桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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いまのぼくにとって




いまのぼくにとって

作詞・作曲  大西良空


都会では自殺する 若者が増えているからと
 深刻そうな顔をして 誰かがしゃべってた
 でもいまのぼくにとって 深刻なのは終電車
 いつも見慣れた駅の灯りが 遠く感じられて
 ひとりホームにたたずみ テールランプを見送れば
 冷たい雨がこころに 凍みてくるのさ

世界には争いや 貧困の中であえぎながら
 懸命に生きている人が いるのは知っているけど
 でもいまのぼくにとって 悲しいのは待ちぼうけ
 イヴの夜にはいつもの店で 遇おうと言ってたのに
 華やかなベルの音色が 虚しくこころにこだまして
 夜空を舞い散る粉雪も 泣いているのさ 

でもいまのぼくにとって 恨めしいのは今日の雨
 野外ライブの会場には 誰も来ていない
 ラジオをつければ大きな 笑い声が聞こえている
 誰もが他人のことなど 知らずに生きている
 みんな自分の知る世界しか 生きられないから

 



私たちが生きている世界


私たちの住む世界では、一時間は60分、一日は24時間、一週間は7日、一年は365日と決まっています。これは、日本であろうが、アメリカであろうが、ヨーロッパであろうが、地球のどこへ行っても変わりありません。

しかし、この地球上に、一時間が60分、一日が24時間とは決まっていない所が、一ヶ所だけあるのをご存知でしょうか。しかも、私たちの最も身近な所に。

皆さんは、好きな人と遇っている時、一日がとても短く感じたり、嫌いな人と遇っている時、数十分が何時間にも感じたりした経験はありませんか。またテレビ番組を見ていて、一週間前に見た番組が、つい先日見たような錯覚を覚えたことはないでしょうか。

このように同じ時間が短く感じたり長く感じたりするのは、もっと好きな人と一緒に居たい、嫌いな人と早く別れたいという思いが、そう感じさせているからです。

もうお分かりですね。一時間が60分、一日が24時間と決まっていない世界とは、私たちの心の世界なのです。

では、私たちが実際に生きているのは、どちらの世界なのでしょうか。一時間が60分と決まっている世界なのでしょうか。それとも決まっていない心の世界なのでしょうか。

恐らく大部分の人は、「一時間が60分の世界に決まっているじゃないか」と答えられるでしょうが、確かに私たちは、一時間が60分の世界に生きているように見えます。

しかし、実際は、一時間が短く感じたり長く感じたりする心の世界に生きているのが、私たちなのです。


心は巧みな画師のごとし


『華厳経』というお経には、「心は巧みな画師のごとし。種々の五陰(注1)を描き、一切の世界の中の法(注2)として造らざるはなし」と説かれています。

つまり、あたかも名画家が自由自在に絵を描くように、私たちは、心という絵筆を使って、自分が生きるありとあらゆる世界を描き出していると説かれているのです。

自分が生きる世界を心で作り出しているとは、どういう事かと言いますと、もし私たちの生きる世界が、一時間が60分と決まっている世界でしかなかったとすれば、人間の幸不幸は最初から決まっていたでしょう。

例えば、病弱で、お金や物に恵まれない貧しい人生と、健康で、お金や物にも恵まれた豊かな人生のどちらかがいいかと言えば、きっと百人が百人とも後者の人生を選ぶに違いありません。何故なら、誰もが後者の人生の方が幸せだと思っているからです。

そして、私たちの生きる世界が、一時間が60分と決まっており、人生の歯車がそう決められた通りに回転してゆくのであれば、健康でお金や物に恵まれた人生は、必ず幸せになれるでしょう。

ところが、世の中を見ると、必ずしもそうとは決まっていない事が分かります。

いくらお金や物に不自由のない生活を送っていても、決して幸せそうに見えない人もいれば、家族が肩を寄せ合ってつつましく暮らしているのに、毎日笑いの絶えない家もあります。

