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しあわせさがし〜二十歳の君へ・高野悦子を偲んで(1)



 


しあわせさがし〜二十歳の君へ

作詞・作曲  大西良空 

みんな夢を胸にいだき 燃えていたけど
 ただ前を向き がむしゃらに走ってただけ
 何もかもが過ぎ去り行く 過去の思い出
 時だけが むなしく流れて
 足下に咲いてる 可憐な花も
 白樺のこずえで さえずる鳥も
 しあわせという名の いのちの唄を
 いつも歌って くれてたのに
   何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
   忘れられない あの日から 始まっていた
   終りのない 果てしのない しあわせさがし
   旅はいつまでも つづくのさ

いつも君と待ち合わせた コーヒーショップ
 奥の決まった席で 笑っていた君が
 今も記憶の片隅に よみがえるのさ
 淡い思い 胸にあふれて
 黒髪をなびかせ 駆けよる君も
 恥じらいうつむいて 見つめる君も
 しあわせという名の いのちの時を
 いつも刻んで くれてたのに
   何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
   君と別れた あの日から 始まっていた
   君のいない 一人きりの しあわせさがし
   旅はこれからも つづくのさ

窓辺に降りしきる 時雨の音も
 川面を吹きぬける 風のそよぎも
 しあわせという名の いのちを讃え
 いつも奏でて くれてたのに
   何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
   遠く離れた あの日から 始まっていた
   終りのない 果てしのない しあわせさがし
   旅はいつまでも つづくのさ

二人して歩いた 三年坂も
 二人して眺めた 送り火の灯も
 しあわせという名の いのちの糸で
 いつも結んで くれてたのに
   何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
   涙ながした あの日から 始まっていた
   君のいない 一人きりの しあわせさがし
   旅はこれからも つづくのさ
   君のいない 一人きりの しあわせさがし
   旅はいつまでも つづくのさ

 



高野悦子の自殺と全共闘運動


今から43年前の1969年(昭和44年)6月24日未明、一人の女子大生が、山陰本線の天神踏切付近で貨物列車に飛び込み、自殺しました。

彼女の名前は、高野悦子(たかのえつこ)。立命館大学の三回生。こう言っても、若い人にはピンと来ないかも知れませんが、『二十歳の原点』の著者と言えば、聞いた事がある人もいるかも知れません。

高野悦子は、1949年(昭和24年)1月2日、父三郎、母アイの次女として栃木県西那須野町(現在の那須塩原市)で生まれました。1964年(昭和39年)4月、第一志望だった栃木県立宇都宮女子高校に入学し、高2の時、修学旅行で訪れた京都の佇まいに触れ、憧れをいだくようになります。

高3になり、立命館大学を志望するようになりますが、その動機について、「早稲田の反骨精神もさることながら、立命館の立命館史学、それに京都という場所、また早稲田に似た反骨精神を知り、立命館に行きたくなった」「消極的な意味にしろ、日本史に対しての興味を持っているのだから、それをのばして行こう。そしてやっぱり立命館大学へ行こう。京都は七九四年、桓武天皇が都を奈良から京都へ移して以来明治まで、日本の中心として栄えた歴史のある町だ。街が出きて以来、七、八十年ほどしか経っていない西那須野町にしか住んだことのない私には、歴史(の深さ)に実感を感じたことがない。立命館に入って歴史について考えてみよう」(『二十歳の原点ノート』)と書いているように、高校時代から、立命大の反骨精神と、奈良本教授の立命館史学に惹かれていた事が分かります。

その後、第一志望だった立命館大学に合格し、1967年(昭和42年)4月、晴れて立命館大学文学部史学科に入学しますが、やがて、彼女の運命を大きく左右する全共闘運動の嵐に巻き込まれてゆく事になります。

全共闘とは、「全学共闘会議」の略で、1948年に結成された全学連(全日本学生自治総連合)が民青系(日共系)、中核派系、革マル派系などの各派に分裂して衰退化する中、大学のマスプロ教育の進行や学生管理の強化、学費の慢性的値上げなどに不満を持つ無党派(ノンポリ)の一般学生や政治活動に比較的関心の少ない学生が結集して作られた大学内の連合組織で、当時大学生であった多くの団塊世代が、運動に参加してゆきます。

