桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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ありがとう

〜ひとさし指から奏でるしあわせ(1)〜



 


ありがとう

〜ひとさし指から奏でるしあわせ〜

作詞・作曲  大西良空

幼き頃の夢 果たせなかったけれど
 私よりしあわせな 人はいないよね
 だって私は今 世界一素敵な
 お母さんに愛され 生きているから
 どんなに苦しくても どんなに辛くても
 もう大丈夫だから 心配しないでね
 お母さんが私の お母さんでよかった
 あきらめも絶望も もう今日でお別れ
 二度とないこの日々を 共に生きるよろこび
 いつも愛してくれて お母さんありがとう

あの頃の私は 泣いてばかりいたけど
 ほら見て今はもう 笑っているでしょう
 だって私は今 みんなの優しさと
 真心に包まれて 生かされているから
 どんなに悔しくても どんなに虚しくても
 もう過去をふり返らない 今だけを見つめて
 すべてが私にとって かけがえのない宝物
 憎しみも後悔も もう永久にさよなら 
 流した涙だけ 強くなれるからと
 いつも励ましてくれた みんなにありがとう

どんなに悲しくても どんなに泣きたくても
 明けない夜はないから 涙はもういらない
 ひとさし指が教えて くれたの大切なことを
 耐えること 微笑むこと すべてを許すこと
 世界が輝いて 私を照らしている
 今はあの先生に 言えるのありがとう

満天の夜空に きらめく星たちよ
 私のこの思い みんなに伝えてね
 生きる勇気をくれた あなたにありがとう

 



坂中さん親子の生きるための闘い


坂中明子さん。

皆さんは、このお方をご存じでしょうか? そう言う私自身は、残念ながら、つい最近までまったく存じ上げませんでした。

私が坂中さんの事を知ったのは、Facebookで紹介されていた『日本一心を揺るがす新聞の社説』(ごま書房新社)という、「みやざき中央新聞」の社説をまとめた本を通してですが、坂中さんは、20歳の時、予期せぬ医療事故によって、全身麻痺という重い後遺症に見舞われました。

『ひとさし指から奏でる♪しあわせ』(新水社)には、明子さんと、母親の浩子さんが、全身麻痺という想像を絶する困難な現実と真正面から向き合って来られた壮絶な日々が赤裸々に綴られています。

明子さんは、3歳の頃からピアノを習い始め、地元の宮崎女子高の音楽科から、宮崎女子短大の音楽科に進学し、浩子さんが主宰するピアノ教室で子供たちの指導をしながら、ピアニストを目指していました。

ところが、短大を卒業し今まさに夢の実現に向けて船出しようとしていた矢先の1995年(平成7年)9月5日の夕方、微熱があるというので、掛かりつけの医院に点滴を打ちに行ったところ、その最中に突然呼吸困難となり、心肺停止状態に陥るという思いもよらぬ医療事故に見舞われたのです。

明子さんには、元々喘息の持病があり、高校2年の時、飲んだ錠剤が原因で呼吸困難に陥った事があったため、掛かりつけの医師から「その錠剤だけは絶対に飲ませないように」と固く釘をさされ、家にもその錠剤だけは置かないようにしていたのですが、その医師自身が、不注意から、使ってはいけない錠剤を処方するという初歩的な医療ミスをおかしてしまったのです。

その前日にも喘息の発作が起きて点滴を受けていたので、常識的には起こりようのない医療事故ですが、その起こりえない事故が起こってしまったのです。

結局、明子さんは、一命を取り留めたものの、20歳にして、全身麻痺という重い後遺症を背負わなければならなくなり、この瞬間から、人生のどん底に突き落とされた坂中さん親子の壮絶な闘いの日々が始まったのです。


思いを伝えられない悔しさに涙する日々


心肺停止状態によって、すべての臓器がやられ、脳もかなりダメージを受けていると考えられていたため、入院した病院の医師をはじめ、関係者の誰もが、明子さんに何を話しても理解できないだろうと考えていました。

しかし、明子さんは、全身麻痺によって、自分の意志を伝える手段を失ったため、 相手に自分の気持ちを伝えられなかっただけで、何もかもすべて分かっていました。

私は思ったことがスムーズに伝えられない。
 緊張していると言葉が出ないのだ。
 話しかけられても「ウン」とも「スン」とも言わないでいると、相手から「こちらの言ってること、わかるの?」、なんて言われたりする。
 そんなとき、「わかってるよぉーーーーだ!」と大声でわめきたくなる。

