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魔術と欲


芥川龍之介の短編小説『魔術』は、人間の欲を題材にしたもので、谷崎潤一郎が書いた『ハッサン・カンの妖術』が下敷きになっています。

物語は、時雨の降る或る晩、主人公の「私」が、以前から魔術を見せてもらう約束をしていたインド人の魔術師マティラム・ミスラ君の家を訪ねるところから始まります。

ミスラ君は、かねてよりインドのイギリスからの独立を願い、活動しているカルカッタ生まれの愛国青年で、ハッサン・カンという有名な魔術師から、婆羅門の秘法を学んだ魔術の大家でもありました。

ミスラ君の家を訪問した「私」は、召使いのお婆さんにミスラ君の部屋へ案内されますが、その部屋は、真ん中にテーブルが一つ、壁際に書棚が一つ、窓の前に机が一つ、二人が腰掛けている椅子が二つ、そして、緑地に赤の花模様が織られたテーブル掛けの上に、うすぐらい石油ランプが置いてあるだけの質素な西洋間で、いかにも魔術が行われるのにふさわしい雰囲気の部屋でした。

ミスラ君から勧められ葉巻をくゆらせながら、「私」が、これから始まる魔術について、「確かあなたのお使いになる精霊は、ジンとかいう名前でしたね。すると、これから私が拝見する魔術と言うのも、そのジンの力を借りてなさるのですか」と尋ねると、ミスラ君は、薄笑いを浮かべ、「ジンなどという精霊があると思ったのは、もう何百年も前の事です。……私がハッサン・カンから学んだ魔術は、あなたでも使おうと思えば使えますよ。たかが進歩した催眠術に過ぎないのですから。───御覧なさい。この手を唯、こうしさえすれば好いのです」と言って、二、三度「私」の目の前で三角形のようなものを描いたかと思うと、次々と不思議な魔術が見せたのです。

例えば、テーブル掛けの花模様の花を実際につまみ上げたり、元に戻したり、テーブルの上のランプを、手も触れずに独楽のようにグルグル回したり、書棚に向って手招きして、書棚の本を一冊ずつ、コウモリが羽ばたくように飛ばし、テーブルの上に積み重ね、再び書棚の元の位置に戻したりしたのです。

呆気にとられた「私」は、先ほどミスラ君が「私の魔術は、あなたでも使おうと思えば使えるのですよ」と言った言葉を思い出し、「私でも使えるというのは、ご冗談ではないのですか」と尋ねると、「誰にでも造作なく使えますよ。唯───、欲のある人間には使えません。ハッサン・カンの魔術を習おうと思ったら、まず欲を捨てることです。あなたにはそれが出来ますか」と尋ねられたので、私は「出来るつもりです」と答えます。

すると、ミスラ君は、「魔術を教えるには暇がかかるから、今夜はここへ泊まってください」と言って、召使いのおばあさんに、お客さんの寝床の仕度をするよう、指図します。

魔術を教わってから一月余りが経った或る雨の降る晩のことです。

銀座のクラブで五、六人の友人たちとお酒を飲みながら雑談していた「私」は、友人から、魔術を見せて欲しいと頼まれ、ミスラ君から教えられた魔術を披露します。

みんなの見ている前で、暖炉の中に燃え盛る石炭を素手でつまみあげ、その石炭を床に勢いよく投げつけると、粉々に飛び散った石炭が無数の金貨となって、床の上にこぼれ落ちたので、一同は目を丸くして驚き、それが本物の金貨である事を知った狡猾な友人が、「この金貨を元手にカルタをしよう」と言い出したのです。

「私」は、「この魔術は、一旦欲心をおこしたら、二度と使えなくなるから、この金貨はすべて元に戻さなければいけない」と言って断り続けますが、最後は根負けしてカルタをやる羽目になりました。

ところが、カルタを始めると、「私」は面白いように勝ち続け、とうとう元手の金貨の倍ほども勝ってしまったのです。負け続けた友人は、怒りが収まりません。とうとう、自分も一切の財産を賭けるから、「私」にも、いままで勝った金貨すべてを賭けるよう言い出しました。

それを聞いた瞬間、「私」は、起してはならない欲心を起してしまったのです。ここで負ければ、元手の金貨と、勝って得た金貨のすべてを失くし、勝てば、相手の一切の財産を含めて、すべてを手に入れる事が出来るのだから、いま魔術を使わなければ習った意味がないと、密かに魔術を使い、カルタに勝つのです。