そして、1968年の日大紛争(注1)と東大紛争(注2)をピークに、全共闘運動は全国の大学に広がっていきましたが、立命館も例外ではありませんでした。

現在の立命大のキャンバスは、京都市右京区の「衣笠キャンバス」と滋賀県草津市の「びわこ・くさつキャンバス」に分かれていますが、1968年当時は、衣笠キャンバスにあった理工学部、経済学部、経営学部を除く三学部(法学部、文学部、産業社会学部)は、京都御所東側の広小路キャンバスにあり、順次、衣笠キャンバスへの移転が進められているところでした。

大学発祥の地を離れ、新天地へ移ろうとしている過度期に、全共闘運動の嵐が立命館にも波及してきた訳ですが、立命館の全共闘運動は、大学当局の運営に対する学生の不満というより、大学の運営を巡る代々木系(日共系)と反代々木系(反日共系)の学生(注3)による主導権争いでした。

当時の立命館大学は、日本共産党の実質的な青年組織とも言える民青(日本民主青年同盟)が主導する「日共王国」でしたが、そんな中で唯一、民青に染まっていなかったのが、学園新聞を発行する「立命館大学新聞社」でした。

日本共産党に対し批判的な新聞社は、民青の学生にとっては、目の上のたんこぶ的存在であった事は言うまでもありませんが、問題の発端は、1968年12月12日、民青所属の学生10名ほどが、立命館大学新聞社に入社申し込みにやってきた事でした。

このような募集は春に行われるのが通例ですが、この季節外れの入社申し込みの目的は、日共に批判的だった新聞社の乗っ取りであった事は言うまでもなく、入社させろ、させないの押し問答の末、窓ガラスを割って進入してきた民青系の黒ヘルメットの一団によって、新聞社員が15時間にわたり監禁される所謂「新聞社事件」が起こったのです。

しかし、この日共系学生による強行突破が裏目に出て、いままで民青による主導を快く思っていなかった一般学生を立ち上がらせる結果となり、ヘルメットを被り、ゲバ棒を手にし、完全武装した数百名の一般学生(ノンセクト・ラディカル)が、民青側の学生に乗っ取られた新聞社の入る校舎を取り囲み、それが全学にまで及ぶ大騒動に発展していったのです。

更に、この新聞社事件に対する大学当局の対応が曖昧だったため、学生の怒りは頂点に達し、1969年1月16日の東大安田講堂の占拠に続く形で、立命大でも無党派学生を主体とする全共闘学生が大学本部の中川会館をバリケード封鎖するに至り、やがて機動隊と衝突する事になるのです。

さらに5月20日には、戦後民主主義運動の象徴ともいうべき「わだつみ像」(注4)が一部の全共闘学生によって破壊されてしまいますが、高野悦子が立命館大学に入学したのは、まさに全共闘運動の嵐が吹き荒れようとする前年の1967年(昭和42年)4月でした。

二年後の1969年(昭和44年)6月24日、彼女は鉄道自殺しますが、彼女の死後、下宿先で、十数冊の大学ノートに書かれた日記が発見されます。

そこには、20歳の誕生日である1969年1月2日(大学二回生)から、自殺二日前の6月22日(大学三回生)までの半年間に及ぶ彼女の内面が赤裸々につづられていましたが、彼女の父親、高野三郎氏が、この日記を同人誌「那須文学」に掲載して大反響を呼び、1971年には、新潮社から『二十歳の原点』と題して発行され、瞬く間にベストセラーとなります。

その三年後の1974年には、1966年11月23日(高校3年)から1968年12月31日(大学2年)までをつづった日記が、『二十歳の原点序章』として、更にその二年後の1976年には、1963年1月1日(中学2年)から1966年11月22日(高校3年)までをつづった日記が、『二十歳の原点ノート』として出版され、あわせて350万部ものベストセラーとなりますが、その頃には、彼女の青春時代そのものとも言うべき全共闘運動は、過去の出来事となっていました。