自分の思いを伝えられないもどかしさ、哀しさ、悔しさに、明子さんがどれほど涙されたかは想像に余りあります。

また若干20歳で、全身麻痺という絶望的な境遇に突き落とされた明子さんが、生きる希望を失くし、死を考えるようになったとしても不思議ではありません。

母親の浩子さんは、

その頃よく、明子は私にこう言うのだった。
 「お、か、あ、さ、ん、こ、ろ、し、て!」
 「いっ、しょ、に、し、の、お!」
 明子や私にとって、この過酷な現実を認めることは、あまりにもつらかった。私も『死』について、真剣に考えることがよくあった。

と書いておられますが、全身麻痺という後遺症を、生涯背負っていかなければならないという過酷な現実を前にすれば、いくら頑張ろうと懸命に自らを鼓舞しても、やはりやり場のない憤りと悔しさと悲しさの余り、挫けそうになるのも無理はありません。


お母さんが私のお母さんでよかった


それだけに、坂中さん親子の胸中は察するに余りありますが、明子さんを支え、その心を救ったのは、やはり浩子さんの深い愛情でした。

チューブにつながれた明子さんは、水をガーゼに含ませて飲ませても、むせて飲むことが出来ませんでした。

もし口から水を飲めなければ、鼻から管を通して栄養を送り込むしか方法はありませんが、それをすると、次第に体力も弱り、寝たきりになってしまう恐れがあります。

出来れば、自分の意思で水を飲んだり食物を食べたりした方がいいのですが、主治医は、「鼻腔栄養にしないと、また元の状態(心停止)になります。明子さんには何を言ってもわかりません」と言って、口から食物を入れる事を最初から諦めているような口調でした。

しかし、母親の浩子さんは、決して諦めず、何とか口から美味しいものを食べさせたいと、一人黙々と明子さんに水を飲ませる練習を続けられたのです。

そこには、親子だから必ず通じ合えるという浩子さんの強い信念がありました。

私たちは親子だ。わかり合えないこともあるが、わかり合えることもいっぱいある、と私は強く信じている。だから、私の気持ちは明子には通じるはずだ。なのに知識だけの世界で生きている人には、目の前の現実だけがすべてなのか。人間にとって心の占める割合がどんなに大きいか、この知識人は知らないのだろうか。
 明子の心に刺激を与えることにしよう。
 このまま医者の言うことだけを聞いていては、何一つかわらない。
 明子には音楽がある。少なくとも明子にはこの二十一年間、魂で聴き続けた音楽があるのだ。私の気持ちが伝わらないはずがない。

浩子さんは、カーゼに水を含ませて飲ませても、むせて飲めないのは、看護師が明子さんに、水を飲むという事を意識させていないからだと見ぬき、その意識を持たせる努力を続けられたのです。

浩子さんのこの深い愛情と、必ず通じ合えるという強い信念がついに実を結び、明子さんは、やがて水を飲むという意識を取り戻し、水を飲むようになったのです。

そればかりか、おもゆや裏ごしした梅干し、具なしの茶碗蒸し、差し入れのシチューまで食べられるようになり、浩子さんの一念は、不可能を可能にしたのです。

そのお母さんの深い愛情が、明子さんの心に響かない筈がありません。

母娘2人で八ヶ岳のペンションに泊まった夜、余り声が出せない明子さんが、改まった口調で、浩子さんに「お、か、あ、さ、ん、が、わ、た、し、の、お、か、あ、さ、ん、で、よ、かっ、た。か、ん、しゃ、し、て、い、ま、す」とおっしゃったそうですが、この片言の言葉は、明子さんのお母さんに対する精一杯の感謝の叫びだったに違いありません。


大きな転機の訪れ


医療ミスから三ヵ月が経過した1995年12月15日、浩子さんが主宰するピアノ教室の発表会が開催され、車椅子に座った明子さんは、多くの教え子たちから暖かく迎えられ、再開の涙が会場全体を埋め尽くしました。

しかし、明子さんを取り巻く現実は厳しく、坂中さん親子の前に立ちはだかる困難な日々は、まだ始まったばかりでした。

その後、坂中さん親子は、全身麻痺という過酷な状況を少しでも好転させようと、幾つもの病院への入退院を繰り返しながら、懸命にリハビリに励んでいましたが、明子さんに大きな転機が訪れたのは、医療ミスから5年後の2000年でした。