勝ち誇った「私」が、相手の目の前へ、勝った札を差し出すと、何と札に描かれたキングが、まるで生きているかのように起き上がり、気味悪い薄笑いを浮かべて「あばあさん、お客さんは帰られるそうだから、寝床の仕度はしなくてもいいよ」と、聞き覚えのある声で話しかけるではなりませんか。

ふと気がついて辺りを見回すと、そこは、何と「私」が魔術を教えて欲しいと頼んだミスラ君の家でした。「私」は、石油ランプの薄暗い光を浴びながら、ミスラ君と向かい合って座っていたのです。

一月も経ったと思っていたのは、ミスラ君がかけた催眠術の中で見た夢で、まだほんの数分しか経っていなかったのです。

ミスラ君は、気の毒そうな目つきをしながら、最後にこう言いました。

「私の魔術を使おうと思ったら、まず欲を捨てなければなりません。あなたは、それだけの修行が出来ていないのです」


奇跡を起す催眠術


物語の概略は以上の通りですが、気になるのは、ミスラ君が使った魔術の正体です。

「私がハッサン・カンから学んだ魔術は、あなたでも使おうと思えば使えますよ。たかが進歩した催眠術に過ぎないのですから」と言っている事から、催眠術の一種である事は間違いないでしょう。

しかし、「ハッサン・カンの魔術を習おうと思えば、まず欲を捨てなければいけません」と言っているように、欲を捨てなければ出来ない催眠術なのです。

たかが催眠術を習うのに、何故、欲を捨てなければいけないのか。その理由は、ミスラ君がおこなった催眠術を見れば、すぐ分ります。

ミスラ君は、催眠術を使って、テーブル掛けの花模様の花をつまみ上げたり、元に戻したり、テーブルの上のランプを、手も触れずに独楽のようにグルグル回したり、書棚の本を手招きして、一冊ずつテーブルの上に積み重ね、再び書棚の元の位置に戻したりしたのです。

種のあるマジック(奇術)ならいざ知らず、現実にこのような事を起すのは不可能であり、もし起せたら、それは奇跡と言っていいでしょうが、ミスラ君は、その奇跡を、催眠術の中で起したのです。

つまり、ミスラ君がおこなった催眠術は、ただの催眠術ではなく、奇跡を起せる催眠術だった訳です。

この催眠術を、あえて魔術と名付けているのは、ただの催眠術ではなく、奇跡を起せる特別な催眠術である事を示すためではないでしょうか。ただの催眠術なら、わざわざ魔術と名付ける必要はありません。

そうだとすれば、奇跡を起せる特別な催眠術を会得する為には、欲をすてなければいけないと言っている意味が分るような気がします。

何故ミスラ君は、たとえ催眠術の中であっても、欲を捨てなければ奇跡は起せないと言っているのかと言えば、奇跡は、欲と対極にあるものだからです。


この世に起す奇跡とは


人間には、五欲(食欲、財欲、色欲、睡眠欲、名誉欲)をはじめとして、様々な欲があります。欲は、人間が生きてゆく上においてなくてはならないもので、人類が進化してきたのも、欲があったからだと言っても過言ではありません。

しかし、その一方で、様々な欲が、人間を悩ませ、苦しめているのも事実です。欲がなければ、争う事も、奪い合う事もなく、人類は今よりもっと平和に暮らせたかもしれません。

その使い方を間違えなければ、これほど人類の発展にとって有益なものはありませんが、ひとつ使い方を間違えれば、人類を滅ぼしかねない危うさも併せ持っているのが、欲望という諸刃の剣なのです。

欲望の赴くままに生きてゆけば、私たちの目の前には、苦しみの世界が果てしなく続くだけです。しかも、欲望の追求によってつくる苦しみの世界には終りがありません。つまり、欲望を離れない限り、私たちには、苦しみの世界から逃れる術がないのです。

しかし、欲望を離れなければいけないと言われても、中々離れられないのが現実であり、それが、迷える凡夫の悲しい性(さが)と言えましょう。

結局、苦しみから逃れられなくてもいいから欲望を捨てる事を諦め、欲望の赴くままに生きるか、それとも、苦しみから逃れるために欲望を捨てるか、道は二つに一つしかないように見えますが、実は、第三の道があるのです。

苦しみと対極にあるのが、救い(悟り)の世界ですが、もし捨て難い欲を捨てずに、苦しみの世界から解放され、救いの世界を実現する事が出来れば、まさに奇跡と言ってもいいでしょうが、これこそ第三の道に他なりません。