自殺の動機と背景


彼女が自殺するに至った動機や背景については、高校時代に奥浩平(注5)の『青春の墓標』を読み、”心の友”と呼ぶほど強い影響を受けていた事や、全共闘運動で挫折した事、失恋した事など、幾つかの要因が挙げられていますが、それらの根底にあったものは、一体何だったのでしょうか。

思うに、彼女自身が、「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」と書いているように、二十歳になった彼女が、名実共に大人に脱皮するために、どうしても乗り越えなければならないと自らに課した二つの命題(孤独と未熟さからの脱却)が、彼女の肩に重くのしかかっていたのではないでしょうか。

その事が象徴的につづられているのが、まさに1969年1月2日の二十歳の誕生日に書かれた次の文面です。

今日は私の誕生日である。二十歳になった。酒も煙草も公然とのむことができるし、悪いことをすれば新聞に「A子さん」とではなく、「高野悦子 二十歳」と書かれる。こんな幼稚なままで「大人」にさせてしまった社会をうらむなあ。未熟であること、孤独であることの認識はまだまだ浅い。

未熟であること。人間は完全なる存在ではないのだ。不完全さをいつでも背負っている。人間の存在価値は完全であることにあるのではなく、不完全でありその不完全さを克服しようとするところにあるのだ。人間は未熟なのである。個々の人間がもつ不完全さはいろいろあるにしても、人間がその不完全さを克服しようとする時点では、それぞれの人間は同じ価値をもつ。そこに生命の発露があるのだ。
 人間は誰でも、独りで生きなければならないと同時に、みんなと生きなければならない。私は「みんなと生きる」ということが良くわからない。みんな何を考えているのかを考えながら人と接しよう。

彼女は、社会から大人として扱われる二十歳の誕生日を境に、孤独と未熟さの克服と言う二つの命題を自らに課し、大人へ脱皮するための困難な荒海に船出しようと、勇気を奮いたたせていたのではないでしょうか。

そして、この二つの命題を克服するため、彼女が身を投じて闘いを挑んだのが、まさに全共闘運動であり、恋愛だったのですが、やがて、この挑戦は挫折してゆく事になります。

人間としての主体性を確立し、未熟さを克服して、真の大人に脱皮するため、彼女は全共闘運動に参加してゆきますが、運動に失望する中で自らの未熟さを思い知らされ、主体性を確立できない自分への苛立ちと自虐性を、一層強めていきます。

訪米阻止!のシュプレヒコールを私が叫んだとて、それに何ができるのか。厳として機動隊の壁はあつい。私自身のうけるもの。あせり、いらだち、虚無感(デモの最中の)、ますます広がる混沌さ。(5月30日)

6.15 立命全共闘カンパニア闘争(?)で得たもの──立命全共闘の停滞。集会の混乱。セクトの引き回しとしか感じられぬ全共闘運動。べ平連など市民運動の多様性に対する共感及び学生運動の到達している質的な高さ──それらと、その運動に「参加」という形で加わっている私との違和感。1時から6.15闘争報告集会がある。私はいかない。なぜ?すべてに失望しているから。アッハハハハハ。(6月16日)

また、友人や家族や恋人とのつながりの中で孤独からの脱却を図ろうとしますが、友人との意見の相違や家族や恋人との決別によって、さらに孤独感を深めていきます。

きのう東京にて。姉と話す。父母と話す。決裂して飛び出す。8:00PM京都につく。非常に疲れている。次第に自分に自信をなくしている。(5月31日)

中村にテレをしたがいなかった。……毎日テレしてもいないということ。どこか出歩いているということ。テレを一回もかけてこないということ。誰が考えてもハッキリしている。彼は会いたくないのだ。一抹の期待も抱いてはならないのだ。きっぱり訣別しよう。中村の好きなシャンソンの一曲「アデュー」を暗い部屋に向って歌った。私はあの若人のもつ明るい笑い声をとうとう失ってしまった。そして、再び「結局は独りであるという最後の帰着点」に私はいる。(6月3日)