或る日、何気なく見ていたテレビで、埼玉県所沢市の「国立身体障害者リハビリテーションセンター」が紹介されているのを見た浩子さんは、ここに明子さんを入院させたいと強く決意されるのです。

藁にもすがる思いで、このセンターに一縷の望みを託されたのですが、このセンターは、回復可能な障害を負った人が入院するのが原則で、明子さんのような回復の極めて難しい後遺症を負った人は入院出来ない決まりになっていました。

しかし、様々な伝手を頼りに、2000年8月21日、例外的に入院を認められた明子さんは、ここで人生を左右する二つの大きな出来事に遭遇します。

一つ目は、「国立身体障害者リハビリテーションセンター」の医師たちが、全身麻痺の明子さんの体の中で、たった1か所だけ動く箇所を発見したのです。

それは、明子さんの左手のひとさし指でしたが、もし、このセンターに入院していなければ、恐らく誰も明子さんのひとさし指が動くことに気付かなかったでしょう。

この発見によって左手のひとさし指のリハビリが始まり、やがて涙ぐましい努力の結果、パソコンを使って自分の意志を伝えられるようになったのです。

二つ目は、同センターで同室だった女性の息子さんと知り合い、ひとさし指でメール交換を始めた事で、これも、明子さんにとって大きな転機となりました。

このメール交換が、やがてみやざき中央新聞の編集者の耳に入り、明子さんは、同新聞にエッセイを寄稿することになったのです。

明子さんのエッセイは1年半も続き、多くの読者に感銘を与えましたが、このエッセイが、やがて『ひとさし指から奏でるしあわせ』となって、更に多くの読者の下へ届けられる事になったのです。

私が、明子さんの事を知ったのも、この本との出会いがきっかけですから、まさに左手のひとさし指が人生を切り開いてくれたと言っても、過言ではないでしょう。


自立に向けて


左手のひとさし指が動くとは言っても、全身麻痺の明子さんにとって、一人暮らしの困難さは、私には想像も及びません。

しかし、明子さんは、みやざき中央新聞にエッセイを掲載しておられた重度障害者の山之内俊夫さんが、自立に向けて一人暮らしをしておられる事に勇気づけられ、自分も一人暮らしをしてみたいと決心されるのです。

2003年4月から、NPO法人障害者自立支援センター「YAH!DOみやざき」の支援を受けながら、自立に向けて一人暮らしを始められましたが、その暮らしぶりが何もかも順調だった訳ではありません。

浩子さんが、

あれほどリハビリをし続けても、予想もしなかった四肢硬直化が進んでいく。手足があるとはいえ、自分の意思とは無関係に動いてしまう。それを抱えながらも必死に生活している明子。

と書いておられるように、その前途を妨げるかのように、過酷な試練が次々と明子さんの前に立ちはだかってきたのです。

生きていくという事は、日々何かを一つ一つ失っていく事の繰り返しであり、私でさえ、齢を重ねるに従って、今まで出来ていた事が出来なくなる現実を前にして、暗澹たる気持ちになる事がありますが、たとえそうであっても、私には、まだ自由に動く手足があり、行きたいと思えば、自分一人で、いつでも好きな所へ行けるのです。

その事を考えると、自分で出来る事がほとんどない重い後遺症を負っている明子さんが生きていく日々の過酷さは、私達の比ではないでしょう。


ありがとう〜真のしあわせとは


二十歳という若さで、思いもよらぬ医療事故によって全身麻痺という重い後遺症を背負わざるをえなくなった坂中明子さん。

この過酷な現実を前にして、絶望、怒り、悔しさ、哀しさ、もどかしさ等々、明子さんの胸中を去来した様々な思いは、とても言葉にはならないでしょう。

浩子さんが

明子はいつもニコニコしていた。まるで天使のように……。夫の前でも泣き顔は見せなかった。しかし、私と二人でいると、折にふれては泣いた。
 泣いては小さな声で「ファイト」と言った。
 何度も何度も「ファイト! ファイト!」と言った。
 その声はだんだん大きくなり、最後には大きな声で狂ったように「ふぁーいーと!!」と言って泣き崩れるのだった。

と書いておられるように、明子さんは、挫けそうになる気持ちと、頑張らなければいけないという気持ちとの狭間で揺れ動き、その都度、何度も勇気を奮い立たせては、自らを鼓舞し、幾多の試練を克服してこられたに違いありません。

