桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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仇をなす 人は菩提の道しるべ

仇を責めるな 仇でさとれよ



譲り合いの精神で


現代のように物質文明が急速に発展してきますと、いつ、どこで、どのような縁起に遇って仇となるか分かりません。

例えば、突然降ってわいたような事故や災難によって他人と相争うこともあれば、また親子、夫婦、兄弟が財産争いや、離婚、借金等々で憎しみ合ったり、嫉妬したりして、お互いに仇となることもあるのです。

しかし、こうした縁起は、決して偶然にあらわれるものではなく、宿世にその縁起に遇わねばならない因縁をお互いにつくっていると思わなければなりません。

ですから、どのような縁起で腹の立つようなことがあっても、決してその人を憎んだり怨んだりすることなく、自分にかかわる因縁の道理をよくわきまえて、仇となることは絶対避けねばなりません。

仇をなせばまたいつの日か、きっと仇となって報いてきます。仇は仇を許すことによって仇とならず、安心でしあわせな人生が得られるというものです。

三年前、山形県で、前を走る軽乗用車が道を譲らないことに腹を立てた女性が、時速約120kmで暴走して故意に追突し、軽乗用車に乗っていたご夫婦を死亡させるという痛ましい事件がありました。

また今年(平成22年)7月にも、乗用車の通行をめぐり、道を譲らなかった事に腹を立てた現役の警察官が、口論の末、相手の男性を殴って軽傷を負わせたとして逮捕される事件がありました。

いずれの事件も、道を譲らない事に腹を立てた加害者側の一方的で身勝手な犯行で、一時の軽率な行動によって招いた責任は重大と言わなければなりませんが、もう一歩待つだけの心のゆとりと度量があれば、罪を作らなくてもよかったのにと思うと、自業自得とは言え哀れでなりません。

また落ち度のない軽乗用車のご夫婦や、相手の男性が、怪我をしたり、尊い命を失くすという事は決してあってはならない事であり、このような事件が起こる度に何ともやり切れない気持ちになりますが、こうした突然の事故や災難に遇わなければならないのも、宿世の因縁と言う他はないでしょう。

「袖触れ合うも他生の縁」と言いますが、車同士が道で行き交うのも、何かの縁であり、お互いが、一歩待つだけの度量と心のゆとりを持ちさえすれば、仇となる因縁を作らずに済むのです。

私はよく車で買い物に出かけますが、道を譲ってあげると、とても気持ちが良いだけでなく、今度は他の人から道を譲って貰ったりすると、「さっそく道を譲ってあげた果報をいただけた」と、心が清々しい気持ちでいっぱいになります。

いつだったか、対向車に道を譲ってあげたら、私の後ろの車が急かすようにクラクションを鳴らしていましたが、そんな車に気兼ねなどせず、良い事は正々堂々と実行すればよいのです。

相手から「有難う」という喜びの答えが返ってくると、心が幸せな気持ちで包まれますが、まさにこの世は持ちつ持たれつであって、私などは、人にやってあげている事よりも、人からやってもらっている事の方がいかに多いかを、いつも痛感しています。

世間には、「自分は誰の世話にもならずに生きている」と豪語している人がいますが、それはこの世の真相を知らないだけで、ただの無知に過ぎません。自分のお骨さえ自分で拾う事が出来ない私たちが、どうして「誰の世話にもならない」と言えるのでしょうか。

この世の中で、誰の助けも借りずに、自分の力だけで生きてゆける人など一人もいないのです。

お互いが、助け合い、譲り合い、補い合って初めて生きてゆける人生であり、生かされている人生なのですから、その事を忘れず、自我だけを押し通さずに、譲るところは譲り、退くところは退くだけの度量と知恵を持つ事が大切ではないかと思います。


負けるが勝ち


昔から「負けるが勝ち」と言われるように、人生において一歩後退する事は決して負けを意味するものではありません。

あの大海の波が大岩をも穿(うが)つのは、一旦退くからであり、退く力が強ければ強いほど打つ力も強くなり、やがては大岩をも侵食してしまうように、人間も、その場、その時によって、後退する事も大切であり、後退の道を知っていれば、決して負ける事はないのです。

高杉晋作は、
  負けて退く人を 弱しと思うなよ
    知恵の力の 強きゆえなり
 という歌を残していますが、後退する事は決して負けを意味するものではなく、利口で勝利者なのです。

「退く者弱きにあらず」で、仮にその場は負けたと感じても、負ける事によって、最後は必ず勝利者となるのです。

徳川家康は、遺訓の中で、
  怒りは敵と思え
  勝つ事ばかり知りて
  負くること知らざれば害その身に至る
  己を責めても人を責めるな
  及ばざるは過ぎたるより勝れり
 と言っていますが、武田軍と戦った三方ケ原の合戦で、壊滅的敗北を喫した家康は、敗走した直後の憔悴しきった自身の姿を絵師に描かせ、その絵をいつも座右に置いて敗北を肝に銘じていたと伝えられています。

家康が勝つことよりも、負けることの大切さを深く悟っていた逸話ですが、戦国時代最後の覇者となって全国統一を成し遂げ、三百年間続いた徳川幕府の礎を築けたのも、負けること、退くことの大切さを、誰よりも深く悟っていたからではないでしょうか。


