桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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いのちみな輝いて




いのちみな輝いて

作詞・作曲  大西良空


過ぎ去りし なつかしき日々の
 アルバムを ひもとき
 そっとまぶたを 閉じればあの頃の
 思い出がいまも よみがえってくるの
 いのちみな輝いて しあわせを奏でている
 愛し 愛され 尽し 尽されて
 人はみな 生きている喜びを 知るのさ

野辺に咲く 可憐な花たちも
 まぶしく 輝いて
 いのちの限り いまを生きている
 それが余りにも 美しすぎて
 いのちみな輝いて しあわせを奏でている
 愛し 愛され 尽し 尽されて
 人はみな 生きている尊さを 知るのさ

暮れなずむ 夜空を見上げれば
 涙が あふれて
 見るものすべてが ひかり輝き
 気高さに みちみちているから
 いのちみな輝いて しあわせを奏でている
 愛し 愛され 尽し 尽されて
 人はみな 生きているしあわせを 知るのさ

いのちみな輝いて しあわせを奏でている
 愛し 愛され 尽し 尽されて
 人はみな 生きてゆく勇気を 知るのさ

 



いのちある世界への感動


自殺者と同じように、死を目前にしながら、死は生きる為にこそ見つめなければならない事を、身を以て示してくれている人々がいます。

それは、末期癌の患者さんや、不治の病に侵された人々ですが、この人たちにとって、死は、もはや未来のいつかではなく、あと数年、あと数ヶ月、否、あと数週間のうちに訪れる、目前に迫った現実なのです。

いのちある者は、みな必ず死ななければなりませんが、その死は、健康な私達にとっては、まだ未来のいつかに過ぎません。10年後か、5年後か、1年後か、はたまた1ヶ月後かは分からないけれど、いつ死ぬかはまだ漠然とした未来のいつかなのです。

しかし、末期癌の患者さんや不治の病に侵された人々にとって、死とは、目を背けようとしても背けることの出来ない、目前に迫った現実なのです。

今まで漠然とした存在でしかなかった死が、現実のものとして目前に迫ってきた時、人は何を思い、何を感じるのでしょうか。

絶望したり、自暴自棄に陥ったりする人も勿論いるでしょうが、いのちに対する感動を口にする人々も決して少なくありません。

柳田邦男氏の『「死の医学」への序章』には、そのような事例がいくつも紹介されていますが、例えば、国立千葉病院神経科の医長であった西川喜作医師の闘病記には、次のように記されています。(同書から引用)

数々の思い出が私の脳裏をかすめ去った。不愉快な記憶、悲しい記憶、嫌な記憶が、どれも懐かしく美しいものにさえ感じられる。私はいま、生きることの素晴らしさを感謝している。いままで私には何故、この素晴らしさを感じとれなかったのか。妻は床を掃き、テーブルを拭き、風呂に水を張って忙しく立ち働いている。忙しく動きまわっている妻の姿は美しかった。

また癌で亡くなった作家の高見順氏が、死の一年前に書いた「電車の窓の外は」と題する詩にも、同じような感動が綴られています。

 電車の窓の外は
  光りにみち
  喜びにみち
  いきいきといきづいている
  この世ともうお別れかと思うと
  見なれた景色が
  急に新鮮に見えてきた
  この世が
  人間も自然も
  幸福にみちみちている
  だのに私は死なねばならぬ
  だのにこの世は実にしあわせそうだ
  それが私の心を悲しませないで
  かえって私の悲しみを慰めてくれる
  私の胸に感動があふれ
  胸がつまって涙がでそうになる

更に癌のため31歳の若さで亡くなった大阪の井村和清医師も、『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』の中で、次のように書いています。

その夕刻。自分のアパートの駐車場に車をとめながら、私は不思議な光景を見ていました。世の中が輝いてみえるのです。スーパーに来る買い物客が輝いている。走りまわっている子供たちが輝いている。犬が、垂れはじめた稲穂が雑草が、電柱が、小石までが美しく輝いてみえるのです。アパートに戻って見た妻もまた、手を合わせたいほど尊くみえたのでした。

言うまでもありませんが、この時、西川医師や井村医師や高見順氏が見た光景は、私たちが見ている世界と別の世界ではなく、私達が毎日目にしている日常のごくありふれた光景なのです。

