている何よりの証拠なのです。

何故なら、飽くなき欲望を追い求めている限り、欲望が叶っても苦しまなければならないからです。

ここは肝心要のところですから、しっかり心に刻んでおいて頂きたいと思いますが、欲望が叶えば、苦しみから解放されて幸せになれるのかと言えば、決してそうではなく、実はそこからまた新たな苦しみが始まるのです。

例えば、子供が欲しいと願い、その願いが叶ったとしましょう。願いが叶ったから、もうその方は悩み苦しみから解放されるのでしょうか。残念ながら、そうではないのです。子供が出来たら出来たで、またそこから新たな苦しみが始まるのです。

それは、子供が出来て幸せだった筈の人たちが、その子供に不孝されて泣いている姿を見れば、明らかではないでしょうか。可愛いわが子に虐待されたり、命を奪われる親さえ決して少なくありません。

この事実を見ても、欲しいものを手に入れる事が、決して幸せになる条件ではない事がよくお分かりになると思います。

お釈迦様が説かれた四苦八苦の中に、求めても得られない「求不得苦(ぐふとっく)」という苦しみがありますが、欲しい物を手に入れる事が幸せになる条件だと信じている人は、それが手に入らないと苦しみを感じます。

しかし、手に入ったら、それで苦しみがなくなるのかと言えば、決してそうではなく、そこからまた新たな苦しみが始まり、それがいつまでも続いていくのです。

要するに、有っても苦しみ、無くても苦しみ、手に入っても苦しみ、手に入らなくても苦しみ、欲望が叶わなくても苦しみ、叶ってもまたそこから新たな苦しみが始まるのです。

そして、この苦しみの連鎖こそが、われ、わが物という自我我執の妄想に取り付かれている人間の哀しい姿なのです。

六道の地獄から天上界へ上ったら、もうそこで終わりではなく、また地獄へ堕ちて、永遠に六道の世界を廻り続けなければならないのです。

ですから、貪欲の赴くままに果てしなく流されていく人生から抜け出さない限り、苦しみの連鎖は解けず、真の幸せは永遠に訪れないという事です。


欲望に限りなし


貪欲と言う欲は、中毒のように、人間を毒し、身も心も滅ぼす恐ろしいものです。

お酒が欲しい、お酒が欲しいと言って貪っていると、知らぬ間にアルコール中毒になっていくように、あれも欲しい、これも欲しいと言って貪っている内に、どんどん貪欲の中毒になっていくのです。

この貪欲依存症という中毒から解放されるには、貪欲と言うお酒を断つ以外に、道はありません。

勿論、人間は枯れ木ではありませんから、生きていく上において必要な欲を断つ事は出来ませんし、断つ必要もありません。

五欲と言われる、食欲、睡眠欲、色欲、財欲、名誉欲は、人類が子孫を増やし、末代までも栄えていく為にはどうしても必要な欲であり、本能とも言うべき欲ですから、断つ必要はありませんが、貪りという人間を毒する欲は、断たなければなりません。

食事を腹八分で抑えておくのは、食欲と言えますが、何杯も何杯も食べるのは、食欲ではなく、貪欲(むさぼり)であり、この貪りを抑えられないと、やがて体を壊すばかりか、わが身を滅ぼす事になります。


子々孫々に残してゆくもの


菩薩様がよく、「人間が求めるものは、生きて行く上において必要なものだけでいい。それ以上の物を求めて貪ると、必ずわが身を滅ぼす原因となるばかりか、子々孫々まで苦しめる事になる」と仰っておられましたが、いま人類が問われている事も、まさにこの事ではないでしょうか。

百獣の王ライオンでも、一頭襲ってお腹がいっぱいになれば、たとえ草食動物がすぐ傍を歩いていても襲いません。

有っても、有ってもまだ欲しい、まだ足りないと言って貪るのは、人間だけです。

しかも、その付けが自分だけでなく、子々孫々に及んでいく事に気付いていないのです。

菩薩様を仏法の道へ導かれた京都・貴船の脇坂リヨ様も、

「お金や物を残したって、いつまでもあるもんやあらしません。余分な物を残そうと思ったら、あかしません。食べるだけの生活をさせてもらったら、それでええんやと感謝せなあかしません。余分なものを残そうと思うさかい、みんな業に苦しむんどす。あれも欲しい、これも欲しいと思う心は、みんな業になって、苦しみの原因になるだけどすえ。自分だけやないんやさかい。後々まで悪う続きますえ」

