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宗教成合の郷とは

─因縁を解いて救う慈悲のおやざと─



因縁を解いて救済する慈悲のおやざと


高野山法徳寺に、み仏と衆生を隔てる門がないのは、宗教人種、老若男女、貧富上下の隔てなく、全ての人々に開かれた普き門だからであり、高野山法徳寺が、いかなる宗派に属していないのも、その為ですが、全ての人々に開かれた普き慈悲のおやざとであるとの思いを込めて付けられたのが、「宗教成合の郷(しゅうきょうなりあいのさと)」です。

「宗教成合の郷」には、「宗教人種、老若男女、貧富上下の分け隔てなく、苦しむ人々を救済する慈悲のおやざと」という意味の他に、「その因縁を解いて、苦しむ人々を救済する慈悲のおやざと」という意味があります。

「成合(なりあい)」とは、「整う」「完成する」「願いが成就する」「病気が治って健康になる」(広辞苑)という意味ですが、願いが成就すると言いましても、私達が叶えたいと願っていることがすべて成就するという意味ではありません。

病気の人は健康になりたいと願い、商売をしている人は、もっと商売が繁盛するようにと願い、子供のいない人は、子供が授かるようにと、受験生は、希望する学校へ合格出来るようにと願います。

まさに私達の欲望には限りが無く、欲望の数だけ願い事があるといっても過言ではありませんが、「成合」とは、その限りない欲望(願い)がすべて成就するという意味ではありません。

「成合」とは、様々な苦しみの因縁を解いて、苦しみのない本来の姿に帰るという意味なのです。

例えば、病気が治って健康になることが万人の願いですが、病気が治ることだけが必ずしもその人の魂の救済につながるとは限りません。

み仏は、その人や、周囲の人々を救う為に、病気を治される場合もあれば、病気のままで救われる場合もあります。

救済の根本は、心(魂)が救われることですから、たとえ病気を治したいという願いが叶わなくても、心が救われ、人間本来の姿に帰ることが出来れば、病気が治る以上のご利益(救い)を頂いたことになります。

これが「成合」なのです。


「因縁を切る」という考え方


では、「因縁を解いて、苦しみのない本来の姿に帰る」とは、どういう意味なのでしょうか?

「因縁を解く」という言葉の他に、「因縁を切る」という言葉を使うお方もおられますが、一見「因縁を解く」も「因縁を切る」も余り違いはないように見えます。

しかし、この二つは根本的に違います。

まず因縁というものは、解く事は出来ても、切る事は出来ません。何故なら、私たちはみな、因縁によって生かされているからです。

太陽とも地球とも、空とも海とも空気とも風とも、花とも草木とも水とも土とも、森羅万象すべてと因縁で結ばれています。因縁によって生かされ、因縁によって支えられているのです。

私がこうして、お大師様、菩薩様と深い仏縁を結ばせて頂いているのも因縁です。生まれたのも因縁、死んでゆくのも、因縁です。親子となり、夫婦となり、兄弟姉妹となり、家族となるのも、みな因縁ですから、その因縁が切れる筈がありませんし、切ってよいものでもありません。

よくテレビドラマを見ていますと、親の反対を押し切って結婚しようとする娘に対し、「どうしても結婚したければ、親子の縁を切る」と云って反対している場面を見かけますが、いくら言葉で縁を切ると云っても、親子の因縁は、決して切れるものではありません。

世間には、親子、夫婦、兄弟姉妹でありながら、憎しみあって生きなければならない人々もいますが、何故、縁あって親子、夫婦、兄弟姉妹となった者同士が、憎しみあわなければならないのかと言えば、お互いを結んでいる因縁の糸が絡まっている為です。

その絡まってしまった因縁の糸を解きほぐせば、深い絆で結ばれた本来の在るべき姿に戻れると説くのが、「因縁を解く」という仏法の考え方です。

では何故「因縁を切る」という考え方があるのかといえば、善悪、幸不幸の原因を心の外に見ているからです。

例えば、目の前に進む道が二つあり、左右どちらの道を進むべきか迷った時、皆さんは、どうされるでしょうか?

受験にせよ、就職にせよ、結婚にせよ、仕事にせよ、病気にせよ、長い人生には、このような二者選択を迫られる場面が、何度も訪れます。

そんな時、自らの意志で結論が出せればいいのですが、簡単に結論が出せない場合も少なくありません。

結局、迷いに迷った挙句、霊感、八卦、占いに頼り、霊感者、霊能者、霊格者、占い師、占星術師と言われる人々の所へ駆け込んだところ、「右へ行った方が幸せになりますよ」「あなたの今年の運勢を見ると、左の方が良いから左へ行きなさい」と相反する事を言われ、益々迷いを深める結果になったという、笑うに笑えない話をよく耳にしますが、この方たちに共通しているのが、「因縁を切る」という考え方なのです。

つまり、先ず善悪、幸不幸をはっきり峻別して、左右どちらの道を選んだ方が幸せになるかを判断し、不幸になる因縁を切ってしまえば幸せになれるというのが、「因縁を切る」という考え方なのです。