そして、彼女の心は、生きることへの意欲と、生きることの苦しみとの狭間で、揺れ動くようになります。

生きることは苦しい。ほんの一瞬でも立ちどまり、自らの思考を怠惰の中へおしやれば、たちまちあらゆる混沌がどっと押しよせてくる。思考を停止させぬこと。つねに自己の矛盾を論理化しながら進まねばならない。私のあらゆる感覚、感性、情念が一瞬の停止休憩をのぞめば、それは退歩となる。怒りと憎しみをぶつけて抗議の自殺をしようということほど没主体的な思いあがりはない。自殺は敗北であるという一片の言葉で語られるだけのものになる。(6月1日)

弱い人間。女なんかに生まれなければよかったと悔む。私が生物学的に女であることは確かなのだが、化粧もせず、身なりもかまわず、言葉使いもあらいということで一般の女のイメージからかけ離れているがゆえに、他者は私を女とは見ない。私自身女なのかしらと自分でいぶかしがる。また、前のように髪を肩のへんまで伸ばし、洋服も靴もパリッとかため、化粧に身をついやせば私は女になるかもしれない。しかし、何に対してそうするのか。中村さんも私がそのようにすれば少しは注目するだろうか。女は身ぎれいにしていないと、社会から端的にその人格を否定される。あ──あ。そんな社会はこっちからお断りする。ただ、それだけのことさ。(6月7日)

結局、未熟さの克服も、孤独からの脱却もできぬまま、彼女は次第に絶望感を深め、ついには、自分の生存そのものへの懐疑を抱き始めるのです。

「人間は何故こんなにしてまで生きているのだろうか。そのちっぽけさに触れることを恐れながら、それを遠まきにして楽しさを装って生きている。ちっぽけさに気付かず、弱さに気付かず、人生は楽しいものだといっている。(6月17日)

これらの文面を読むと、こんな未熟な自分がなぜこの世に存在しているのか、なぜ存在しなければいけないのかという、「自己の生存」そのものに対する疑念が、彼女の内面に広がっていったのがよく分かります。

そして、恋人との別れが決定的となり、彼女はますます孤独感を深めていくのです。

みごとに失恋──?アッハッハッハッ。君。失恋とは恋を失うと書くのだぜ。失うべき恋を君は、そのなんとかいう奴とのあいだにもっていたとでもいうのか。共有するものがなんにもないのに恋だって?全くこっけいさ。……そうさ。君にいま残っているものは憎しみさ。こっけいだねえ。(6月18日)

ちっぽけな、つまらない人間が、たった独りでいる。(6月18日)

そこから聞こえてくるのは、生きることの意味も、しあわせの意味も分からなくなってしまった彼女の悲痛な叫びですが、2月1日には、自殺について、次のように書いています。

私は二、三日前からおかしな考えに取りつかれている。カミソリで指を切り血を流そうという考えである。私は、カミソリをもちそれを一気に引くときの恐怖を考えるとゾッとする。体中の力が抜けてワナワナとなる。お前は自分を傷つける勇気がないのかと励ますがダメである
 今日、カミソリを買ってきた。スッパリと切り赤い血をタラタラと流し真白なほう帯をしようと考えた途端、ヘナヘナと力がぬけてしまった。おそるおそるやっていたら、チクリと痛みが走った。あわてて手を離したのだが、それでも血が出てきた。真っ赤な動脈血であった。

そして、自殺する二日前の6月22日には、死んだ時の事をこう記しています。

私が死ぬとしたら、ほんの一寸した偶然によって全くこのままの状態(ノートもアジビラも)で死ぬか、ノート類および権力に利用されるおそれのある一切のものを焼きすて、遺書は残さずに死んでいくかのどちらかであろう。(6月22日)

またこうも記しています。

今や何ものも信じない。己れ自身もだ。この気持ちは、何ということはない。空っぽの満足の空間とでも、何とでも名付けてよい、そのものなのだ。ものなのかどうかもわからぬ。(6月22日)


旅に出ようー最後の詩に込めた彼女の思い


そして、最後に「旅に出よう」で始まる一遍の詩で、日記は終わっているのですが、この「詩」からは、彼女の心の奥底までもが透き通って見えるような透明感と、何ものをも恐れない、死をも超越した、絶対的安心感のようなものが感じ取れます。