健康に恵まれているのに、毎日不平不満の心を抱きながら、愚痴ばかりこぼしている人もいれば、闘病生活をしているのに、感謝の心を忘れず毎日心豊かに暮らしている人もいます。

何故そんな不思議な事が起こるのかと言えば、私たちが生きている世界には、心という一時間が60分とは決まっていない世界があるからです。

お金や物や健康に恵まれている人が必ずしも幸せになるとは限らず、そうでない人が必ず不幸になると決まっていないのは、私たちが心の世界を生きているからであり、人間の幸不幸が、心の持ち方一つによって決まるからです。


知っている世界の中でしか生きられない


私たちが、心で描き出した世界で生きているという事は、言い換えれば、自分が描き出し、自分が知っている世界の中でしか生きられないという事です。

私たちにとって、生きるとは、自分が知っている限りの世界を生きる事であり、知らない世界を生きる事は出来ないのです。

自分が知らない世界は、生きる上では存在しないのと同じです。

この地球上には、自分が知らない国々や、一度も耳にした事のない都市がたくさんあります。否、この狭い日本の中でさえ、生まれて一度も聞いたことのない町や村がたくさんあります。地図をご覧になれば、名前さえ知らない町や村が、まだまだたくさんある事に驚かれるでしょう。外国には、名前さえ読めない町や村が無数にあります。

これらの町や村は、間違いなくこの地球上に存在しています。しかし、それらの町や村を知らないという事は、私たちが生きていく上において、それらの町や村は存在していないのと同じなのです。

いま地球上には、69億人の人がいると推定されていますが、この内、自分が生涯に出会う人は何人いるでしょうか。恐らく微々たる数に過ぎないのではないでしょうか。69億の人々がいても、その大部分は自分にとってまったく知らない人々であり、自分の人生においては、存在していないのも同然の人々と言っていいでしょう。

私たちは、広い世界の中で生きているように錯覚し勝ちですが、実際は、自分が知っている範囲内での人々や世界の中で生きているに過ぎず、私たちが生きている世界は、想像以上に小さな世界なのです。

「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉がありますが、所詮私たちが生きている世界は、「井の中の蛙」の世界に過ぎないのです。


他人のことを何も知らない私たち


いてさえ、私たちは何も知らずに生きているのではないでしょうか。

結局、私たちは、井の中で出会うわずかな人々のことさえ、何も知らずに生きているのではないかと思うのです。他人が何を思い、何を悩み、何に苦しんでいるのか、何も知らないし、知ろうともせず、ただ自分の事のみを考えて生きているだけなのです。

しかし、人間と生まれながら、自分が生きている世界の事も、生涯出会うであろう人々の事も、何も知らずに生き、そして死んでゆかねばならないとしたら、とても悲しい事ではないでしょうか。

また人間と生まれて、自分の喜びや思いや悩み苦しみを誰にも打ち明けられず、打ち明ける人々もいないまま生き、やがて死んでゆかねばならないとしたら、これほど寂しい人生はありません。

世の中を見れば、多くの人々が悩み、苦しみ、あえぎながら、生きていますが、私たちは、ただ悩み苦しむ為だけに生まれてきた訳ではありません。

私たちの人生はもっと豊かで、もっと有意義である筈なのです。

心の扉を大きく開き、ちっぽけな井の中の世界から、どこまでも広がる広大無辺なる大海原に飛び出せば、きっと今まで知らなかった世界が目の前に広がり、知らなかった人々の声が聞こえてくるに違いありません。

合掌

平成23年2月5日




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(注1)五陰(ごおん)とは五蘊(ごうん)とも言い、人間を含めて、この世に存在する全ての物を構成している五つの要素を指す。般若心経に説かれる「色、受、想、行、識」がそれで、色とは物質的存在、受、想、行、識は精神的作用を意味する。

(注2)一般的に法とは、三宝(仏法僧)の一つに数えられるこの世の真理そのものを意味するが、ここで使われている法は、この世に存在しているすべてのものを指す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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