ミスラ君に、「欲を捨てずに救いの世界を実現する、そんな奇跡が起せるのですか。ご冗談ではないのですか」と尋ねたら、彼はきっとこう答えるでしょう。

「起せますとも。魔術を使わずに、誰でも奇跡を起せますよ」


道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし


皆さんの中には、「欲がなければ人間は生きてゆけないし、人類の発展も止まってしまう。だけど、欲を捨てなければ救われないし、欲を捨てようと思っても中々捨てられないのが現実だ。欲を捨てずに苦しみから救われる、そんな奇跡の道があるのですか」と不思議に思われるお方もいるでしょうが、実は、欲にも、小欲と大欲(たいよく)の二つがあるのです。

小欲とは、自分だけの幸福を追求する利己的な欲です。大欲とは、欲が深い(強欲)という意味ではなく、社会全体の幸福を願い、万人の利益を計ろうとする欲の事で、人々を救うためにご苦労なさったお釈迦様やお大師様や菩薩様は、みなこの大欲に生きられたお方です。

ですから、ミスラ君が、主人公の「私」に、「魔術を習おうと思ったら、先ず欲を捨てなければいけません」と言ったのは、自分だけの幸福を追い求める利己的な小欲の事であって、大欲ではありません。

大欲を捨てる必要はありませんし、大欲を捨ててしまっては、欲を捨てずに救いの世界を実現することは出来ません。

つまり、「欲を捨てずに救いの世界を実現する」というのは、「小欲を捨てずに救いの世界を実現する」という意味ではなく、「大欲を生きて救いの世界を実現する」という意味なのです。

では、大欲を生きて救いの世界を実現するには、どうすればいいのでしょうか。

実は、この『魔術』を読んでいて、私の脳裏に浮かんだ言葉があります。それは、伝教大師がおっしゃった「道心の中に衣食あり。衣食の中に道心なし」という言葉ですが、実はこの言葉こそ、まさに「大欲を生きて救いの世界を実現する道」を示した言葉なのです。

「道心」とは、文字通り「道を求める心」で、信心、菩提心、慈悲心、良心などと言われている心です。「衣食」とは、私達の日々の生活の事で、要するに、日々の生活の中に信仰があるのではなく、信仰の中に日々の生活がなければならないという意味です。

しかし、これと正反対の毎日を送っているのが、世の中の人々で、「生活が苦しいのに、信仰など出来る筈がない。生活があって初めて信仰する心の余裕も生まれるのだ。生活が第一で、信仰は二の次だ。衣食の中に道心あり。道心の中に衣食なしだ」とおっしゃる方が、殆どだろうと思います。

これを先ほどの小欲と大欲に置き換えると、どうなるでしょうか。

伝教大師がおっしゃった「道心の中に衣食あり。衣食の中に道心なし」は「大欲の中に小欲あり。小欲の中に大欲なし」となり、世間の皆さんが考える「衣食の中に道心あり。道心の中に衣食なし」は「小欲の中に大欲あり。大欲の中に小欲なし」となります。

これでどちらが正しいか、一目瞭然ですね。社会全体の幸福を願う大欲の中には、自己の幸福を求める小欲も含まれていますが、自己の幸福を求める小欲の中には、社会全体の幸福を願う大欲は含まれていないのです。

つまり、「道心の中に衣食あり。衣食の中に道心なし。大欲の中に小欲あり。小欲の中に大欲なし」でなければいけないのであり、これが「大欲に生きて救いを実現する道」なのです。


戦わずして勝つ


世の中には、「欲を捨てては、欲しいものも幸福も手に入れる事が出来ない」とおっしゃるお方が大勢いるでしょうが、欲を捨てる事は、欲しいものや幸福を諦める事ではありません。

孫子の兵法に「戦わずして勝つ」という言葉があるように、大切なのは、「いかにして欲するものを手に入れるのが最良の方法なのか」という事です。

例えば、何かを手に入れようとすれば、誰でも、欲を起さなければ手に入らないと考えるでしょうが、これは、小欲によって手に入れる方法であって、孫子の兵法でいえば、無謀な戦争に突入するのと同じです。

しかし、欲を起さなくても、結果的に必要なものが手に入れば、それに越した事はありませんよね。「戦わずして勝つ」とは、まさにこの事で、これが、大欲によって手に入れる方法なのです。

要するに、欲を起して必要なものを手に入れようとするよりも、欲を起さなくても、結果的に必要なものが手に入るようにした方がよいという事です。

何故なら、小欲によって手に入れようとすると、必ず小欲と小欲がぶつかり合い、争いや憎しみが生まれ、お互いを傷つけ合って罪を作り、苦しまなければならないからです。それによって手に入るのは、悪業と言う万年にも続く染み痕だけです。

