桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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み仏は 誰と彼とのへだてなく

持てる法薬 与えすくいぬ



お大師様、菩薩様は分け隔てをされるのか?


以前、「今までお参りさせて頂き、御説法も聞かせて頂きましたが、他の方が色々なお計らいを悟られて救われていくのに、私は少しもお計らいを悟らせて頂けません。お大師様、菩薩様は、分け隔てをされるのでしょうか」と仰った方がおられました。

そこで、「説法を、自分の身に置き換えて聞いておられますか。たとえ他人の話でも、自分に言われていると思って聞いておられますか。長い間、お参りされたと言われますが、法を求め、救いを求めてお参りされましたか」とお尋ねすると、「他人事だと思って聞いていました。法を求める心もなく、ただ何となくお参りしているだけでした」という答えが返ってきました。

このお方は、ただ説法を知識として耳で聞いておられただけで、自分の身に置き換えて聞いておられなかったのではないでしょうか。

「耳で聞いて、心で聞かず」という言葉がありますが、どのような御説法でも、いかなるお計らいでも、それを自分の身に置き換えて受け止めるか、他人事だと思って聞き流すかによって、救いの道は大きく変ってゆきます。

お大師様、菩薩様は平等利益であって、どの人にも、この人にも分け隔てなく、救いの御手を差し延べておられるのです。

しかし、いくらお大師様、菩薩様が救いの御手を差し延べておられても、その御手をつかまなければ、救いの道は開けません。

救われる人と救われない人がいるのは、救いの御手を差し延べて頂ける人と、頂けない人がいるからではなく、差し延べられた救いの御手を握る人と、握らない人がいるからなのです。決して、お大師様、菩薩様が、苦しむ人々を分け隔てしておられるからではありません。

太陽の光が、老若男女のへだてなく、善人も悪人も平等に照らしてくれているように、み仏の普き救いの光明は、全ての人々に隈なく降り注がれているのです。しかし、自ら心を閉ざしていては、光の恵みを頂く事は出来ません。


一休禅師と蓮如上人の問答


とんち和尚で有名な一休禅師と、蓮如上人の間に、こんな逸話が残っています。ある時、一休禅師が、蓮如上人にこんな歌を送ったと言われています。

 阿弥陀には まことの慈悲はなかりけり
    頼む衆生を のみぞ助くる

一休禅師が、「阿弥陀如来には、衆生をへだてる心はないと言うけれども、何故世の中には救われる人と救われない人がいるのか。阿弥陀如来には誠の慈悲がないのではないか」と言って、蓮如聖人に問いただされたのです。

そこで蓮如上人は、

「阿弥陀様は、全ての衆生を分け隔てなく、平等にお救いしておられます。しかし、いくら阿弥陀様が救いの光明を降りそそいでおられても、衆生が心を開かなければ、蓋をした水に月影が映らないように、救いの御光を頂く事が出来ません。阿弥陀様の救いの御光を頂くには、自ら心を開かなければならないのです」

と言って、次の歌を一休禅師に返したと言われています。

 阿弥陀には へだつ心はなけれども
    蓋ある水に 月は宿らじ

菩薩様が御説法なさった時も、法嗣様が法を説かれる時も、全ての人に平等に説いておられる事は言うまでもありません。この人だけを救おう、あの人だけを救いたいと思いながら、法を説いておられる訳ではありません。全ての人々を平等に救いたいという一心で、法を説いておられるのです。

しかし、法を受け取る人々の心は、様々です。苦しみを背負っておられるお方もいれば、まだ苦しみのないお方もおられます。苦しみを背負っておられるお方は、救いを求める心が強く、法を聞く態度も真剣ですが、まだ苦しみを頂いておられないお方は、救われたいという思いがまだ切迫していませんから、法を聞くと言っても、まだ他人事に過ぎません。

渇き切った大地に水を撒けば、瞬く間に吸収されますが、大雨の後の大地に水を撒いても吸収されないのと同じ事で、同じように説法しても、法を受け取る人々の苦しみの深さや、救いを求める心の強さの違いによって、法が入る人と、法が入らない人がいるのです。

どんどんお計らいを悟って救われていく人と、中々救われていかない人がいるのは、その為です。

ですから、長い間、一生懸命に信仰してきたのに、少しも救って頂けないと言って、それを、み仏の責任に転嫁するのは、本末転倒といわなければなりません。

自分の心の中を覗いてみれば、きっと「まだ法を受け入れていないよ。心を閉ざしているよ」という答えが返ってくる筈です。


三つのグループ


以前、すでに発刊された救済誌も読みたいので是非、創刊号から再刊して欲しいとのご要望が多数寄せられましたので、創刊号から第五号までを再刊させて頂いた事がありますが、その時、法嗣様は、説法の中で、菩提心(注1)を起す事の大切さを説かれ、お知り合いや、苦しんでおられるお方にも差し上げて下さいというお話をされました。

