桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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み仏の 法の功力(くりき)をたずぬれば

清き心の すがたとぞ知る



己が心の清きみすがた


菩薩様は、人生のどん底から救いを求めて京都の鞍馬山へ行かれた折、貴船へと導かれ、脇坂リヨ様というお方と宿命的な出会いをされましたが、その時の事を次のようにおっしゃっておられます。

鞍馬へ行った時に、脇坂リヨ様と言われましたが、そのお方が「お釈迦様があなたに手伝いをさせたいんや」と言われてましてね。

「他の人に見込まれたんじゃなくて、神仏に見込まれたんだから、他のことをしようと思ってみても、自分の志はみんな崩れていくよ。どのみち駄目なら、この道でいかんかい」と、こう言われたんです。

女の人ですがね。どのみち駄目だということが分かっていたんでしょうね。初めて会ってそう言われました。優しい方なんですが、そう言われる時の言葉はすごかったですね。

そして
  法の功力(くりき)は どこにもあらじ
    己が心の 清きみすがた
 と言われたんです。その時、パーッと後光が射したように思いましたね。

法の功力というのは、結局どこにもないんです。幾ら法を聞いても、自分が悟らなければ駄目なんです。

「法の功力はどこにもあらじ」という事は、大自然の有様を幾ら見たところで、それを悟らない事には、功力にはならないんです。自分の心が清くならなければ、法も心に宿らないんです。

菩薩様は、「この言葉を聞いた時、後光が射したように思った」とおっしゃっておられますが、それまで菩薩様は、「一心に信仰さえしていれば、その内、神仏が救って下さるだろう」と、救いを心の外に求めておられたのではないでしょうか。

ところが、脇坂リヨ様の口から、「あんたが求めている神仏の救いなんか、どこにもないよ」という、菩薩様にとって、まさに青天の霹靂(へきれき)とも言うべき言葉が返ってきたのです。

今まで神仏の救いを求めて信仰してきたのに、脇坂様からいきなり「法の功力はどこにもあらじ」「神仏の救いなんかどこにもないよ」と言われたのですから、地獄に突き落とされたような気持ちになったとしても不思議ではありません。

ところが、菩薩様はむしろその反対に、「後光が射したように思った」とおっしゃっておられるのです。何故そう思われたのでしょうか。

もし「法の功力はどこにもあらじ」だけであれば、菩薩様は、間違いなく地獄へ突き落とされたような気持ちになられたでしょうが、その後に続く「己が心の清きみすがた」という言葉が、菩薩様の心に大きく響いた事は間違いありません。

法の功力は どこにもあらじ
   己が心の清きみすがた
 とは、「神仏の救いを、心の外に求めても、そんなものはありませんよ。清くなったあなたの心に、神仏の救いが入ってくるのですから、自分の心を清めなければ、神仏の救いはどこにもありませんよ」という意味ですが、「その時、後光が射したように思った」という言葉に、菩薩様の感動の大きさがよく現れています。

その出会いを境に、仏法を求める菩薩様の貴船通いが始まった事は言うまでもありませんが、菩薩様の口を突いて、御法歌(道歌)が次々と出てくるようになったのは、その頃だったと思います。

本を書いていても、寝ていても、お風呂に入っていても、何をしていても、まるで蜘蛛が糸を吐くように、次々と真理を詠った御法歌(道歌)が出てくるようになったのです。

紀州高野山へお参りされ、本山のお方に、「考えなくても、歌がどんどん出てくるのです」と話されたところ、「それは、魂がどんどん清まっている証拠ですね」と言われたそうですが、脇坂リヨ様と遇われた昭和48(1973)年から、御入定される平成2(1990)年までの約17年間に、菩薩様の口を突いて出てきた御法歌(道歌)は、三千首余りにのぼっています。

いまにして思えば、これらの御法歌はすべて、「己が心の清きみすがた」に目覚められた菩薩様の仏性の現われそのものと言ってもいいでしょう。


加持感応の妙


お大師様は、『即身成仏義』の中で、「加持とは、如来の大悲と衆生の信心とを表わす。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく」と説いておられますが、脇坂リヨ様が菩薩様に説かれた
  法の功力は どこにもあらじ
    己が心の 清きみすがた
 という言葉は、まさにこの加持力を現わしたものと言えましょう。