旅に出よう
 テントとシュラフの入ったザックをしょい
 ポケットには一箱の煙草と笛をもち
 旅に出よう

出発の日は雨がよい
 霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
 萌え出でた若芽がしっとりとぬれながら

そして富士の山にあるという
 原始林の中にゆこう
 ゆっくりとあせることなく

大きな杉の古木にきたら
 一層暗いその根本に腰をおろして休もう
 そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
 暗い古樹のしたで一本の煙草を喫おう

近代社会の臭いのするその煙を
 古木よ おまえは何と感じるのか

原始林の中にあるという湖をさがそう
 そしてその岸辺にたたずんで
 一本の煙草を喫おう
 煙をすべて吐き出して
 ザックのかたわらで静かに休もう

原始林を暗やみが包みこむ頃になったら
 湖に小舟をうかべよう

衣服を脱ぎすて
 すべらかな肌をやみにつつみ
 左手に笛をもって
 湖の水面を暗やみの中に漂いながら
 笛をふこう

小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中
 中天より涼風を肌に流しながら
 静かに眠ろう

そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう


彼女の死は、他人の眼から見れば、鉄道自殺以外の何ものでもありません。しかし、その死を彼女の眼から見ると、どうなのでしょうか。「あなたは自殺したのですか?」と尋ねたら、彼女は何と答えるでしょうか。

この詩を読んでいると、「私は自殺したんじゃないよ。この詩に書いたように、旅に出ただけだよ。アッハッハッハッ。」という彼女の笑い声が聞こえてくるような気がしてなりません。

この詩には、彼女が旅立った先が、富士山の麓に広がる原始林(青木ヶ原樹海?)と、そこにある湖と書かれていますが、富士山は、かつては不死の山と呼ばれていました。

竹取物語によれば、かぐや姫は、不死の薬と天の羽衣、そして、帝を慕う心をしたためた文を残して月へ帰ってゆきますが、帝は「かぐや姫の居ないこの世で不老不死を得ても意味がない」と言って、それらを駿河国の日本で一番高い山で焼くように命じられ、それ以来その山は「不死の山」(富士山)と呼ばれるようになったと言うのです。

その不死の山を目指して旅に出ようと、最後の詩にしたためて旅に出た彼女の心境を考えると、かぐや姫が月へ帰っていったように、彼女が帰るべき所、つまり魂のふところへ帰っていったのではないかとしか思えません。

勿論、他人があれこれ考えたところで、その真相は、本人にしか分からない藪の中と言えましょうが、もしかすると、高野悦子自身にも分からないのかも知れません。真相を知っているのは、彼女が欲した「神様」だけなのかも……。

いずれにせよ、全共闘運動は過去のものとなり、私の記憶には、高野悦子という女子学生が自殺したという事実だけが残りました。あれから43年経った今も、彼女の自殺は、私の記憶の中から消え去る事がありません。

それどころか、彼女の死を無駄にしたくないという思いが、心の片隅でくすぶり続けており、その思いは、年月を数えるにしたがって強まりこそすれ、弱くなる事はありません。

そんな思いになるのも、もしかすると、彼女と同じキャンバスで、同じ空気を吸って学んだ人間の一人として、彼女の死に何らかの形で報いなければ申し訳ないという贖罪意識のようなものが、心の奥底に沈殿しているからかもしれません。

個人的な事をお話すれば、富士山の見える地に救済道場を建立したいとの夢をいだき、8年前、その夢が叶い奈良から移り住んだ地が、彼女が旅に出ようと書いた富士の裾野に広がる原始林と湖のある山梨であったという事に、不思議な因縁のようなものを感じています。

今この文章を書きながら、「何故私は、彼女の自殺から40年も経った今になって、彼女の事を思いながら、詩を作り、歌を作ったのだろう。もしかすると、高野悦子が私にこの文章を書かせ、歌を作らせて、何かを伝えようとしているのではないか」、そんな何とも言い表せぬ不思議な感覚に襲われているのも、事実なのです。