すると、創刊号を持ち帰られたお方が、三つのグループに分かれたのです。

第一のグループは、「創刊号は、すでに頂いておりますから、結構です」とおっしゃって、持ち帰られなかったお方です。恐らく、「他にも必要とされる方がおられますから、私が頂いたら申し訳ありません。私はすでに持っていますので、二冊も要りません」という意味でおっしゃったのでしょうが、この方々は一見、他人様の事を考えているようで、実はまだ自分以外の人々に救済誌をお接待しよういう菩提心を起こしておられません。

第二のグループは、「家族に持って帰りたいので、家族の分だけ頂きます」と言って、ご家族の人数分だけ持って帰られたお方です。この方々は、たとえ相手が家族であっても、自分以外の人に読ませてあげたいと思われたので菩提心を起こされたと言っていいでしょうが、家族は自分の身内ですから、この人たちもまだ本当の意味で菩提心を起こしたとは言えないでしょう。

第三のグループは、「自分の知り合いにあげたいから、お友達の分を頂いて帰ります」と言って、お友達に持って帰られたお方です。この方々は、自分の事より、他人様の事を考えておられますから、菩提心を起こしたと言っていいでしょう。ただ残念なのは、このグループの方々の菩提心も、救済誌をお接待したい相手が、友人という狭い範囲に止まっている事で、この方々の菩提心もまだ弱いと言わなければなりません


菩薩様の問いかけに答えられたお方


こうして再刊した創刊号をお持ち帰り下さいとお話したところ、三つのグループに分かれたのですが、実は、この三つのグループに属されないお方が、お一人だけおられたのです。

このお方は、「今までこんな有難い仏法に遇わせて頂いた事がありません。私だけがこんな有難い仏法を独り占めしては申し訳ありませんので、まだ仏法に遇えずに苦しんでおられるお方に是非この仏法を伝えさせて頂きたいのです。ですから、残った救済誌を全部頂けたら有難いのですが」と仰って、残りの救済誌を全部持って帰られたのです。

このお方の心こそ、苦しむ全ての人々を相手とする真の菩提心であり、縁者のみならず、無縁の衆生をも包み込む誠の慈悲心と言っていいでしょう。

いずれにしましても、法嗣様が説法の中で、「自分の事よりも、他人様の事を先に考えてあげて下さい。これが、菩提心ですよ。菩提心を起こさなければ救われませんよ」と仰って、菩提心を起す事の大切さを、お参りされた皆様全員に分け隔てなくお話されたところ、同じ話を聞かれた皆さんの中で、これだけの違いとなって現れたのです。

法嗣様は、「残りを全部持ち帰りたいのです」と仰ったお方だけに、お話された訳ではありません。お参りされた皆さん全員に、分け隔てなく説法なさったのです。

いま考えますと、この創刊号のお接待は、菩提心を起こして下さいという説法を、どこまで自分の身に置き換えて、真剣に聞いているか、他人事ではなく自分に言われていると思って聞いているかを問いかける菩薩様のお計らいだったと言えましょうが、その問いかけに、百パーセント応えられたお方は、残念ながら、そのお方ただお一人でした。


学者・金持ち後回し


天理教教祖の中山みきさんが仰った「学者、金持ち後回し」という言葉がありますが、これは、神仏が分け隔てをして、学者とお金持ちの救いを後回しにされるという意味ではありません。

神仏の救いの御光は、学者も無学者も、富める人も貧しき人も、分け隔てなく照らして下さいますが、同じように救いの御光に照らされていても、法を受け入れる心の素直さや、救いを求める一念の強さによって、早く救われていく人と、救いの遅い人が出てくると言う事です。

学者は、才能に優れ、知識も豊富であるが故に、それが邪魔をして、法を素直に受け入れる事が難しく、またお金持ちは、傲慢で自我が強く、苦しみもないため、救いを求める心が足りません。

全ての学者とお金持ちがそうではありませんが、才能も知識も乏しい人々や、生活することさえままならぬ貧しい人々の救いを求める心に比べれば、まだまだ苦しみが切迫しているとは言えないでしょう。

神仏は、決して分け隔てをされる訳ではありませんが、いま苦しみのどん底で喘いでいる人、切実に救いを求めている人の方が、救いの御光を受け入れる心の器が出来ているから、真っ先に救われていくのです。

大切な事は、救いを求める心の切実さ、法を求める一念の強さであり、この切実さ、強さの違いが、救いの遅速となって現れてくるのです。


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(注1)菩提心とは、自分の事よりも、まず相手の事を思い、その人の為に自分が出来る事をしてあげたいと思う心。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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