桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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身なきあと 神や仏とあおがれて

人世を照らす 人もあるなり



人間の生死は、何を基準に決められるべきものでしょうか。以前、脳死が人の死か否かが盛んに論議された事がありますが、脳死問題は人間の死ではなく、単に人間の一部である肉体の生死を問題にしているに過ぎません。人間には、仏性という不滅の命が宿っている事を忘れてはならないと思います。

そして、人間の生死を決めるのは、肉体の生死ではなく、その仏性が目覚めているか、眠っているかなのです。
  肉体の 生死を見るは愚かなり
    心の生死を 生死とぞいう

つまり、その人が生前どのような生き方をしたか、どこまで仏性に目覚めて生きたか、それによって人は生きもすれば死にもするという事です。

その証拠に、お釈迦様やお大師様や菩薩様のように、肉体がなくても生き続けておられるお方もおられるのです。
  穢れ身を もちて己れのためばかり
    生きる人をば 死人とぞいう

菩薩様は、「自己のために生きるより、人の為に生きよ。それが真に生きる事であり、引いては心が救われ、自己が照らされることである」とおっしゃっておられますが、私たちは、たとえ肉体はなくとも、神や仏と仰がれて人世の闇を照らし続けているお方がおられる事を忘れてはなりません。

明治維新の影の立役者、吉田松陰もそのお一人ですが、松蔭は、人間の不生不滅について『死なぬ人』の中で、次のように述べています。

「さて死なぬ(不生不滅)と申すは、近く申さば釈迦、孔子と申すお方は今日まで生きてござる故、人が尊みもすれば、有り難がりも恐れもする。楠木正成公じゃの大石良雄じゃのと申す人は、たとひ刃物に身は失われても、今以て生きてござるではないか」
  身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも
    留め置かまし 大和魂

たとえ肉身は武蔵の野辺に朽ち果てるとも、わが魂は永遠に滅びないと悟り切った松蔭は、悠々として刑場の露と消えてゆきましたが、身を捨てて国家の為に生きた松蔭の一念は、やがて明治維新の大業となって見事実を結び、その精神は、今の世に神として崇められ、人々を照らし続けているです。

吉田松陰が国家の為に生きたお方なら、お釈迦様、お大師様、菩薩様は、苦しむ衆生のため、人類の為に生きられたお方であり、今も生き続けておられるお方と言えましょう。

お釈迦様が御入滅なさって早や二千五百年以上の歳月が流れているにも拘らず、未だに多くの人々から「お釈迦様、お釈迦様」と言って慕われているのは何故でしょうか。

お大師様が紀州高野山に御入定なさったのは、千年以上も前ですが、お大師様の御威徳が普く光り輝く高野山や四国霊場をはじめ、全国津々浦々の御霊跡に、今も救いを求めて参る人々の列が絶えないのは何故でしょうか。

それは、お釈迦様やお大師様が、今も生きて苦しむ人々を救っておられるからであり、死んでおられないからであります。今も生き続けておられるのは、肉体があるからではなく、わが身を捨てて人世の為にご生涯をささげられたその一念(仏性)が生き続けているからなのです。


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