桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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肉身の 生死(しょうじ)を見るは愚かなり

心の生死を 生死とぞいう



脳死は人の死か?


以前、「脳死を人の死とすべきか否か」について、賛否両論入り乱れて盛んに議論され、脳死を人の死とする考え方には、今も根強い反対意見がありますが、一連の脳死議論を聞いていておかしいと思ったのは、「脳死を人の死とすべきか」という問いかけです。

何故なら、この問いかけは、心身一如(注1)の存在である人間の死と、人間の一部である肉体の死を混同しているように思えてならないからです。

私達には、肉体の他に、心というもう一つの側面があり、心身一如の存在として生きているのが、私達人間です。人間が生きているとは、肉体が生きている事ではなく、心身一如の存在としての全人格が生きている事に他なりません。

お腹の痛みが中々治まらないので、胃癌ではないかと思い込み、心配で医者にも行けなかった知人がいますが、次第に食欲もなくなり、体重も減少してゆくので、覚悟を決めて精密検査を受けたところ、ただの胃炎と分かり、安心した途端に、食欲が戻り、元の体重に戻ったという、笑うに笑えない話があります。

お腹の痛みの原因は、ただの胃炎だったにも拘らず、この知人は胃癌だと思い込み、心を病んで食欲がなくなり、体重がどんどん減少するという悲劇に見舞われたのですが、この例を見ても分かるように、私達の身体は、思い方一つで、不調をきたしたり、減少した体重が元に戻ったりするのです。これは、心と身体が一体だからであり、そうでなければ、いくら心が不安にさいなまれても、それによって身体が影響を受ける筈はありません。

心の持ち方一つで、病気になったり、病気が治ったりする事実を直視すれば、心と身体を分けて考える事がいかに不合理であるかが分かります。

「脳死を人の死とすべきか」という議論は、臓器移植を念頭において為されている事は周知のところですが、臓器移植は、私達の心と身体を二つに分け、人間を臓器という身体の一部の提供者として見ようとするもので、その背景には、心身一如の存在である人間を、ただの肉体的生命体としてしか見ない唯物思想(注2)があるように思えてなりません。

確かに臓器移植は、移植以外に助かる望みのない人々にとっては、まさに生きる為の唯一の道と言えましょうが、いまもお話したように、私達は、肉体だけで生きているのではなく、また肉体だけで生きてゆける筈もないのです。

肉体だけで生きているのでない以上、肉体の死は、私達にとって、あくまで死の一部に過ぎません。私達には、肉体の死のほかに、心の死という、もう一つの死の側面がある事を忘れてはならないと思います。

心を病めば、身体まで病むように、心が死ねば、たとえ身体は生きていても、それは人間にとって死んだも同然なのです。しかし、心が死んでいなければ、身体が有ろうが無かろうが、人間は決して死ぬ事はないのです。

脳死を人の死と見なすのは、まだ心臓が動いている脳死段階の内に、移植に必要な臓器を取り出さなければいけないからでしょうが、人間の死を問うならば、脳死か心臓死かではなく、その人の心が死んでいるか、生きているかを問わなければいけないのではないでしょうか。


心の生死を生死とぞいう


人はみな、死を忌み嫌います。しかし、人が忌み嫌う死は、肉体の死だけであって、心の死ではありません。誰もが忌み嫌う死の中に、何故か心の死は入っていないのです。これは、考えてみればおかしな話です。何故なら、私達の人生を大きく左右するのは、肉体の死よりも、むしろ心の死の方だからです。

先ほどの知人ではありませんが、私達は、心が病めば身体まで病む心身一如の存在であるからこそ、いかなる状況に置かれても心を病まないよう、そして心を死なせないよう、常日頃から心の健康に留意しなければなりません。

私達が忌み嫌わなければいけないのは、肉体の死ではなく、心の死であり、だからこそ、心が生きているか、死んでいるかに、もっと関心を払うべきではないかと思うのです。

ご承知のように、お釈迦様もお大師様も菩薩様も、肉体を持っておられないにも拘らず、いまも生き続けておられます。

仮に肉体の死を人間の死とするなら、お釈迦様もお大師様も菩薩様も、すでに死んでおられる事になりますが、お釈迦様もお大師様も菩薩様も、いまなお生き続け、苦しむ人々に救いのみ手を差し伸べておられると信じられているのです。何故でしょうか。