「因縁を解く」とは


それに対し、右へ進めとも、左へ進めとも判断を下さないのが、仏法です。仏法には、そのような判断はありません。

何故なら、自分が背負っている因縁を抜きにして、進むべき道を判断しても無意味だからです。

「人生は重き荷を背負うて遠き道を行くが如し」とは徳川家康公の言葉ですが、私達はみな、目に見えない因縁という重き荷物を背負いながら、人生という遠き道のりを、死と言うゴールに向かって歩いているのです。

その因縁という荷物は、自分の身に付いたものですから、自分の行く所へどこまでも付いてきます。自分が右の道を行けば右へ、左へ行けば左へ付いて来るのです。
  人の世は 付かれる因縁付く因縁
    みんな前生の 因縁なりけり
  人はみな 己がつくりし因縁の
     あとをたずねて 道行く如し

つまり、因縁を背負ったまま、右の道を選んでも、左の道を選んでも、結果は同じであり、だからから、仏法では、右へ行きなさいとも、左へ行きなさいとも判断しないのです。

古歌に、
  波の音 嫌じゃと思うて山ごもり
    声色変えて 松風ぞ吹く
 と詠われているように、波の音が耳障りだと言って山にこもっても、今度は松風の音に悩まされなければなりません。

先ず自分自身が背負っている絡みついた因縁を解かない限り、どちらの道を選んでも同じなのです。

絡まった因縁を背負っている状態のまま、「右へ行った方が幸せになりますよ」「否、左へ行った方が幸せになりますよ」と言って、善悪、幸不幸の判断を下すのが霊感者、占い師、占星術師と言われる人々ですが、これは言うならば、心の外に幸不幸の原因を求め、不幸な原因さえ切ってしまえば、幸せになれるという考え方です。

それに対し、「どちらの道を選んでも、自分の因縁がどこまでも付いてくるのだから、因縁をそのままにしていては、何も変りません。どちらの道を選ぶかではなく、まず自分が背負っている因縁を解く事が先決であり、絡まった因縁を解きさえすれば、どちらの道へ進んでも幸せになれるのです」と教えるのが、仏法の「因縁を解く」という考え方なのです。


七という数字は吉か凶か


会社が倒産し、人生のどん底に堕ちたのがきっかけで信仰の道に入られたお方がおられますが、倒産したのが七月七日だったので、七という数字をとても嫌っておられました。

ところが、信仰が深くなるにつれ、倒産したのは、自分を信仰の道へ導く為の神仏の大慈大悲のお計らいだったと悟られたのです。それによって、それまで縁起が悪いと言って嫌っていた七という数字が、この世で最も縁起の良い数字に変ったのです。

七が縁起の良い数字に変ったのは、元々縁起の悪い七という数字が、縁起の良い七に変ったからではありません。

七という数字は、信仰に入る前も後も、何も変っていません。変ったのは、そのお方の倒産に対する思い方、倒産した七月七日という日に対する受け止め方です。

信仰が深くなるに従って、そのお方の七に対する思い方が変ったから、縁起が悪いとしか思えなかった七が、縁起の良い数字に変ったのです。

変ったという事は、そのお方の因縁が解けたという事です。

「因縁を切る」という考え方に従えば、七という数字は縁起の悪い数字だから、七を切り捨てて、もっと縁起の良い三や八に変えなさいという事になります。

しかし、その方の人生が百八十度変ったのは、七という数字を切り捨てて、縁起の良い他の数字に変えたからではありません。

ただ、七に対する思い方が変ったから、今まで絡まっていた因縁が解け、縁起の悪い七が、縁起の良い七に変ったのです。


因縁を解けるか否か


この事例を見ても明らかなように、自らが背負う因縁を解かない限り、左右どちらの道を選んでも、相手を変えても、場所を変えても、結果は何も変らないのです。

自分にとってどんなに都合の悪い事であっても、縁起の悪い数字であっても、都合の悪い人であっても、自分の思い方を変える事によって、幾らでも都合の良い数字や人に変っていくのです。

もしその人を都合の悪い人としか思えないとすれば、まだその人との因縁が解けていない証だと思って間違いありません。あの人とはどうも馬が合わないとしか思えないのは、まだその人との因縁が解けていないからです。

七と言う数字と同じように、因縁が解けたら、馬の合わないその人が、馬の合う人に変るのです。しかし、因縁を解かない限り、いつまでも馬の合わない人と付き合っていかなければなりません。

たとえ馬の合わない人から一時的に遠ざかる事が出来ても、因縁が解けてない内は、別の形で苦しみがやってきます。先ほどお話した「声色変えて松風ぞ吹く」です。

幸不幸というものは、自らの心で作っていくものですから、心の動き方次第でどのようにも変ってゆきます。思い方一つで、幸せな因縁が不幸せな因縁にもなれば、不幸せな因縁が幸せな因縁にも変るのです。

真の救いは、お釈迦様やお大師様や菩薩様をはじめ、多くの先覚者が説かれた仏法の中にのみあるのであって、仏法以外に救いはありません。その仏法に依って、因縁を解かない限り、根本的解決にはならないのです。



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