彼女が残したメッセージ


60年安保デモによって22歳の若さで亡くなった樺(かんば)美智子。彼女の死に触発されて高校生ながらデモに参加し、後に自らも活動家となって、21歳の若さで自殺した奥浩平。そして、彼の残した『青春の墓標』に強い影響を受け、やがて自らも学生運動に身を投じて鉄道自殺した20歳の高野悦子。

この三人の生き様を見ていると、学徒動員によって戦地に赴き、散っていった若き学生達の事が思いだされます。

勿論、その頃、私はまだ生まれていませんし、その時代の空気も知りません。しかし、戦後生まれの「戦争を知らない子供たち」(注6)の一人である私には、戦中の学徒動員と、戦後の学生運動という、相反するかのように見える彼らの行動の底に、共通する一つの思いが流れているような気がしてならないのです。

それは、国を思い、国の将来を憂い、「わが同胞よ安かれ」と祈る若者の真摯で純粋な思いです。その思い(願い)が、戦中は学徒動員という形で、戦後は学生運動という形で出てきたのは、時代状況が大きく違っていたからですが、問題は、それが彼らの意思だけでそうなったのかという事です。

学生の本分が、学問研究にある事は言うまでもありませんが、学生が持つべきペンを、戦中の学生は銃に、戦後の学生はヘルメットとゲバ棒に持ち替え、空しい闘いに挑んでいかざるを得なかったのは何故か。

いま思えば、それは彼らの意思でも望みでもなく、一人の人間の力ではどうする事もできない巨大な歴史のうねりの中に巻き込まれていかざるをえなかった結果ではないでしょうか。

出征したある学生が、「これから人殺しをしなければならないと思うと、残念でした。いま俺は、そういう時間と空間の流れの中にいるんだ。 俺はいやだというわけには行かない。一つの諦めでした」と語っているように、ひとたび巨大な歯車が動きだせば、時間は怒涛のごとく流れ出し、もはやいかなる力を以てしてもくい止める事はできず、否が応でも、そのうねりの中に引きずり込まれてゆかざるを得ないのです。それが、先の戦争であり、形を変えた戦後の学生運動という闘いなのではないでしょうか。

戦中の学徒動員や戦後の学生運動を見れば、そこには形こそ違え、国を思い、国の将来を憂いながらも、決して逆らうことの出来ない巨大な時代のうねりに翻弄されていかざるを得なかった当時の若者の悲しい姿があります。高野悦子も、そんな学生の一人だったのではないでしょうか。

入学当初、彼女は立命館史学にあこがれ、希望を抱いていました。しかし、やがて、自分の意思とは関係のないところで動き出した安保闘争や学生運動の流れの中に、否応なく巻き込まれていったのですが、その時の彼女の心の動きが、日記には克明に記されています。

ヘルメットの学生がマイクを口にあててアジテーションをしている。彼らには歴史がある。彼らは、現実そのものに歴史がある。私は私の歴史をもっていない。ノンセクトから無関心派への完全なる移行、激しい渦の前でとまどいを感じる。動け?(1月17日)

民青を支持したとしても、反民を支持したとしても、どっちにしろ批判と非難はうける。絶対に正しく、絶対に誤っているということはないのだ。どっちかを支持しなくては行動できないのかもしれないが。(1月23日)

「君は代々木系か反代々木系か」という問いを不信な敵意に満ちたまなざしで投げかけられる。しかも一年間、同じ机で学んだクラスの友達からその眼ざしを受けると私は寂しく悲しくなる。真剣に不信も無力感も感じてはいるが、何の態度も表明できずにいる無力な私、どっちもどっちだと考えることで辛うじて己れの立場を守っている私。ああ──!そんなセンチメンタリズムは捨て去ってしまえ!強くなるのだ!強くなれ!「もうこうなっては傍観者ではいられない」この言葉をまた今あらためて言わざるを得ない。そういえばいつもそう言って来たっけ。でも今度こそ!傍観は許されない。何かを行動することだ。その何かとはなんなのだろう。(2月1日)