そして、全身麻痺の中でたった一つだけ動かすことのできるひとさし指を使いながら笑顔を絶やさず懸命に生きておられるその姿は、いまも多くの人々に深い感銘を与え続けているのです。

本を通して坂中明子さんの事を知り、少しでも心の励みになればと思い、応援歌のつもりで作ったのが、『ありがとう〜ひとさし指から奏でるしあわせ』ですが、明子さんを見ていて改めて考えさせられたのは、人間にとって幸せとは何かという事です。

世間の人々がよく口にするのは、幸せになる為には、あれも必要、これも必要、あれが無いから幸せになれない、これが無いから自分は不幸せだと言うように、幸せになるためには、欠けているもの、足りないものを手に入れなければいけないと言う発想です。

しかし、全身麻痺の明子さんが動かせるのは、左手のひとさし指たった一本であり、そのたった一本のひとさし指でさえ、自由自在には動いてくれないのです。

では、いまの明子さんは、重い後遺症を負っているから不幸なのかと言えば、決してそうではないと思います。

勿論、医療事故によって、全身麻痺になった時は、不幸のどん底に突き落とされた心境だったに違いありませんし、全身麻痺の状況は今もまったく変わっていません。それどころか、むしろ悪化しているのではないでしょうか。

にも拘らず明子さんは、決して不幸のどん底にはおられないと思います。

全身麻痺の体を不幸と思えば、不幸であり、不幸でないと思えば、不幸ではないのです。幸不幸を決めるのは、結局自分しかいないのですから…。


体の障害と心の障害


先天性四肢切断(生まれつき両腕と両脚がない)という障害を背負って生まれた乙武洋匡(おとたけひろただ)氏は、その著書『五体不満足』の中で、「障害は不便です。しかし、不幸ではありません」とおっしゃっておられますが、まさに名言ではないでしょうか。

「障害は不便ですが、決して不幸ではありません」と、言い切れるのは、乙武氏が、心の障害者になっていないからだと思います。

「大阪堀江の六人斬り事件」によって両腕を失くされた大石順教尼は、多くの障害者にこう言っています。

身体の不自由、これはね、そういう因縁なのだから仕方がないが、私達は心の障害者になってはいけないのだよ。

心の障害者、そんな障害があるのですか?

あんたね、片足が悪いだけでよく転ぶでしょう。どうしてか分りますか。

わかりませんが、悲しいです。

転ばなくても歩ける方法を教えてあげよう。それはね、悪い足をかくさないことだよ。心の障害というのはそれをいうのだよ。忘れなさいという事は無理かもしれないが、片足が悪いくらいのことに心をうばわれてはいけないのだよ。

どうしたら、その心の障害を取り除く事が出来るのですか?

自分のことは自分で出来るようにする、それだけの小さな生き方でなしに、世の中のために感謝と奉仕の心をもって、心の働きを生かすのだよ。たとえ、何にも出来ずにベッドにふせっていても、微笑みひとつでも、やさしい言葉ひとつでも、周囲の人々に捧げる事が出来たら、その人は社会の一隅を明るくすることが出来るのだよ。
 私はね、障害というのは、身体の自由、不自由とは別ではないかと思う事さえあるのだよ。
 たとえ健全な肢体に恵まれていても、それを人のために生かす心を持たず、五欲のほしいままに、お互いが傷つけあうことしか知らないとしたら、大変な心の障害者ではないかと思うのだよ。
 此の頃、私は、両手を無くしたこと、何も知らない無学なものであったこと、そして、お金にたよらずに貧乏してきた事が、本当に私の眼に見えない大きな財産なのではないかと、しみじみとその幸せを味わっているのだよ。

先生、もう少しわかりやすく教えて下さい。

そうね、生きてゆくための、幸福になるための、条件とか資格とかいうものは、何一つないのだ、とでも言ったら分るかい。禍も福もほんとうは一つなのだよ。

また2歳の時に、足のしもやけがもとで突発性脱疽(とっぱつせいだっそ)という病気に侵され、両手両足を失くされた中村久子さんも、同じような事をおっしゃっておられます。

私自身に最も深く思わせられたことは、障害をむしばむものは障害ではなく、自らの精神によるものであるということです。

こんな手や足で電車や自動車の通るこんなこわい所が歩かれるだろうか、などと不安の念がちょっとでも頭に浮かんだらもうおしまいです。足も体もすくんでしまって、一歩たりとも前進はできません。障害が難物というよりは、心の障害が一番の難物なのであります。