西川医師も井村医師も、甲斐甲斐しい奥さんの姿や周囲の風景を、毎日嫌というほど見てきた筈ですが、今まで見ていた光景が、光り輝いて見えたのは、病によって自らの死を自覚したからであり、死が見えた瞬間、いま生かされているいのちが、一層いとおしく、尊く、かけがえのないものとして胸に迫ってきたのです。


生花と造花の違い


菩薩様はよく「無常の域という終着駅に到達しなければいけない」とおっしゃっておられましたが、無常の域とは、自己の死への自覚と言い換えてもいいでしょう。

私はよく「何故人は死ぬのでしょうか。何故私達に死というものが与えられているのでしょうか」というお話をしますが、死はただ死ぬ為だけに与えられているのではないと思います。

例えば、本堂にお供えしてあるお花も、今は綺麗に咲いていますが、やがて何日かしたら枯れてゆきます。何故花は枯れるのかと言えば、生きているからです。生きているから、しおれ、枯れ、散っていくのです。

そして生花は、散っていく事を知っているからこそ、それまでの限られた一瞬一瞬のいのちを懸命に生き、その晴れ姿を見せてくれているのです。

もしこの花が、造花だったらどうでしょうか。造花は枯れません。何故なら、造花には、命がないからです。当たり前ですね。ですから、命のない造花にとって、死は何の意味も持ちません。

それに対し、生きている生花は、必ず死にます。これもまた自明の理ですが、それ故に死は、限りあるいのちを生きる生花にとって、とても大きな意味を持っているのです。

その違いは、生花と造花の美しさの違いを比べてみれば、よく分かると思います。生花を見て、誰もがその美しさに見とれ、心を癒されるのは、やがて枯れ散ってゆかねばならぬ自らの限りあるいのちを、精一杯生きているからです。

勿論、造花には造花の美しさがあります。しかし、造花が生花に及ばないのは、生花のようないのちの美しさを持っていないという事です。造花が持つ美しさは、あくまで作り物の美しさ、人間が人工的に作った美しさに過ぎません。

いのちのない造花は、どれほど美しく作られていても、いのちのある生花の美しさにはかなわないのです。その代わり、造花は、病気もしないし、枯れもしないし、死にもしません。でも、いのちのある生花や私たちは、生きているからこそ、病み、老い、死ぬのです。

いのちある者と、いのちなき者のこの決定的な違いは、その生き方に大きく影響します。

いのちのない造花は、どのように生きようとか、どのように生きれば美しくなれるかというような事を考える必要はありません。もうこれ以上、変りようがないからです。

しかし、私達は、いのちがある故に、どのような姿にも変わり得る可能性を秘めています。美しくなる事もできれば、醜くもなる事もできるのです。

そして、美しく生きたいと思うなら、このいのちをどのように生きれば、より美しく花開かせる事が出来るか、この世に生まれてきた目的は何なのかを考えなければなりません。

日々刻々と変化し続けるいのちだからこそ、よりよく生きる道をさがし求めなければならないのです。

勿論、そんな難しい事を考えなくても、生きてゆく事は出来るでしょう。

しかし、かけがえのない人生をよりよく生きようと思えば、ただ時間の流れるままに身を任せているだけでは、その思いを遂げる事は出来ません。

まさに、与えられたいのちの生き方、生かし方を考える事は、いのちを与えられた者の宿命と言ってもいいでしょうが、いのちの生き方、生かし方を考える上で決定的に重要な事は、菩薩様が「無常の域という終着駅に到達しなければいけない」とおっしゃっておられるように、いのちあるものには必ず死があるという当たり前の事実を自覚しているか否かです。

そして、死がまだ漠然としている状態のまま生きているいのちと、死を自覚して生きるいのちとでは、生きる意味が根本的に違ってくる事を、身をもって実証してくれているのが、西川医師や井村医師や高見順氏なのです。


死刑囚と無期囚


昔から「楽の中に楽はなく、苦があってこそ初めて楽を知る」と言われますが、生だけを見つめていては、いのちの本当の尊さは分かりません。死を自覚して初めて、生きる事の尊さ、生かされている事の有難さが、身に迫ってくるのです。

柳田邦男氏の前書には、癌と分かって死期が見えている人は、喩えれば死刑囚であり、私達一般人は、まだ死が見えていない無期囚であると書かれていますが、何故そうなのでしょうか。

死刑囚と無期囚のうちで、刑務所の中で生き生きと生活しているのは、死刑囚なのだそうです。何故かといえば、死刑囚には、必ず死が待っているから、残されたいのちを精一杯生きようとするのに対し、無期囚は、刑務所へ何年入っているのか決まっていないため、どうしても緊迫感がなく、生き生きとした生活が出来ないというのです。