こうして彼女は、行動しなければいけないと、何度も自らに言い聞かせながら、学生運動という大きな流れの中に呑み込まれていったのですが、それは、彼女の意思というよりも、彼女を取り巻く時代の空気であり、その空気の中では、行動する以外の選択肢はないと思いつめたのかも知れません。

最初の内は、彼女なりの抵抗も試みますが、やがてその空気は彼女の体内を覆いつくし、彼女の意思をがんじがらめにしばってゆきます。彼女を自殺に追いやったものが何かは、神ならぬ身に分かる筈もありませんが、少なくとも学生運動という1970年代の大きな時代のうねりが、彼女を翻弄した事だけは否定できないでしょう。

勿論、私のように、どちらにも属さなかったノンポリ(無党派)の学生が大勢いた事も事実であり、全共闘運動が全国の大学に拡大していったとは言え、戦中の学徒動員のように、すべての学生を巻き込むほどの巨大なうねりになりえなかった事も事実です。

しかし、巨大なうねりも、最初はたった一滴の波紋から始まるのです。最初はいくら小さくても、次第に大きなうねりとなり、ついには誰も止める事のできないほどの大きさに膨れ上がるのが、時代のうねりというものではないでしょうか。

東日本大震災で、三陸沿岸から関東沿岸の広い範囲にわたって押し寄せた巨大津波をみれば分かるように、時代のうねりも、放置すれば、必ず私達に災いをもたらします。その証が、過去に何度も繰り返されてきた戦争です。

いまわが国を取り巻く世界情勢が、日々緊迫化しつつあることは、もはや周知の事実です。尖閣諸島、竹島、北方四島などの領土問題をはじめ、ギリシャ国債に端を発したヨーロッパ経済の金融危機問題、深刻化する温暖化問題、やむ事のない無差別テロによる大量殺戮と貧困飢餓問題、そしていじめ問題や自殺問題等々、国内外に山積する難問は増加の一途を辿り、負のうねりが、少しずつですが、その大きさを増して迫りつつあるのは、誰の目にも明らかです。

将来、この負のうねりが、どのような形で私達や子々孫々に災禍をもたらすかは、誰にも分かりません。しかし、いかに小さなうねりであろうと、それを放置すれば、必ず禍根を残す結果を招くでしょう。だからこそ、禍根の種は、小さい内から、摘み取っておかねばならないのです。そして、それができるのは、私たち一人一人の平和を願う心であり、絶え間ない努力しかありません。

1969年、一部の立命館全共闘学生の手によって破壊された、戦没学生記念像「わだつみ像」の台座には、末川博立命館大学総長の手になる碑文が刻まれています。

未来を信じ未来に生きる。そこに青年の生命がある。その貴い未来と生命を、聖戦という美名のもとに奪い去られた青年學徒のなげきと、怒りと、もだえを象徴するのがこの像である。
 なげけるか いかれるか はたもだせるか きけ はてしなきわだつみのこえ

ひとたびは破壊されたものの、「わだつみ像」は、1976年に再建され、平和を願って散っていった戦没学徒の声なき声を、いまも発信し続けています。

「平和の大切さ 」──言いふるされた言葉ですが、戦争の悲惨さを伝える体験者が減少の一途を辿り、戦争体験の風化が叫ばれている昨今だからこそ、高野悦子の自殺の意味が、改めて問い直されてもいいのではないかと思います。

合掌

平成24年8月23日




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『二十歳の原点』
著者:高野悦子
新潮社:改版 (2003/05)

 

 

(注1)1968年5月、22億円にも上る使途不明金が発覚して、大学当局に対する学生の不満が一気に爆発した。日大全共闘が結成され、大学側との大衆団交が行われたが、大学内の建物をバリケード封鎖するなどしたため、機動隊が突入し、多数の逮捕者やけが人が出たが、これを機に沈静化していった。

(注2)1968年2月、医学部インターン問題をめぐる学生への不当処分を発端として、大学当局に対する抗議活動が高まり、安田講堂を一時占拠するなどした。東大全共闘が結成され、バリケード封鎖の中、当局との大衆団交が行われたが、最後まで安田講堂を占拠していた全共闘派の一部学生を排除する為、機動隊が導入され、東大紛争は沈静化していった。しかし、機動隊導入は、大学自らの手による大学自治の放棄だとして、学生や教職員の反発を招く結果となり、これ以降、全共闘運動は全国の大学へと、燎原の火の如く広がっていった。