人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ。

勿論、思い方は人それぞれですから、両手両足を失くした事を、不幸と考える人も、世の中にはいるでしょう。

明子さんのように、医療事故によって全身麻痺の後遺症を負った事も、見る人によっては、確かに不幸に見えるかも知れません。

しかし、全身麻痺の後遺症を負ったからこそ得られたもの、後遺症を負わなければ絶対に見えなかったものもあるのではないでしょうか。

明子さんは、全身麻痺によって、すべてを失った訳ではありません。失ったものもある代わりに、明子さんが新たに得たもの、見出したものも、決して少なくないのです。

この10年余に失ったものは大きかった。しかし、与えられたものも、また大きかった。人の優しさや人の心の深さ。そういったものを持ちあわせる人たちが現実に存在するという驚き! 家族の絆というもの……。
 健康であれば、お互いにお互いの大切さや幸せに気づくこともなく通り過ぎてしまっただろう。

と、浩子さんも書いておられるように、今まで気づかなかったこと、見えなかったものが見えるようになった喜びは、困難や挫折や絶望に直面して、大切な何かを失った経験のある人でなければ、実感できないでしょう。

失って初めて得られたもの、見えてきたものこそ、全身麻痺という後遺症が明子さんに与えてくれた本当の幸せであり、後遺症を負っていなければ、得る事も見る事もできなかった、輝ける人間の在るべき姿なのではないでしょうか。

中村久子さんの次の言葉が、その事を雄弁に物語っています。

良き師、良き友に導かれ、かけがえのない人生を送らせて頂きました。今思えば、私にとって一番の良き師、良き友は、両手両足のないこの体でした。


イツモココニイルヨ


全身麻痺の中で、唯一動かせる左手のひとさし指。何故、左手のひとさし指だけが動かせるのか。

勿論、これはただの偶然でしょう。しかし、その偶然にも、意味があるとすれば…。

確かに、パソコンで文字を打ち込んだり、メールをしたりする事が出来るように左手のひとさし指だけが使えるよう、神様が残して下さったのかも知れませんが、私には、もっと深い意味があるような気がします。

ひとさし指と聞いて、先ず私の脳裏に浮かんだのは、スティーブン・スピルバーグ監督が制作して大ヒットした1982年公開のユニヴァーサル映画「E.T.」です。

遥か宇宙の彼方から地球探査にやってきた地球外知的生物「E.T.」。ところが、その中の一人が宇宙船に乗り遅れて地球に取り残されてしまいます。

ある夜、10才のエリオット少年は、奇妙な姿をしたE.T.と遭遇しますが、いくら家族にE.T.を見たと言っても誰も信じてくれません。

ETとエリオット少年はテレパシーで心を通わすことができますが、NASAの科学者がE.T.を見つけ出し、ETとエリオットは科学者達によって隔離されてしまい、エリオットは助かったものの、ETは治療の甲斐無く死んでしまいます。

エリオットが、「酷い目に合わせてごめんね。君が死んで僕はもう何も感じられない。君はどこへ行っちゃうの?君の事は一生忘れないよ。ET、君が好きだ」と、別れを告げて出て行こうとすると、ETの胸元が赤く光り、枯れていた花が元気を取り戻します。

それを見たエリオットが急いで、亡くなった「E.T.」が入っているカプセルの扉を開くと、そこに生き返ったETがいたのです。

「ET、デンワシタ。ウチニデンワ」
 「迎えが来るの?!」
 「ソウ、オウチニデンワ」
 「静かにして!」

エリオットは、兄に車を運転してもらい、ETを公園まで連れて行き、そこから自転車で仲間と一緒にETを森へ連れて行きます。

途中、捕まりそうになっても、ETの不思議な力で自転車は大空へ舞い上がり無事に森へたどり着くと、そこにはETを迎えにきた宇宙船が待っていました。

二人は、左手のひとさし指で胸を撫でながら「イタイ」と言って、泣きながら抱き合い、別れを惜しみます。

そして、最後にETが、光る左手のひとさし指をエリオットの額に当てながら、「イツモココニイルヨ」と言って別れを告げ、綺麗に咲いたエリオットの花を持って宇宙船に乗り込み、空の彼方へと去っていくのです。