「加」とは、苦しむ人々を救おうとする仏の慈悲心、つまり「法の功力」を現わし、「持」とは、仏の救いの御光を感受する私達の心(信心の深さ)、つまり「己が心の清きみすがた」を指していますが、この二つは、車の両輪の如きものであり、いずれが欠けても救いの証果は得られず、加持感応の妙も現われません。

世間にはよく「この世には神も仏もいない」と言って、不幸の責任を神仏に転嫁している人がいますが、救われないのは、神仏が救って下さらないからでも、この世に神仏がいないからでもなく、まだその人の心が清まっていないからなのです。

心の垢が洗い流されていなければ、救いのみ光は入ってきません。神仏は、因縁を解いて救おうとしておられるのですが、自らが心を清めなければ、幾ら「法の功力」があっても、救いのみ光は入らないのです。

菩薩様が、
  神仏に 頼む心があるならば
    曇りのぞけよ 己が心の
 と詠っておられるように、神仏に救いを求めなくても、心を清めれば、自ずと神仏の救いが入ってくるのです。

「求めよさらば開かれん」と言う言葉がありますが、自分の心さえ清まれば、求めなくても救いが向こうから飛び込んで来るのです。福の神の方から飛び込んで来るのです。

大切な事は、求める事よりも、自らの心を清める事であり、「己が心の清きみ姿」になることです。

心だに 誠の道に叶いなば
   祈らずとても 神や守らん
 という古歌がありますが、心さえ誠の道に叶っていれば、救いを求めなくても、ご利益を求めなくても、神仏はそういう人間をこそ、守って下さるのです。

「お守り下さい」と一生懸命お願いしたから守られるのではなく、心が清くなっていけばいくほど、神仏は放っておかないのです。そんな人ほど放っておかないのです。


自ら清まらずして救いなし


春になれば芽ばえ、夏になれば若葉となり、秋になれば紅葉し、冬になれば散っていくのが大自然の有様も、悟らなければ、ただの自然現象に過ぎません。

しかし、木の葉が散るのを見て、「人間もやがて木の葉のように散っていくんだ。木は、自分の足元に木の葉を散らして自分の肥やしにする事で、功徳を積む事の大切さを教えてくれているんだ。青葉と繁って人間に涼しい風を送ってくれているのは、人の役に立つ事をしなさい、他人の事を思いなさいという事を教えてくれているんだ」と悟る事が出来れば、大自然の有様が、み仏の大悲の説法となって聞こえてくるのです。

大自然は、一つ一つの有様を通して説法して下さっているのですが、それを受け取る私達が、心を清める事を忘れていると、折角の説法を聞く事が出来ないのです。

菩薩様は、『道歌集』の「自浄心(自ら心を清くする)」中で、

「叶わぬ時の神頼み」と言いますが、その頼み信心の中にも仏を知り、自分の愚悪に 気付いて清浄となる事が、法の功力であり、救済なのです。
  み仏の 法の功力を尋ぬれば
    清き心の すがたとぞ知る

と説いておられますが、み仏に、「法の功力はどこにあるでしょうか。救いはどこにあるでしょうか」と尋ねたところ、「自分の心を清くする事だよ。自分の心を清くすれば、それが救いなのだよ。自分が心を清め、変わらない事には、何も変わらないし、救いもないのだよ」という答えが返ってきたと言うのです。

み仏は、「苦しいから、助けて下さい」と言って、救いを求める声に応えて、苦しむ人々を救いたいし、救われて欲しいのです。しかし、幾ら法薬があっても、飲まなければ効き目は現われません。

私がこうしてお話するのは、「この薬はこんな効き目がありますよ」という効能書きの説明に過ぎません。説明を聞いて、薬を飲むのは、皆さん一人一人なのです。

薬を飲まなければ、幾ら薬が有っても無いのと同じように、「清き心のみすがた」とならなければ、「法の功力」は無いのも同然なのです。


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