この事は、死を自覚する事が、よりよく生きていく上において非常に大切な意味を持っている事を示唆しています。

 どこから来るか 桜の花は
  春のえにしで 咲くという
  裸で生まれて 裸でかえる
  無常教える花吹雪 花吹雪

 いのち短し 桜の花も
  可愛い笑顔に 薄化粧
  晴の振袖 人世に見せて
  咲けと教える 花仏 花仏

これは、御法歌「無常教える花仏」の一節ですが、もし私達のいのちが永遠であったなら、人間はもっと傲慢で、横柄な生き物になっていたかも知れません。

しかし、私達のいのちは限りがあり、死は万人に平等に訪れます。

どんなに金持ちであっても、権力者であっても、健康な人であっても、死は分け隔てなく訪れ、すべてを裸で生まれてきた振り出しにもどし、裸で生まれてきた者は、再び裸になって帰っていかなければならない事を万人に教えているのです。


生きる為に死を見つめて


西川医師は、

「実は私も病を持っているのです。ガンなのですよ。もう転移していますから、あまり先が長くないだろうと思うのです。私も死にたくないし、暗澹たる気持ちにもなりました。しかし、人間が病いを得ることは、決して悪いことではないと思うのです。その人の生き方や人生の一つの姿として現れたのが、病いであるとするなら、むしろそれを友として生きていくという考え方が、大事なのではないですか。病いを見つめることによって、生きることの意味と喜びが、よりはっきり分かってくる。私はいま、死を見つめることによって、生きることを考えたいと思っているのです。」

とおっしゃっておられますが、恐らく病気になるまでは、そのような事は考えもしなかったのではないでしょうか。

そして、癌という重い病に侵されて初めて、自分の死を自覚し、生きるとはどういう事か、これから残された人生をどのように生きていくべきかという事を真剣に考えられたに違いありません。

自己の死を見つめる事によって、生きる事の意味を考えた西川医師の目に映ったものは、今まで何気なく見てきた奥さんの輝くような尊い姿であり、生きることの素晴らしさ、生かされている事への感動だったのです。

死を見つめる事によって、人は初めて心底から、いのちの尊さを感じ、生きる事の本当の意味を悟る事が出来るのだという事を、西川医師や井村医師は証明して下さったのです。

死を目前にした人々が、みな共通して、自分の周りの光り輝く世界に対する感動、生きていることの尊さ、生かされている事への感謝を力説している事実を前にして、改めて考えさせられるのは、自らいのちを断とうとする人々のことです。

何故なら、この人々もまた、感動を綴った人々と同じように、死というものに直面している筈だからです。

勿論、死に直面しているとは言っても、前者が、不治の病という、生きたくても生きられない状況に置かれている死であるのに対し、自殺者は、生きられるのに自らの意志で選んだ死である点で、大きく異なりますが、少なくとも、私達一般人よりは、より身近に死を直視している事は間違いないでしょう。

それだけに、自殺者が直面している死を、死ぬ為に見つめる死ではなく、西川医師や井村医師が身をもって示して下さった、よりよく生きる為に見つめる死へと価値転換する事が出来れば、必ずやそこに新たな救いの道が開かれるに違いありません。

もしいまあなたが、自らいのちの灯を吹き消そうと考えているなら、もう一度、その死を生きる為に見つめ直して欲しいのです。死は、よりよく生きる力と希望を取り戻す為に見つめるべきものであって、死ぬ為に見つめるべきものではないからです。

あなたは今、生きる力と希望を失いかけているのかも知れませんが、あなたが死ぬ事を考えているその裏には、死を見つめることによって、生きる力と希望を取り戻して欲しいという、あなたのいのちからのメッセージが隠されているのです。

生きる力と希望を、もう一度取り戻して欲しいから、あなたに死を見つめさせているのです。

自殺したいという意識が強ければ強いほど、生きる力を取り戻して欲しいと願うあなたのいのちの思いも強い証拠なのだと深く自覚し、死ぬ為に死を見つめるのではなく、生きる為に死を見つめ直して欲しいのです。

合掌

平成21年12月18日

まだ見ぬあなたに




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『死の医学への序章』
著者:柳田邦男
新潮社 (1990/10)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』
著者:井村和清
祥伝社 (2002/06)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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