と仰っておられましたが、地球温暖化がこのまま進めば、付けを回されて苦しむのは私達ではなく、私達の子孫であります。

何十年後、何百年後に生まれてくる子や孫たちは、どこに住めばいいのでしょうか。

破壊されたオゾン層から有害な紫外線が容赦なく降り注ぎ、度重なる天変地異によって家屋敷を破壊され、住む場所もなく、多くの生き物が死に絶えた不毛の地球では、先祖の一人として余りにも申し訳ありません。

貪りの文明の中で私達が今している事は、子や孫の為になるどころか、逆に子々孫々を苦しめる種蒔きになっているのです。

「私達はやがて死んでいく身だから関係ない」と言われるかも知れませんが、私達が残していった地球温暖化という置き土産は、間違いなく子や孫を苦しめ、奈落の底に陥れる事でしょう。

そして、その怒りを私達先祖にぶつけようにも、私達はもうそこには居ないのです。

子孫に残して行かなければならないのは、有り余るほどの巨万の富でもなければ、太陽の光も入らない無数の部屋を備えた豪邸でもありません。

ましてや、貪りの文明によって作り出された超高層ビル群でもなければ、地球温暖化という悪しき置き土産でもありません。

それよりも、安心して生きられる地球環境であり、大自然に包まれた故郷であります。それだけで十分であり、それ以外に胸を張って子孫に残せるものなど何もないのです。


求める事より与える事を


大自然の摂理に従って生きる時、初めて真の豊かさを享受出来るのが、この大宇宙の真理であり仕組みですが、大自然の摂理に従って生きるとは、どういう事でしょうか。

その答えは、大自然の姿を見れば、すぐにお分かりになると思います。太陽も月も星も森羅万象全てが、私達に、大自然の摂理に従った生き方とは何かを教えてくれているからです。

大自然が私達に教えてくれている事、それは、実に単純な真理であります。

要するに、何かを手に入れる事ではなく、持てるものを惜しみなく他に与える事です。しかも、それは無償の施しであり、見返りを求めない徳施でなければなりません。

「惜しみなく」とは、与えた後に何の思いも残さないという事です。

私達が幸せになる為に必要な事は、ただそれだけです。

大自然は、ただ与えるだけではなく、私達に何の見返りも求めてはおられません。全てを与え尽し、施し尽してくれています。

もし太陽から、「これだけの光と熱を与えたから、それに見合う代金を支払いなさい」と請求されたら、人類はたちまち破産してしまいます。

電力会社からは、毎月、きちんと請求書が送られてきますが、太陽から送られて来るのは、万物を育んでくれる暖かい光と熱だけです。しかも、お返し無しの人類への無償の贈り物です。

太陽だけではなく、月も星も花も緑も水も風も、森羅万象すべてが、人間に与え通しに与えて下さっているのです。人間が見向きもしない野辺に咲く草花でさえ、四季折々に美しい晴れ姿を見せて、私達の心に潤いを与えて下さっています。

求めても求めても飽きる事を知らないのは、私達人間だけです。

いかに人間が欲深いかが分かりますが、その飽くなき欲望の最大の原因が、「われ、わが物」という妄想なのです。

皆さんは、自分が持てるものを他に与えたら、自分はマイナスになると思われるでしょうか。もしそう思われるなら、そんな心配はご無用です。

何故なら、他に与える事は、マイナスの結果を招くのではなく、プラスを引き寄せる力となるからです。と言うより、与えなければ、プラスは寄って来ません。

これは磁石の原理と同じです。皆さんもご存じだと思いますが、磁石にはプラス極とマイナス極があり、プラスとマイナス、マイナスとプラスは引き合い、プラスとプラス、マイナスとマイナスは反発します。

