桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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納骨堂「帰郷庵」





進む家庭崩壊


昨年(平成22年)7月29日、東京都足立区の民家で、東京都内では最高齢者と言われていた戸籍上111歳の男性の遺体が、ミイラ化した状態で発見され、世間をアッと驚かせましたが、その後、百歳以上の行方不明者が数百人いる事実が明らかとなるばかりか、年金を詐取する目的で、親の遺体を白骨化するまで放置するという前代未聞の事件が相次ぎました。

長寿世界一と言われ、老人が幸せに長生き出来る国としてのイメージは、見るも無残に崩れ去ったという他はありませんが、独居老人の孤独死が増えている背景にも、このような行方不明の高齢者が関係しているのかも知れません。

思えば、日本人は、昔から先祖を敬い、親を尊び、お盆やお彼岸には有縁の家族親族が集ってお墓参りや年忌供養を勤め、親から子、子から孫へと、敬いと供養の心を伝えてきました。

しかし、昨年明らかになった一連の事件は、家族を結ぶ心の絆がすでに断ち切られ、家庭崩壊が加速度的に進んでいることを、改めて私たちに印象づけたのであります。

「生死(しょうじ)」「死生(ししょう)」という言葉があるように、仏教では生きる事と死ぬ事を一体のものと捉えています。

つまり、生きる事は、死にゆく事であり、死を見つめる事は、人生を豊かに生きるために不可欠であるというのが、仏教の死生観なのです。

現代人が、余り死と向き合わなくなったと言われる背景には、そのような死生観の欠如が影響しているのかも知れませんが、自己の死に無関心であるのみならず、先祖を忘れ、死者を忘れて生きる事は、人生をより豊かに生きていく権利を自ら放棄しているようなもので、これでは幸せな人生が開ける筈もありません。


葬送、告別、直葬から放置の時代へ


今まで、私たちのご先祖は、人生をより良く生きるために欠かせない死と、どのように向き合ってきたのでしょうか。

私たちが死と向き合う最も身近な機会は、身内の誰かが死んだ時ですが、私たちのご先祖は今まで、地域共同体の中で、周囲の人々の助けを借りながら葬送の準備を整え、亡き人をあの世へ送ってきました。

それは、「野辺の送り」(注1)として今も記憶の中に残っており、それは、古来から受け継がれてきた日本の原風景と言ってもいいでしょう。

毎年8月16日に行われる京都五山の送り火に代表されるように、私たちは、毎年、お盆やお彼岸になると、様々な供物を供え、香を焚き、お経を唱えて、ご先祖をお迎えしてきましたが、このような先祖迎えの行事が連綿と受け継がれてきたのは、死者を迎えるというより、今も見えぬ世界に生きておられるご先祖をお迎えして再開を果たすという意識が、その根底にあるからではないでしょうか。

ところが、戦後の高度経済成長期に入った頃より、「葬送」から「告別」へと変わってゆくにつれ、私たちの意識も、生きる世界は違うけれど、これからも見えぬ世界で生き続けていかれるご先祖を、冥界の入口までお送りするという思いから、死者に別れを告げるという思いに変わっていったように思います。

この意識の変化によって、先立ったご先祖は、家族の心の中に、「すでに死んでしまった者」としてしか存在しなくなったのです。

昨今は、生者を送る葬送はおろか、死者に別れを告げる告別さえもしなくなり、火葬するために直接遺体を斎場に運ぶ「直葬(ちょくそう)」と言われる形が増えつつあるそうですが、かのミイラ事件は、その直葬さえもしない殺伐とした遺体放置の時代が、いままさに到来している事を、私たちに告げているように思います。


帰る故郷がない御霊


このミイラ事件によって改めて考えさせられることは、放置されたり行方不明になっている高齢者たちの御霊は、一体どこへ帰るのかという事です。

家族から供養されないまま忘れられたり放置されたりしている御霊が、どれほどいるのか分りませんが、葬送の時代には、まだ帰るべき故郷がありました。

ご先祖は、いつまでも家族や縁者の心の中に生き続け、いつでも懐かしいわが故郷に帰って、家族との再開を果たすことが出来たのです。

しかし今や、家族や縁者から忘れ去られ、帰るべき故郷を失った御霊がどんどん増え続けているのです。

帰る故郷がなければ、亡くなった人々は、安住の地を求めて、当て所なくさまよい続けなければなりませんが、これが長寿世界一と言われる日本の悲しい現状なのです。


誰の為の供養なのか


ミイラ遺体放置事件や高齢者の行方不明事件によって、家族の心の中から、完全に忘れられてしまった高齢者の不幸が、改めて浮き彫りになりましたが、忘れ去られた高齢者も不幸ながら、ご先祖や先逝く人々に対する供養の心を失ってしまった家族もまた、不幸と言わねばなりません。