(注3)代々木系とは、代々木に本部を置く日本共産党を指し、反代々木系とは、日本共産党の路線に反対する左派を指す。

 

(注4)戦没学生の悲痛な戦争体験を後の世に伝えるために製作された戦没学生記念像。
「わだつみ」の「わだ(わた)」は朝鮮語の「パタ(海)」に由来し「わだつみ」は、「わたのかみ」と同義で「海をつかさどる神」を意味する。
1949年10月20日、東京大学協同組合出版部から、全国の戦没学生が遺した手記『きけわだつみのこえ―日本戦没学生の手記』が刊行されて大きな反響を呼び、刊行収入をもとに、日本戦没学生記念会(通称「わだつみ会」)が「わだつみ像」製作を計画する。
当初は、事務局がおかれていた東京大学に設置する予定であったが、朝鮮戦争さなかの1950年12月4日、大学当局が設置を拒否し、以来設置場所が決まらぬまま2年余りも宙に浮いた状態であったのを惜しんだ立命館大学の末川博総長が受け入れを表明し、学内外の強い支持もあって、太平洋戦争開戦の記念日に当る1953年12月8日、立命大・広小路キャンパスにおいて建立除幕式が行われた。翌1954年からは、毎年12月8日前後に「わだつみ像」の前で「不戦のつどい」が開かれるようになった。1965年5月20日、立命館紛争の中で、一部の全共闘学生によって破壊されるが、1976年再建され、現在は立命館大学国際平和ミュージアムに展示されている。

 

わだつみ像
(立命大・広小路キャンパス)

 

 

 

 

 

 

 

 

(注5)1943年10月9日、東京に生まれる。1959年、都立青山高校に入学し、翌年、安保闘争デモで死亡した東大の女子学生・樺(かんば)美智子の死に触発されて、自らも高校生ながら安保闘争に参加する。一浪した後、1963年横浜市立大学文理学部に入学し、中核派に加盟して、原潜寄港阻止闘争や日韓会談反対闘争に参加。1965年2月、羽田で行われた椎名悦三郎外相訪韓阻止闘争で警官隊と衝突し、警棒で鼻骨を砕かれ負傷して入院する。退院後の3月6日、自宅で大量の睡眠薬を服用して自殺する、享年21歳。
自殺の動機は、高校時代から付き合っていた恋人との別れによる苦悩が原因と言われている。恋人は、早稲田大学入学後に革マル派に所属していたが、彼が加盟した中核派と革マル派は、日本共産党を批判して結成された新左翼「革命的共産主義者同盟」(革共同)という組織から生まれたものの、運動方針の違いから、激しい党派抗争を繰り広げていた。そんな中、恋人との関係も、党派抗争に巻き込まれてギクシャクし、やがて袂を分かつ事になる。彼の死後、発見された日記や友人への手紙をまとめ、1965年10月、文藝春秋社より出版されたのが、『青春の墓標』である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注6)北山修が作詞、杉田二郎が作曲し、ジローズが歌ってヒットした反戦歌。

1.戦争が終わって 僕等は生れた
 戦争を知らずに 僕等は育った
 おとなになって 歩き始める
 平和の歌を くちずさみながら
 僕等の名前を 覚えてほしい
 戦争を知らない 子供たちさ

2.若すぎるからと 許されないなら
 髪の毛が長いと 許されないなら
 今の私に 残っているのは
 涙をこらえて 歌うことだけさ
 僕等の名前を 覚えてほしい
 戦争を知らない 子供たちさ

3.青空が好きで 花びらが好きで
 いつでも笑顔の すてきな人なら
 誰でも一緒に 歩いてゆこうよ
 きれいな夕日が 輝く小道を
 僕等の名前を 覚えてほしい
 戦争を知らない 子供たちさ
 戦争を知らない 子供たちさ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

立命館大學
国際平和ミュージアムに
展示されているわだつみ像

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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