しかも、四苦八苦の中に、求めても得られない「求不得苦」という苦しみがある事からも分るように、小欲を起しても、欲しいものが手に入るとは限りません。むしろ、思うように手に入らないのが、現実です。

ところが、世間には、小欲をおこしていないのに、必要なものをちゃんと手に入れている人々がいます。欲を起しても得られないのに、欲を起さなくても得ている人々がいるのです。この人たちは、戦わずして勝っている人々と言えましょう。

何故、こんな不思議な事が起こるのかと言えば、それが、この世の真理だからです。

そして、この真理に従って生きる道を教えているのが、伝教大師の説かれた「道心の中に衣食あり。衣食の中に道心なし」という教えなのです。


バブル経済崩壊が証明してくれたこと


バブル経済の崩壊によって、天上界から一夜の内に、奈落の底へ堕ちた方が大勢いましたが、バブルの崩壊は、伝教大師の言葉の正しさを、ハッキリ証明してくれました。

バブル経済の真っ只中、個人も企業も、猫も杓子も、社会的使命を忘れて、お金儲けに奔走していましたが、これこそ、伝教大師の言う「衣食」(小欲、物欲、強欲)に狂った姿に他ならず、その結果が、バブル崩壊でした。

銀行は、膨大な不良債権をかかえて、青息吐息の状態に陥り、企業の倒産も、最後最悪を更新しました。

要するに、人間の生きるべき道と、企業の果たすべき社会的使命を忘れ、ただ利己的な目先の利益(小欲)だけを追求する「衣食の中に道心あり」の生き方では駄目だという事が、バブル経済の崩壊によって、ハッキリ証明されたのです。


信仰で始まり信仰で終わる


では、伝教大師の説く「道心の中に衣食あり」とは、具体的にどういう生き方を言うのでしょうか。

以前、或る方に、「道心の中に衣食ありとは、信仰の中で日々の生活が営まれなければいけないという意味ですよ」とお話したら、「法嗣様、私はすでに信仰の中で日々の生活を営んでいます」とおっしゃたので、「どのような信仰生活を送っておられるのですか」とお尋ねしたら、「毎日、仏壇の前に座って、み仏を拝んでいます」とおっしゃいました。

伝教大師のおっしゃる「道心の中に衣食あり」とは、ただ仏壇の前でお経を唱える事ではありません。朝、目が覚めた時から、夜、床につくまでの生活全てが、「道心」によって為されなければならないという事です。

目が覚めたら、まず生かされている事に感謝しましょう。耳を澄ませば、家の外から、チュンチュンと鳴くスズメの声が聞こえてきます。生きている喜びが、鳥の鳴き声と共に伝わってきます。夜の間に心臓が止まって亡くなる方も少なくないのに、自分は今日も目覚めさせて頂いた事に、まず感謝です。

次に洗面所へ行き、歯を磨き、顔を洗います。しかし、水道の蛇口をひねる前に、ここでも感謝の祈りを捧げましょう。

お水は、謂わば神の水(ご神水)です。祈れば、ただのお水が、私達の身心を養う神の水、仏の水となるのです。

ご存知のように、私達の体は、ほとんど水で出来ています。胎児は体重の約90パーセント、新生児は約75パーセント、子供は約70パーセント、成人は約60〜65パーセント、老人は50〜55パーセントが水です。不思議な事に、この地球も水に覆われている部分が70パーセントと、人間の子供とほぼ同じ割合です。地球が誕生してから46億年もの歳月が経っていますが、水分量から言えば、地球の天体年齢はまだ子供なのですね。

また胎児の内は、母親の子宮の中にある羊水に守られて成長します。胎児の内は、水の中で暮らしている事からも分るように、私達は、生まれる前から水に守られ、水と共に生きているのです。まさに水は、私たちの命の一部であり、水に支えられている命なのです。

そう思えば、毎日当たり前のように使っているお水ですが、ただのお水とは思えません。私たちの命を支えて下さっている親様の血潮であり、ご神水です。そのお水に手を合わせ、感謝の祈りを捧げても、決して罰は当りません。

洗面所へ行って水道の栓をひねり、サーッと水を流して顔を洗い、口をゆすいで終わりではなく、やはりそこに感謝の祈りがあって然るべきではないでしょうか。

食事をいただく時も、いただく前に、「有難うございます。いただきます」と祈りを捧げて、いただくことによって、食べたものが、健康な体を作る血肉となってくれるのです。

こうして、信仰と日々の生活がバラバラに為されるのではなく、生活そのものが信仰の心、感謝の心、祈りの心によって支えられていくのが、伝教大師のいう「道心の中に衣食あり」の生活なのです。