かつては子や孫が親や先祖の供養をするのが当たり前でしたが、昨今は、それすら為されなくなる傾向にあるばかりか、少子高齢化が急速に進む中で、家族が居ても後継者が居ないために祀ってもらえなくなる恐れのある人々や、子供のいない御夫婦、或いは家族のいない一人暮らしの高齢者も増え続けており、「祀り手のいない人々の供養を誰がしてゆくのか」という切実な問題が、いま顕在化しているのです。

また、後継者がいない為に放置されたままになっている墓石の増加なども社会問題化しており、一刻の猶予も出来ない難問が山積しているのが日本の現状と言えましょう。

このような背景から、各地の寺院ではいま盛んに納骨堂が建立されており、今後もこの傾向は続いていくものと思われますが、納骨堂が建立され、寺院が永代に亘って供養してゆくことになれば、「誰が亡くなった方の御霊を供養してゆくのか」という、いま私たちが直面している問題は解決してゆくようにも思えます。

しかし、寺院が永代に亘って供養してゆくことによって、「祀り手のいない御霊や後継者のいない御霊の供養を誰がしてゆくのか」という問題は解決するかも知れませんが、その一方で、「供養とは、死んだ人の為にあるのか、生きている人の為にあるのか」という別の問題が新たに浮上してくるのです。


永代供養の主役と脇役


この度、納骨堂を建立し、「帰郷庵」と命名しましたのは、帰るべき故郷のない多くの御霊の平安を願い、一人で多くの皆様に、生き仏様がおわします慈悲の故郷へ帰郷して頂きたいとの切なる思いからですが、供養とは本来、亡きご先祖の冥福を祈る施主の皆様の菩提心(真心)をお供えして頂く以外にはありません。

いかなる寺院と雖も、その菩提心を代わってお供えしたり、供養を代行することは不可能であり、また代われる筈もありません。

何故なら、供養は、子々孫々が末代までも繁栄し、幸せに生きてゆく為に欠かせない大切な仏行(功徳行)の一つであって、他人に委ねるべきものではないからです。

勿論、法徳寺では、ご納骨者の御霊を永代に供養してまいりますが、法徳寺がご遺骨をお預かりして末代までも供養させて頂くのは、あくまで本来供養せねばならない施主の皆様のお手伝いをさせて頂く為であって、供養の脇役に過ぎません。

供養の主役は、ご遺族やご縁者の皆様であり、ご遺族の皆様の菩提心(真心)を養い、お供え頂くことなくしては、ご先祖の供養も、ご家族や子々孫々の繁栄もありえないのです。

また、お墓や仏壇に灯明や香花を手向け、お経を唱えることも、供養の一つではありますが、真の供養とは文字通り、菩提心を養い供えることであり、後に残った皆様が、菩提心を忘れずに生きてゆく以外にはございません。

菩薩様は、「先祖を供養するのではなく、先祖に供養するのである」と仰せになっておられますが、その御教えの通り、供養とは、亡くなったお方を供養するものではなく、亡くなったお方に供養するものであり、生きている者が亡くなられたお方に菩提心(他の人々の幸せを願う心)を供えると共に、生きている者同士が菩提心を供え合うところに供養の意義がございます。

その意味で、供養は、亡くなられたお方の為と言うより、生きている者の為にあると言っても過言ではありません。

日々、ご先祖のご恩を忘れず、報恩の誠を捧げて、家族みんながお互いに菩提心を供え合い、仲睦まじい幸せな日々を過ごさせていただくことが、真の供養となるのです。

真の永代供養とは、いついかなる時も菩提心を忘れず、み仏やご先祖のみ心(仏性)に帰ること以外にはありません。

法徳寺の納骨堂を、「心の故郷に帰る」「菩提心に帰る」という意味の「帰郷庵」と命名した所以も、そこにございます。

その意味で、「帰郷庵」は、ご遺骨を納めて頂く聖所であると同時に、施主の皆さまの菩提心を納めて頂く聖所でもございます。

どうか、真の供養とは何か誰のための供養であり納骨なのかということを心に刻んで頂き、ご納骨に際しましては、ご遺骨と共に、是非皆さまの菩提心をお納めいただきますようお願い申し上げます。

平成23年10月21日

合掌

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ジンチョウゲ(沈丁花)
(花言葉 不滅、永遠)

 


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(注1)墓地など埋葬する場所まで列を組んで死者を送ること。「野辺送り」「葬送」「葬列」などとも言う。その後、告別の儀式が行われるようになるまでは、「野辺送り」が葬送儀礼の中心となっていた。
霊柩車やマイクロバスに分乗して火葬場まで送る現在のような形も、広い意味での「野辺送り」の名残りと言っていいであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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