この「E.T.」が公開されたのは、明子さんが医療事故に遇う13年も前の1982年ですが、最後の別れのシーンは、とても感動的で、何度見ても目頭が熱くなります。

自分とは全く違う世界から来たETが、一人だけ地球に取り残されて困っている姿を見て、素直に家に帰してあげたいと思う、何の計算も打算もないエリオット少年の優しさ(愛)と、優しさに裏付けられた勇気と強さ、そしてエリオット少年をあたたかく包むETの優しさが、見る者の胸に迫ってくるからでしょう。

ETは最後に、少年の額に、光る左手のひとさし指を当て、「イツモココニイルヨ」と言って別れを告げるのですが、体の中で、唯一動かせる左手のひとさし指を使って、懸命に生きている明子さんの姿が、多くの人々に感銘を与えている事を知った時、私の脳裏に浮かんだのは、このシーンでした。

ETが「イツモココニイルヨ」と言ったのは、エリオット少年の額の奥、つまり記憶や思い出のことを指しているのでしょうが、私は、記憶や思い出の事ではなく、光るひとさし指の先なのではないかと思ったのです。

この時、私の心の中では、様々な不思議な力を発揮したETのひとさし指と、多くの人々に感銘を与えている明子さんのひとさし指が、重なっていました。


ひとさし指から生まれる幸せの輪


このひとさし指は、仏教では、真理に譬えられる「月」を指し示す指とされている、とても大切な指です。

またお釈迦様が生まれてまもなく七歩歩まれ、「天上天下唯我独尊」とおっしゃった時に、天と地を指し示された指でもあります。

つまり、明子さんの体の中で唯一動く左手のひとさし指は、仏教では、真理を指し示す指であると同時に、自分の足元(自分の使命)を見つめなさいと教えてくれる指でもあるのです。

その指だけが動かせるという事は、明子さんにとって、とても深い意味が込められているような気がします。

涅槃経の中に「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という言葉があります。

これは、すべての人に仏性という永遠のいのちが具わっているという意味ですが、勿論、全身麻痺の明子さんにも、この仏性(仏のいのち)が具わっています。

でも、この仏性には、姿かたちがありません。

どういう事かと言いますと、肉体を生きる明子さんは、いま全身麻痺という重い後遺症を負っておられますが、姿かたちのない仏性を生きる明子さんには、全身麻痺という後遺症もなければ、傷つく事も病む事も老いる事も死ぬ事もないという事です。

大切なのは、どちらの明子さんが、本当の明子さんかという事ですが、勿論、仏性を生きる明子さんが、本当の明子さんであって、全身麻痺の明子さんは、仏性を生きる明子さんが宿っている仮の器に過ぎません。

いまその肉体が、全身麻痺という後遺症を負っていますが、後遺症を負っているのは、あくまで肉体という器だけであって、仏性を生きる明子さんそのものには、何の後遺症もありません。

その明子さんは、姿かたちがなく、肉眼で見る事は出来ませんから、この世に生まれてきた使命を果たしておられても、私達には分りませんし、見えません。

そこで、み仏は、肉眼には見えない、仏性を生きる明子さんの姿を、誰の眼にも見えるよう、一つの手立てを用意して下さったのです。

それが、全身麻痺の体の中で、唯一動かせる左手のひとさし指です。

このひとさし指は、私達にとって、日常生活の中で、意識する事もなく当たり前に使っているただのひとさし指であり、肉体の一部に過ぎません。

しかし、明子さんにとっては、全身麻痺の中で唯一残った肉体の一部ではなく、後遺症もなければ、傷つく事も病む事も老いる事も死ぬ事もない、仏性を生きる明子さんが、この世へ生まれてきた使命を果たす為にみ仏が選ばれた、明子さんの魂(仏性)を映す聖なる鏡なのです。

明子さんは、いま左手のひとさし指一本を使い、多くの人々に、感銘と生きる希望と勇気を与えておられますが、これこそ、左手のひとさし指が、仏性を生きる明子さんの真実の姿を映し出す鏡である何よりの証ではないでしょうか。

肉眼には見えませんが、明子さんのひとさし指は、きっとETのひとさし指のように光り輝き、多くの人々に幸せの輪を広げているに違いありません。

合掌

平成25年6月8日




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『日本一心を揺るがす
新聞の社説』
著者:水谷もりひと
ごま書房新社 (2010/10/29)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ひとさし指から奏でる
しあわせ』
著者:坂中明子・坂中浩子
新水社 (2007/12)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『五体不満足』
著者:乙武洋匡
講談社 (1998/10/16)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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