何事も感謝の心で


こう言うと、「法嗣様、それは無理です」とおっしゃる方がいたので、「どうしてですか」とお聞きしたら、「私達はお坊さんではないから、朝から晩までお坊さんのように拝んでばかりいられません。会社へ行けば仕事もあるし、そんな事は無理です」とおっしゃいました。

しかし、それは違うのではないでしょうか。例えば、会社へ行けば、確かにお仕事がありますが、大切なのは、どのような気持ちで仕事をするのかという事です。

商品を売るにしても、ただお金儲けの事だけを考えて、何とかして売りつけようというような気持ちで売るのと、買って頂く方があればこそ、こうして会社が成り立っていくのだ、売るのではなくて、買って頂くのだという気持ちで売るのとでは、気持ちの持ち方がまったく違います。

要するに、小欲で売るのか、大欲で売るのかです。売る側が、買い手の気持ちを考えず、売りたい一心で押し通せば、以心伝心で、買う側にもその気持ちが伝わり、買い手の心を変える事はできません。思い方一つで、売れるものも売れなくなるのです。


この車 親と敬え妻子と思え


車に乗る時でも、「今日もこの車を、お守りさせて頂きます」とお祈りをして乗せて頂けば、事故にも遇わないという事です。

菩薩様の法歌の中に、
  この車 親と敬え妻子と思え
    荷物背負わせ われが舵とる
 という法歌がありますが、車をただの機械と思って乗るか、それとも、自分の親や妻子と思って乗るかです。この車が親や妻子だと思えば、無謀な運転は出来ませんし、それがひいては、事故防止にもつながっていくのです。

交通安全のお守りやワッペンを車に貼らなくてもいいとまでは言いませんが、実は、その思いが車を事故から守ってくれるのです。

履物を履く時でも、「こんなに重い体を支えてくれて、ありがとう」と一言お礼を言ってから履かせていただけば、履物もきっと嬉しいに違いありません。

草履がなければ、裸足で土や石の上を歩かねばなりませんが、裸足でなど、とても痛くて歩けません。その痛みを、草履がすべて代わってくれているのです。そう思ったら、たとえ草履ひとつにでも、感謝の祈りを捧げられる人間であってほしいものです。

要するに、一事が万事で、「信仰は片手間ですればいいのだ。食べていくのが先だ。お金儲けが先だ」というのではなく、信仰の心、感謝の心、祈りの心を忘れずに、日々の生活が営まれていれば、仕事も商売も家庭も人間関係も、何もかもすべて、うまくいくゆくようになるのです。


神から授かった子


最近、子供を虐待する親が増えており、何人もの幼い命が犠牲になっていますが、これも、結局、「道心の中に衣食あり」の心が失われているからです。

子供は授かりものであり、神仏からの預かりものです。子供を預けられた親は、世の中の役に立つ人間に育てて社会に送り出さなければいけない責任があります。

菩薩さまが、出家する私の為に作って下さった歌があります。

 天地より 授けられたる御宝を
    高野の山に 送るうれしさ
  親と子の 縁となりし神の子を
    大師の御手に かえすうれしさ

この中で菩薩様が、「天地より授けられたる」「神の子」「大師の御手にかえす」とおっしゃっておられるのは、菩薩さまにとって、私は、自分の子ではなく、あくまでお大師様からお預かりした子だからです。

お大師様からお預かりした子を、お大師様にお返しする日が来たという喜びを、歌に詠われたのですが、私だけではなく、全ての子供が、神仏からお預かりした神仏の子なのです。

そのお預かりした子に、粗相して、虐待しているのが、「道心の中に衣食なり」の心を知らない今の親たちです。


信仰がわが身を守る


自分の子供をどうしようが親の権利だと言って、権利ばかり主張する親がどんどん増え、いつまで経っても、虐待されて亡くなる子供がなくならないのは、「道心の中に衣食なり」の心を知らないからです。

子供を虐待して死なせた若い夫婦が大勢いますが、これから一生、罪の重荷を背負って生きていかなければいけないでしょう。信仰があれば、罪を犯さずに済んだかも知れないだけに、残念でなりません。

よく、信仰は歳を取ってからすればいいという人もいますが、信仰は、若ければ若いほどいいのです。道心があれば、信仰がわが身を守ってくれるのです。信仰の心があれば、子供を虐待してはいけないという心も起き、信仰が、虐待を止めてくれるのです。


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