仇を拝めば冥利に尽きる


菩薩様は、その著『涙の渇くひまもなし』の中で、次のように書いておられます。

釈尊の弟子に周利槃得(しゅりはんどく)(注1)という人がいて、自分の名前も忘れてしまうような人であったと言われております。

ある日釈尊に、「わたくしはどうしてこんなに馬鹿で愚かな人間なんでしょうか」とたずねたところ、釈尊は「愚かな人間でありながら、愚かであることを知らない人間こそ愚かであり、愚かであることを知っている人間は、愚かでない」といわれました。そして「塵を払い垢を除かん」という一句と一本のほうきを与えて悟らされたということです。

多くの人々から馬鹿だ阿呆だといわれながらも、ただひとすじ掃除をすることによって煩悩の汚れを落とし、ついに神通説法第一の阿羅漢(注2)となったということは、あまりにも有名な話であります。そして釈尊は、多くの衆生に向かって、

「見よ、周利槃得は掃除をすることによって悟りを開いたではないか。人を見下げたり、馬鹿にする人間はいつまでも悟りを開くことが出来ず、自ら業をつくって自ら汚れ、やがてはきっと懺悔(さんげ)しなければならないときが来るであろう」

と、いましめられたということであります。

わたくしたちは人からいろんなことを言われても、そのことによって腹を立てたり、怒ったりしていては、内面(うち)に業毒が生じて来てあらゆる障害となって来ます。それだけに、人から悪口を言われても、人の悪口をいう人間にだけはならないでいたいものです。また、人から悪口を言われたり、責められたり、批判されたりしているうちは、まだまだ徳行(おこない)が足らないのだ、罪業(つみ)の果たしが済んでいないのだと思わせていただき、一生懸命功徳を行じていれば悪業(ごう)をつくらず、心はつねに安穏であります。

たとえ人から悪口を言われても、悪口を言われる自分が悪いのだ、悪口を言わせて申し訳ありません、とまでに懺悔して真心をみがかせていただくところに、尊い悟りがあり、仇を拝んで冥利に尽きるということがいえましょう。

 阿呆阿呆と 言われても
    ほうきと塵に 感謝して
    槃得心の 垢落す
  人に悪口 言われても
    人の悪口 いうじゃない
    言えば業毒 身を責める
  口、耳、目、鼻 それぞれに
    正しい役割 しないとき
    やがては不自由な 身とぞなる
  人間言葉の つかいよで
    成り立つことでも 成り立たぬ
    和顔愛語(注3)で 暮らしましょう
  一たす一は 二となる
    人間たしても 二にならぬ
    交わる心が 一となる

周利槃得のように、自分の愚かさや弱さを知り、人より一歩も二歩も退く度量を持って時節の到来を待ち、黙々とたゆまぬ努力精進を怠らぬ人こそ、真の勝利者と言えるでしょう。


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高杉晋作

 

 

 

 

 

 

敗北直後の徳川家康

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注1)十六羅漢の一人に数えられ、神通説法第一と言われている。周利槃得は、釈尊の弟子の中で最も愚かであった為に「愚路」とも呼ばれたが、過去世において、迦葉仏(かようぶつ)の弟子の中でも、非常に聡明な弟子であった彼は、迦葉仏の説法を暗誦できない他の弟子たちを嘲笑ったため、その報いによって、釈尊の弟子の中でも最も愚かな弟子と言われるほど、愚かな身に生まれなければならなかったと言われている。

 

(注2)阿羅漢(羅漢)とは、仏教で到達し得る最高の位である阿羅漢果を得た修行者のこと。その中でも特に仏法を護持する事を誓った16人の阿羅漢の事を、十六羅漢という。十六羅漢には、周利槃得の他には、賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)や、釈尊の子である羅喉羅(らごら)が数えられているが、羅喉羅は釈迦の十大弟子の一人にも数えられている。

 

(注3)仏教では、財施、法施、無畏施(むいせ)の三つを三施と言う。財施とは富める人が貧しい人々に金銭や衣類、飲食などを施すことを言い、法施とは正しい法(おしえ)を説き聞かせて迷いを転じて悟りを開かせることを言い、無畏施とは、他人が危難急迫するときに、わが身や財産を顧みず、これを投げうって救済することを言う。
施すべき財も、説くべき教えも、自らを捨てて他を救済する覚悟もなければ布施行は出来ないのかと言えば、そうではなく、誰にでも出来る布施行がある。それが、「無財の七施」といわれる次の布施行である。
1、慈眼施(じげんせ)─慈しみに満ちた優しいまなざしで相手に接すること。
2、和顔施(わがんせ)─いつも穏やかな笑顔で相手に接すること。
3、愛語施(あいごせ)─優しい思いやりのある言葉で相手に接すること。
4、身施(しんせ)─身体を使って出来る奉仕を相手にしてあげること。
5、心施(しんせ)─相手の気持ちになって心配りをすること。
6、床座施(しょうざせ)─自分の席をすすんで相手に譲ってあげること。
7、房舎施(ぼうしゃせ)─雨風をしのぐ場所を提供したり、傘を差しかけてあげたりすること。
これらの布施行は、すべて、自らの幸せのためにさせて頂く功徳行であって、相手の為にする行為ではないから、見返りを求めたり、世話をしてやったというような気持ちがあれば、それは取引となって、布施行ではなくなってしまうので心しなければならない。

 

 

 

 

 

 

 


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