それは、人間の生死を決めるのは、肉体の生死ではないからです。私達には、肉体の他に、仏性(仏の魂)という永遠に滅びないもう一つの命が与えられているのです。人間だけではなく、森羅万象すべてに、この仏性という命が宿っています。

涅槃経には、「一切衆生悉有仏性」、つまり、全ての衆生には、ことごとく仏性が具わっていると説かれていますが、もしみ仏に「人間の死とは何ですか」を問えば、きっと「それは、仏性の死、心の死だよ」という答えが返ってくるに違いありません。

仏性の死と言っても、仏性が消滅する事ではなく、仏性が眠っている状態の事であり、また仏性が生きているとは、仏性が目覚めている状態の事を言いますが、この仏性が目覚めているか眠っているかによって、人間の生死が決まり、幸不幸が決まると言っても過言ではありません。
  肉身の 生死を見るは愚かなり
    心の生死を 生死とぞいう

心が生きているか死んでいるか、それによって人間の生死が決まるのですが、その観点から世の中を見てみると、たとえ肉体は生きていても、仏性の死んでいる人、心の死んでいる人が大勢います。

その反対に、お釈迦様やお大師様や菩薩様のように、肉体はなくても、仏性が今も生き続けている人もいるのです。


花の心(仏性)を救う


仏性に目覚め、仏性が生きている人の事を、仏と言い、仏性が眠っている人の事を凡夫と言いますが、仏も凡夫も、みな人間です。人間が仏にもなれば、凡夫にもなるのです。

人間の幸不幸は、この仏性が目覚めているか、眠っているかにかかっていると言ってもいいでしょうが、だからこそ、み仏は、この眠っている仏性を目覚めさせようと、様々な救いの御手を差し伸べておられるのです。

肉体の死を救おうとするのでなく、仏性の死、心の死を救おうとしておられるのが、み仏です。

菩薩様がよく、「もし皆さんが、お寺へ来たら、病気も治るだろう、何もかもよくなるだろうと思っているのであれば、とんでもないことですよ。ここは肉体の病気を治すところではありません。心の病を治すところです。仏性を救うところです。心が救われたら、肉体の病も救われるかも分かりませんが、大切な事は先ず心が救われる事です。仏性が救われる事です。仏性が救われないのに、心が救われないのに、どうして救われますか」とおっしゃっておられましたが、まさにその通りであって、いくらみ仏といえども、死んでゆく人の命をつなぎ止める事は出来ません。

菩薩様が、
  み仏は 花の散るのは助けねど
    花の心を 助くるという
 と詠っておられるのは、その為であり、み仏は、花の心、人間の心、私達の仏性を救って下さるという事です。

もし心が救われ、仏性に目覚める事が出来れば、肉体が有ろうが無かろうが、そんなことは大きな問題ではありません。大切な事は、仏性に目覚め、心が救われる事であり、病まない心、死なない心を成就する事です。


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(注1)心身一如(しんしんいちにょ)とは、心と身体は一体のものであるという考え方で、心と身体が一体となって互いに補い合い、支え合いながら、一つの生命体として生きている人間の本質を表現したものである。仏教において「三毒煩悩」と言われる貪(むさぼり)、瞋(いかり)、痴(ぐちしっと)の心は、私達の身体に、様々な悪影響を及ぼしているが、これは、人間が心身一如の存在であるからであり、また思い方一つで、病む身体を回復させる事も出来るからこそ、いかなる病に見舞われても、それによって心を病まないよう、日頃から、健全な心を養い、生き甲斐に満ちた精神生活を送る事が大切なのである。

 

(注2)この世のすべてを、物質的現象の現われとする考え方で、感情や意志なども脳の活動の結果に過ぎないとする。それに対し、物質が存在し得るのは、心(意識)がその存在を認めるからであり、心(意識)が物質の存在を決定づけているとする考え方を、唯心論という。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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