つまり、幾ら自分がプラスにしよう、プラスにしようと懸命に努力しても、プラスにしようとすればするほど、寄って来るのはマイナスばかりなのです。

ところが、与える心を持っていると、ちゃんとプラスが寄ってくるのです。

人間が幸せに生きるには、どうすればよいか、自然は何もかもちゃんと教えてくれているのです。

求める心を、与える心に変えなさいよと。


信仰は取引ではない


人間は、「世話をしてやったのに、少しも礼を言わない」と言って、世話をした代償を求めます。「これだけお布施をしたのだから、それに見合うご利益があって当然だ」と、神仏にお布施した見返りを求めるのです。

人間はみな、心に満たされない感情を抱いています。様々な欲望もあります。

それだけならまだしも、長い人生には、人間の力ではどうにもならない出来事や悩み苦しみが立ちはだかっています。それらの様々な思いを、神仏の力によって叶えて頂こうと考えるのは、無理もない事かも知れません。

しかし、一度立ち止まって、ゆっくり考えてみて欲しいのです。

恐らく殆どの人は、信仰を、自分の願いを叶えてもらう為の手段と考えておられるではないかと思いますが、本当の信仰というものは、神仏に何かを求めたり、願いを叶えてもらう為にするものではありません。

つまり、神仏というのは、私達がお願いしたから叶えてくれ、お願いをしないから叶えて下さらないという様な存在ではないという事です。

それは、皆さんのご両親の事を考えて頂ければ、よく分ると思います。或いは、ご自分が子供の親になった時の事を考えて頂いても結構です。

親と言うものは、子供からあれこれとお願いされなくても、子供の先々の幸せを考えて、必要なものは前もって用意し、時期が来ればちゃんと与えてくれるのです。

神仏も同じです。私達が願おうが願うまいが、その子その子に応じて、最良の手立てを用意して、何とかもっと幸せにさせたいという一心で、導いて下さっているのです。

お願いしたから、初めて私達の願いに耳を傾け、願いを聞いて下さるのでは決してありません。

要するに、信仰は、神仏との取引ではないという事です。

これだけお布施したから、これだけ信仰したから、これだけのご利益を頂けるというものではないのです。

それでは、八百屋さんへ行って野菜や果物を買うのと同じです。これだけお金を払いますから、これだけのご利益を下さいと言っているのと、少しも変わりありません。

もう一度申し上げます。信仰は、決して取引ではありません。

神仏は、片時も離れずに、私達が願おうが願うまいが、ありとあらゆる手立てを以て、私達に一番良い方法を取って下さっているのです。

ただ哀しいから、求める心しか起こせない者には、その道理が分りません。ですから、いくら信仰しても、神仏のみ心に適う事が出来ず、「信仰しているのに、少しもよくなりません」という言葉を口にしなければならなくなるのです。

良くならないのが当り前です。それで良くなったら、天地が逆さまになります。

大切な事は、いつもいつも与え通しに与えて下さっている天地神仏に対し、感謝の心を忘れない事です。

「お天道さん、有難うございます。お月さん、有難うございます。お水さん、雨風さん、草花さん、有難うございます。いつもいつもこうして私たちに与え通しに与えて下さって有難うございます」と言う感謝の心が起きてきた時、初めてそこにプラスが寄ってくるのです。

求めなくても、お願いをしなくても、ありとあらゆるプラスのお計らいが寄って来るのです。

ところが、有っても欲しい、無くても欲しい、あれも叶えて欲しい、これも叶えて欲しいと、飽くなき貪欲な心で、求めるばかりだから、いつまで経ってもマイナスしか寄って来ないのです。

マイナスと言いましても、お金や物だけではありません。

病気をするとか、色々な災いや災難に遇うとか、家庭的に良くない事が続くとか、様々な不幸が寄ってくるという事です。


何故ケネディ大統領は鷹山を尊敬したのか


「わが同胞、アメリカ国民よ。国家があなたに何をしてくれるかを問うのではなく、あなたが国家に対して何が出来るかを自問して欲しい」

と訴えましたが、その言葉を借りるなら、私達は大自然やみ仏から何をしてもらうかではなく、大自然やみ仏のために何が出来るかを自らに問いかけなければいけないのではないでしょうか。

誰かに何かをしてもらおうと思うのではなく、その人の為に何が出来るか、何をさせて頂けるかを考えなければいけないのではないでしょうか。

求めるのではなく、与えるという事です。

何故なら、それが、大自然が私達に教えてくれている摂理であり、幸せを招く福の神だからです。

そして、その心のみが、子々孫々に残してゆける唯一の財産なのです。

ケネディ大統領が「あなたが国家に対して何が出来るかを自問して欲しい」と国民に訴えたのは、国民が国家から何かをして貰う事だけを考え、国家に頼っていては、国家そのものが成り立たないからです。

それは、膨大な赤字を出し続けた旧国鉄や、社会主義国家ソ連の崩壊、或いは福祉国家と言われる国々の行詰りを見れば、明らかでしょう。

国が栄えていく為には、一人一人が、国の為、お互いの為に何が出来るかを考え、実践していく事が不可欠です。

つまり、国にばかり扶養を求める国家依存の精神ではなく、お互いが助け合い、与え合い、補い合う自助、互助の精神が大切なのです。

そして、その自助、互助の精神の根底にあるのが、大自然の摂理である無償の施しと、「少欲知足」「勿体ない」の心ではないかと思うのです。

ケネディ大統領が「尊敬する日本人は誰ですか」と尋ねられ「上杉鷹山」の名前を挙げた事は前にお話しましたが、何故ケネディ大統領が鷹山を尊敬したのかと言えば、彼が、一人一人が自立し(自助)、助け合い(互助)、大自然の摂理に従って生きる時、初めて、豊かで美しい国造りが出来る事を実証した日本人だったからであります。

いま私達は、地球温暖化という人類の存亡をも左右し兼ねない重大な局面に立たされていますが、それは、裏を返せば、天地神仏が、今まで大自然の摂理に反して、貪りの赴くままに生きてきた人類に対して、警鐘を鳴らしておられるという事です。

一人一人が貪りの心を乗り越え、少欲知足の心を取り戻し、贅沢を排して、感謝の日暮らしをしなければ、子々孫々に禍根を残すとの戒めです。

しかし、神仏が警鐘を鳴らされるのは、まだ人類に救われる望みがあるからであり、望みさえもなければ、警鐘を鳴らしても無意味ですから、最初から警鐘は鳴らしておられません。

そう思えば、今回の大不況も有難いし、地球温暖化もまた有難いのではないでしょうか。神仏は、まだ人類を見放しておられないのです。

しかし、もしここで、まだ警鐘に過ぎないと言って高を括っていては、神仏のみ心に背くだけであり、何のために鳴らして頂いた警鐘か分りません。

私達は、もう一度原点に立ち帰り、大自然が示してくれている無償の施しと、「少欲知足」の心を、日々の暮らしの中で実践し、子々孫々に恥じない真の財産を残していかなければいけないのではないでしょうか。

合掌

世界同時不況に思う(1)
世界同時不況に思う(2)
世界同時不況に思う(3)
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(注1)で書かれた日本最古の物語の一つと言われ、成立年、作者とも不明であるが、最近の研究では、紀貫之が作者である可能性が高いと言われている。架空の物語ではあるが、かぐや姫に求婚する五人の公達の内、安倍御主人、大伴御行、石上麻呂の三人は実在の人物であり、また架空の人物である車持皇子のモデルは藤原不比等、石作皇子のモデルは多治比嶋ではないかと推定されている。竹取物語由来の地と名乗る地域は全国各地にあるが、竹取の翁が、物語の中で「讃岐造(さぬきのみやつこ)」と呼ばれていたとある事から、大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷、現在の奈良県北葛城郡広陵町を、物語の舞台と見るのが通説となっている。

 

『竹取物語』
編集:角川書店
角川書店 (2001/09)

 

 

 

『竹取物語絵巻 (九曜文庫蔵 奈良絵本・絵巻集成)
編集:中野幸一、横溝博
勉誠出版 (2007/07)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注2)四苦八苦とは、生老病死の四苦に、「愛別離苦ーあいべつりく」(愛する人とも別れなければならない苦しみ)、「怨憎会苦ーおんぞうえく」(恨み憎しみ合う人とも会わなければならない苦しみ)、「求不得苦ーぐふとっく」(欲しても思うように得られない苦しみ)、「五陰盛苦ーごおんじょうく」(煩悩が盛んな事によって起こる諸々の苦しみ)の四苦を加えたもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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